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霊的ゲスの勘繰り

言葉遣いがだんだんお下品になってきましたが、学習者であればきっと赦してくださると信じて(笑)、このタイトルで行きます。

ただしこのタイトルは、「霊的「ゲスの勘繰り」」なのか「「霊的ゲス」の勘繰り」なのかによって、意味が微妙に異なってきますが。

それはともかく、たまたま開いたテキストの個所を編集前のテキストと見比べていて、代名詞などが微妙に変更されていることが気になり、これはどうかと思ったんですね。

ただしこれは別に恣意的な改変ではなく、変更後の文章、つまりFIP版ですが、この方が文章の流れとしてはすっきりしたものになっています。

言い換えると、編集前のテキストだと、そうした代名詞の使い方は、微妙に違和感を感じさせるものなので、変更されたのはもちろん、それはそれで気持ちはわからなくもありませんが、しかし、もしもこの編集前の代名詞の使い方でよかったとすると、ちょっと気になる可能性が浮かび上がってきました。

先に結論を言うと、これは、もしかするとヘレンさんは、ビルさんもまた神の子であり神聖な存在である、ということを認めることに、何かとてつもない抵抗があったのですが、しかしそのことを決して自覚することができずじまいだったことによるのではないか、という可能性が感じられます。

というのは、これらの個所は、変更前は、兄弟とともに実践する、あるいは兄弟に対する見方に関して実践するような描写になっている可能性があったところが、現行のテキストでは、ただ自分の中だけで実践が完結するものであるかのように、代名詞が変更されているからです。

ただしこれは、ダブルミーニングであった可能性がある、つまり、対人関係における実践とも、自己内完結型の実践とも、どちらとも受け取れるため、代名詞を変更したとしても、それは致命的な間違いということではない、ということは念を押しておきます。

というのは、自分が知覚する兄弟の姿は自分の心の中にある、というワンクッションを挟むことで、ここのずれは解消されるからです。

ただし、こうした事実からは、このずれを持ち込むことにより、奇跡講座によってイエスさんが伝えようとしたことのうち、対人関係的な側面が抜け落ちてしまったということも、同時に示唆されていますし、このことはまた、私がテキストとワプニック博士の解説とを照らし合わせていて感じた違和感とも合致します。

では、具体的にみていきますね。

T-14.VII.6:10 なんですが、ここで公認訳のテキストでは「あなたたちの両方が一緒に」というところの「あなたたち」が太字になっています。

つまりFIP版ではここは、「both of You together」と大文字になっていますが、この箇所は編集前のテキストでは小文字の「you」でした。

これはどういうことかというと、つまり、FIP版ではこれはおそらく、聖霊と自分とのことを指していると捉えたのでしょう。

そのため、ここには聖霊が含まれているということと、自分は神の子であるということから、「You」としたのではないかと推測されます。

しかし、編集前のテキストではここが「you」となっていたことから示唆されるのは、これは、自分と相手のことを指していた可能性があるわけです。

つまり、編集前の場合にはここは、「兄弟と一緒に、聖霊の光と自分の暗い秘密(cf. T-14.VII.6:8)を見てみよう」ということなわけですが、FIP版ではこれは徹頭徹尾、ただ聖霊と自分とのことであると捉えられる表現になっている、というわけです。

ただし、繰り返しますがこれは、「You」とした方が話の流れとしては「自然」になります。

というのは、この辺りの話は聖霊は登場していますが、ここだけいきなり兄弟が顔をのぞかせるのは、いかにも唐突すぎる印象があるからです。

なので、「you」ではなく「You」とした方が「心理的に自然」な感じがする、というのは実際あります。

しかしここで、兄弟との対人関係ではなく、あたかも自分の中だけのことであるかのようなことになったというのもまた事実です。

要するにこうしたところでは、兄弟と聖霊とが重なって表現されているために、どちらとも受け取れるような言葉遣いになっている、という可能性が考えられるからです。

では、もう一か所挙げてみます。

T-11.II.3:2-7; 4:1-2 ですが、ここは公認訳と、それを基に、編集前のものを仮に訳したものとを並列させますね。

(公認訳)

あなたは自分の一部だけを否定することはできない。そうするなら、残りの部分は分離していて意味がないかに見えるからである。そして自分にとっては意味なきものとなったそれを、あなたは理解しない。意味を否定するとは、理解できなくなるということである。あなたに癒せるのは自分自身だけである。なぜなら、神の子だけに癒しが必要だからである。あなたにそれが必要である理由は、あなたが自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、あなたには自分が本当は何を望んでいるのかがわからない。

癒すということは、全一にしたいとあなたが望んでいるしるしである。そして、この意欲により、あなたの耳は、全一性のメッセージを伝える聖霊の声を聞こうとするようになる。

(編集前)

自分の一部を否定する、ということはできない。というのはそうすると単に、残りの部分が、未統合であるがゆえに意味がない、というように見えるからである。そして自分にとって意味がないので、それを理解することができなくなる。意味を否定することは、理解しないようにするということである。

あなたにできるのは自分自身を癒すことだけである。神の子だけが癒しを必要としているからである。彼にそれが必要である理由は、彼は自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、彼は自分が何を望んでいるのかがわからない。癒しとは、彼は全一にしたいと望んでいる、と告げることである。そしてこの意欲が、彼自身の耳を聖霊の声に対して開く。聖霊のメッセージは全一性である。

以上です。

編集前のテキストでは、段落の区切りが異なっています。

というわけで、現行のテキストではここは、自分に対してのことであるとされていますが、編集前のテキストではここは、「彼」のことであるとされています。

これは、『神の使者』のこの言葉を連想させます。

「内側を赦すための唯一の方法は外側にあると思えるものを赦すことだ」(p.226)

これはゲイリーさんが感じた以下の疑問に対するアーテンの答えです。

「ちょっと待って。憎悪や罪悪感を含めたぼくの心の中身は象徴的にぼくの周囲に存在するのだとしたら、外部だけを認識する身体と脳にしばりつけられているぼくがほんとうに自分の内側を見ることなんて、どうしたらできるんだろう?」(ibid、p.226)

だからこそ、内側を赦すために相手の姿を見る、というのは、方法としてまさにそのまんまだというわけです。

なぜなら、自分が、相手の姿だと見ているものは、自分の心の中の投影だからだ、というわけですね。

なので先の箇所は、「あなた」ではなく「彼」だとすると、極めて実践的なことが書かれていたことになる、と私は感じたというわけです。

ただしここで、「彼」ではなく「あなた」だとすることは、相手は実際はどうなのか、ということにアプローチすることを回避することになりかねません。

つまり、自分の知覚は本当に幻想だったということを検証する機会を自ら閉ざすことになりかねません。

そうすると、果たして訂正がうまくいっているのか、それとも間違いをさらに隠蔽してしまっただけなのかを知ることができなくなります。

これは例えば、ワークブックのレッスン52の次の記述とも絡んできます。

「実相は決して恐ろしいものではない」(W-pI.52.1:2)

つまり、実践が自己内完結しているとき、それは同時に、実相は果たしてどうなのかを知ることを回避しているということです。

で、以下は私なりの理解であるということをお断りした上で述べます。

例えば、W-pI.53.1:3-4 ですが、「この世界を生み出しているものは狂気であり、この世界が生み出すものも同様である。実相は狂ってはいないし、私には狂気の考えだけでなく、真の想念もある」と書かれています。

ここで通常のコース解釈では、世界とは狂気の産物であると捉えるわけですが、これ、おそらくですが、自分が世界だと思っているものが狂気の産物だ、という意味のようです。

例えば、W-pI.54.1:5 ですが、「私に見えている世界が私の思考の誤りから現れているのと同じように、私が自分の誤りを訂正してもらうときには、私の目前に実相世界が立ち現れる」とあります。

で、もちろんこれは通常、物理的な世界自体が消えることだと捉えるわけですが、ではなぜ、例えばW-pI.54.3:5-7 辺りで、あたかも、真の想念を他の人々と共有するかのようなことが書かれているのでしょう。

もし物理的世界自体も消え失せるのであれば、真の想念を他の人々と共有することもあり得ないことになります。

さらに言うと、W-pI.55.3:4 では、「赦しにより愛が私の自覚に戻ってこられるようになるとき、私は平安と安全と喜びの世界を見るようになる」とありますが、ここで言う「世界」とはなんなんですかね。

極めつけ(笑)はこちらになります。

「私は世界を、神の子の牢獄として見ている。それならば、世界は本当は神の子が解放される場所であるに違いない。私は世界をあるがままに眺めて、それを、神の子が自らの自由を見つけ出す場所として見たい」(W-pI.57.3:4-6)

つまり、こうした一連の流れは、物理的世界自体の幻想性ではなく、世界についての知覚の変容について、漸進的な記述になっているということです。

「私がこの世界を自由の場所として見るとき、世界が映し出すのは、私が世界に従わせようとして作り出した規則ではなく、神の法則であることがわかる。私は、戦いではなく平安が世界の中に宿っていることを理解するようになるだろう」(W-pI.57.4:2-3)

こうしたことはどうやら、実践のプロセスにおける、いわば「中間段階」に関することのようです。

例えば、ワークブックのレッスンは60までをこなせばよい、みたいな言説がまとこしやかにささやかれたりしているようですが、では、レッスン61から後のレッスンは、そもそも何のためにあるんですかね?

これは、不要なレッスンがこの後、だらだらと続いているということですかね?

イエスさんは、そんな無駄話を延々とヘレンさんに言って聞かせたんですかね?

とりわけ、レッスン132は、たまたまですが、ここで私が話した、世界に対する知覚の変容に関して、いわば「肝心要」の段階についての記述になっていますが?

レッスン132 は、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」とありますが、これ、「これまで「世界」だと思ってきたもの」というのを思っているのは自分であるということは、英語の原文だと明らかです。

要するに、自分の思い込みの世界イメージをこれ以上世界に投影し続けるのをやめる、というのが、このレッスンで学ぶことだというわけですが。

つまりこれは、実相世界への「入り口」となるレッスンですが。

ある意味で「転換点」となっているというぐらいのものがありますけど?

レッスンは60まででいいというのは、こうしたことすべて、学ばなくてもいいといっているようなものですが?

で、もちろんですが、レッスンは60まででいいと言っている人というのは、実は私の中にしか存在していません。

私自身がかつてそう感じたことがあるので、ということでした。

ですから私はただ自分のシャドウに向かって、文字通り「シャドウボクシング」を延々とやり続けていたというわけです、はい。

ちゃんちゃん。

さて、話がとんでもなく脱線しましたが、たとえばこうしたことを踏まえた上で先のことに戻ってみると、やはりこれは、「あなた」ではなく「彼」の方が、より実践的なことに関する記述だと受け取ることができる、と感じた、というわけです。

ですから、こうしたことが散見されることから推測されるのは、実相を見ることへの恐れがこうしたところに微妙に混入している可能性であり、それはまず、私が先に「中間段階」と仮に表現したことが、どうも曖昧なままになっていることによるということと、もう一つは、ヘレンさん自身が、ビルさんの神聖さを認めることがどうしてもできなかったという「背景」があるのではないかという気がした、というわけです。

なぜならば、もしヘレンさんが、ビルさんもまた神聖な存在であると認めようとしたらどうなるか。

今までに自分が積み重ねてきた無数の「悪事」、つまり、例えば自分は神の子を延々と攻撃し続けてきたという「実感」などですが、自分に無理強いしてでも真理に「屈服」しようとすると、こうした自分の「罪悪」にいきなり圧倒されてしまいかねません。

ですから、そんなことは到底認めることはできませんし、もしこんなことを強要されている感覚があったとしたら、それは抵抗感があって当たり前です。

ですから、実践はあくまでも自分の中でのことだとすることで、そうした「脅威」を「免れる」ことができる、ということになってしまいます。

ま、これは痛切な皮肉になってしまいますが。

というのは、まさにこうした感覚が幻想だということを体験から学ぶ、ということもまた、奇跡講座が教えていることの一つだからです。

ただし、こうした感覚がもたらす抵抗感は否認しない方がいい、というのは、自分の感覚を差し置いて真理を絶対視することは、一見するととても「真理に忠実な」ことのようですが、この感覚の「やばさ」をわかりやすく表現すると、これは事実上、真理の名を借りて自分で自分を霊的にレイプしようとする、あるいは自分が自分にレイプされかねない、という脅威を自分が自分に強引にもたらそうとしているような感覚だ、と言えば、その「やばさ」が少しは伝わるかもしれません。

ですからこの「脅威」は、直視されない限りは回避することが賢明でしょう。

さて、それはともかく、もちろんですが、こうしたことはあくまでも私の「推測」であり、実際はどうだったのかはもう分かりません。

なのでこれは「霊的ゲスの勘繰り」だというわけです、はい(笑)。

ではではー。

p.s.

画像は、「あくまでも天使」と名付けました。

これに関しては、以下を参照のこと。

「したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考える。そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする。彼らにとって、精霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならない。そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもない」(T-25.VIII.7)

ま、これはつまり、せっかく聖霊が自分を解放しようとして手を差し伸べているのに、彼らはというと、知覚が完全に狂っているために、まるで聖霊(天使)が悪魔であるかのように見えているため、聖霊が彼らに差し伸べる援助の手は、彼らを地獄へ引きずり込もうとして血の池地獄からぬうっと伸ばされた血まみれの手としか見えなくなっている、みたいなことですね。

ですから、一見すると天使のようだけど実は悪魔である、みたいな知覚とは裏腹に、どう見ても悪魔なんだけど実は天使だった、というのが「実情」だったというわけで、「あくまでも天使」というわけです、はいm(_ _)m

余談ですが、これはいらすとやの、天使と悪魔のそれぞれの画像を、ペイントで重ね合わせたんですが、はじめ、悪魔の画像に天使を重ね合わせたら、画像の天使の衣服は白ではなく透明だったため、衣服は輪郭だけになり、悪魔が透けて見えてしまったんですよね。

なので、天使の画像の上に悪魔を重ねたらうまくいきました。

ですから、自分の本性は悪だという信念の上に、いくら「善行」を塗り重ねても、所詮は自分の「悪魔性」は「透けて見える」わけですが、自分の本性は天使性だという実感があれば、それまで自分の本性だと思っていた「悪」とは、単にそこにかぶせられていたもの、つまり「仮性(けしょう)」でしかなかったとわかる、みたいなことも示唆していますね。

これがつまり、「闇による隠蔽は不可能である」(T-1.IV.1:1)ということでもある、つまり、自分がどれだけ、自分の本性は悪とか罪とか闇だかと「確信」し、また言い張っても、それが自分の本性である神の子や光を隠蔽することはできない、という意味なわけです。

ただしここは、「闇が隠れることは不可能である」、つまり、「あなたがどれだけ自分の闇を隠しても、所詮は「ばればれ」だからね」、という訳もまた成立しますが。

これは、元の英語は「darkness cannot hide.」だけなので、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「闇は隠れることはできない」という意味になり、「hide」を他動詞として受け取ると、「闇が(何かを)隠すことはできない」という意味になるからです。

テキストの序文

「テキスト」序文

1:1 これから奇跡を学ぼう。

1:2 これは必ず学ぶことになる。

1:3 学ぶ気になったときが学ぶ時だ。

1:4 意志の自由とは、何から何まで一から作ることではない。

1:5 それは、その都度何を学ぶかを選ぶことは可能だ、ということである。

1:6 このコースでは、愛がいかに有意義か、などと教えるつもりはない。

それはそもそも教わるものではない。

1:7 しかし、必ずや障害を取り除いて愛の「臨在」に気付いてもらうつもりだ。

愛の臨在こそが、あなたの「自然的遺伝」なのだから。

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語はあり得ない。

2:1 ゆえに、このコースは総括すると、たったこれだけのことだ。

 2:2 あるものはあるに決まってるし。

 2:3 ないものはやっぱりないんだよ。

2:4 これが本当にわかってくると、眼前に神の平安が広がるだろう。

以下、訳者による補足です。

まず、序文の翻訳で、見慣れない訳語が登場しますが、それに関してはここに出典を記しておきます。

「臨在」に関しては、これです。

https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E5%9C%A8-150335

「自然的遺伝」に関しては、これです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3#%E3%80%8E%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%9A%84%E9%81%BA%E4%BC%9D%EF%BC%88Natural_Inheritance%EF%BC%89%E3%80%8F

「包括者」に関しては、これです。

これらの言葉をヘレンさんが知っていたかどうかは分かりませんが、例えばヤスパースは、哲学者になる前は精神病理学者であり、精神病理学の古典的な教科書を書いた人なので、ヘレンさんもヤスパースの『精神病理学総論』は読んでいたでしょう。

それから、テキストの序文の最後に書かれている、「herein」について調べてみたところ、これはどうやら、法律や契約書などでよく用いられる言葉のようでした。

ですから、序文の最後の有名な言葉である、「実在するものは云々」の2つの文が、何か妙に堅苦しい印象があるのも、これは法律や契約書の言葉遣いだと受け取ると、それほど違和感はありません。

これはまた、このコース全体が、学校の必修科目のカリキュラムの体裁を取っていることと関連付けると、これは例えば教科の説明文という位置づけだとも受け取ることができます。

ここからは私見ですが、これはもしかしたら、ヘレンさんはきっちりとした内容のことに関しては、こうした契約書の言葉遣いを好むようなタイプだったのかもしれません。

なのでイエスは、ヘレンさんに伝わるような言葉遣いを選んだのかもしれません。

それはさておき、「契約書」ということから連想されたのは、旧約聖書も新約聖書も、「契約」の書、つまり「testament」であるということです。

ですから、このような書き方がされているのは、これはイエスと自分との間で合意した「契約」を表している、という捉え方も可能です。

いずれにせよ、こうしたことを踏まえて、「herein」には、「本契約により」みたいなニュアンスが含まれていることが覗われたため、この契約を履行する結果としてもたらされるものという意味で、「これが本当に分かってくると」と訳してみました。

ちなみに、「lie」単独で、「眼前に展開する」「目の前に広がる」という意味があるようです。

肉体の彼方にあるものは

テキスト第18章VI 「肉体を超えて」を読んでいましたが、これ、肉体を否定しているわけではありませんね。

そうではなく、罪悪感を肉体に投影していることが何をもたらしているかについて、述べています。

肉体自体に関しては、どうやら、以下の記述がこのセクションではかなり重要なのではないかと感じました。

「あなたは、分離の道具が救済の手段として解釈し直され、愛の目的のために用いられるようにしたいとは思わないだろうか」(T-18.VI.5:1)

これは明らかに、肉体に関する言及です。

つまりこれは、肉体を、分離の道具ではなく救済の手段として再解釈し、愛の目的のために用いるとはどういうことなのかについて、自分なりに決めた「法則」から肉体を解放することについて、イエスが言及している、ということのようです。

えーと、言い方がややこしくてすみません。

ここ、再解釈は自分でするものではないので、持って回った言い方になっています。

英語の原文だと、そうしたニュアンスは文法的に明白なんですが、日本語だと今ひとつわかりにくくなります。

それはともかく、このセクションで述べられていることは、肉体自体を用いて肉体を超える、という流れのようです。

そしてここでも、知覚の変容の、一連のプロセス展開という流れを読み取ることができます。

その「肝心要の地点」は、ここですね。

「あなたが手を伸ばせば天国へと達することができる。兄弟の手をとったあなたは、肉体を超えたところに到達し始めている。しかしそこはあなた自身の外側ではなく、あなた方が共有するアイデンティティーに至る場所である」(T-18.VI.10:1-2)

ここでは、「手を伸ばす」「兄弟の手をとる」という表現は、肉体レベルと心のレベルとの、双方の意味で用いられているようです。

言い換えると、単なる肉体のみのレベルから、肉体性を含んでそれ以上のものであるところの心のレベルへの「ジャンプ」が起きる、その瞬間についての描写が、上の2つの文になります。

(cf. イエスが言った、「肉が霊の故に生じたのなら、それは奇跡である。しかし、霊が身体の故(に生じたの)なら、それは奇跡の奇跡である。しかし私は、いかにしてこの大いなる富がこの貧困の中に住まったかを不思議に思う」(トマスによる福音書、29。ちなみに、「この貧困」とは、私見ですが、おそらくは覚醒する前のイエスのことではないかと思われます))

「兄弟の手をとる」というのは、もちろんですが、肉体的な意味だけではなく心の意味、つまり、例えばですが、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書、13.34)というイエスの言葉もまた、これに関連しているでしょう。

イエスがこう言ったのは、おそらくですが、弟子たちが互いに議論してばかりである状況に関しての「戒め」であったのではないかとも思われます。

(例えば、ルカによる福音書、9.46、22.23など)

ですから、「互いに愛し合う」ことにより、肉体を超えることが可能となる、のかもしれませんね。

で、これはまだざっと思いついた程度の感想なので、もっと詳しい「感想文」は、またいずれ書きますね。

ではでは。

神聖な関係へと成り行くことは

奇跡講座には、知覚の移行に関して極めて具体的に書かれている箇所がいくつもあり、例えば、以下の記事でも言及したように、T-19.IV.D.i 「ベールを取り去る」という箇所が典型的です。

https://acim.home.blog/2022/05/21/%e3%80%8c%e3%83%99%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%82%92%e5%8f%96%e3%82%8a%e5%8e%bb%e3%82%8b%e3%80%8d%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%97%e3%81%a6/

ここでは、兄弟に対する知覚が、異邦人から(第12段落)、贖罪の聖杯を差し出している者(第13段落)、キリスト(第14段落)へと移行します。

そして、キリストである兄弟は、「罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っている」(T-19.IV.D.15:1)んですが、そこから、両者の中に見ている罪をすべて赦し(15:10)ます。

そうすると、聖なる復活の場所がそこにあり(16:1)、第16段落の後半は、十字架刑という夢が赦される様子についての描写になっています。

そして、17段落では、兄弟と一緒に自由になりなさいと、そして、第18段落では、兄弟と一緒に自由になるためには、自ら率先して兄弟を自由にすること、が説かれています。

これが、兄弟の姿からベールを取り去る、ということに関しての一連の流れになっています。

ただしこれは、意識が罪ベースの状態の段階では、とてつもない無理難題を言いつけられているようにしか感じられません。

それは、実相世界への橋を渡るまでは、救済を与える者は罪悪感を与える者としてしか知覚できない(cf. T-19.IV.D.20:2)からです。

ここで引き合いに出した箇所を正確に引用すると、「彼が罪悪感を与える者と見なされるか、救済を与える者と見なされるかによって、彼の差し出すものもそれに応じたものとして見られ、受け取られる」となっています。

しかしこれは、単なる知的な解釈ではないのはもちろん、あえて好意的に受け取るといったことでもありません。

相手の姿をどのように知覚するのかは、もっと深い無意識のところで、その質が決定されています。

自分が知覚している相手の姿は、その、無意識の決定によってニュアンスの質が決まってしまった「後の祭り」を知覚しているわけですから、その中でいくら解釈を変えようとしても、どだい無理な話なわけです。

こうしたことは、例えば、「『奇跡講座』まえがき」の「教義」の中では、「私たちの見ている世界は、自らの内なる判断基準を映し出しているにすぎない」で始まる段落でも、そのメカニズムに関して詳細に描写されています。

こうしたことが、実際にどれほど知覚をゆがめているかに関しては、例えば、T-25.VIII.6-7 辺りがとてもわかりやすいです。

「正義に対する彼ら自身の信念」(T-25.VIII.6:2)とは、例えば、罪は必ずそれに見合う罰を与えられるとか、神は自分の「お眼鏡」にかなう人だけを「よし」として、その他の人には「神の怒り」を下す、といった信念のことでしょう。

そうした信念があると、聖霊の中には「神の「怒り」」が知覚されたりするようです(同 6:3)。

そして、ここがわかりやすいですが、「そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする」(同 7:2)というのが、先の、「彼が罪悪感を与える者と見なされるか、救済を与える者と見なされるかによって、彼の差し出すものもそれに応じたものとして見られ、受け取られる」(T-19.IV.D.20:2)と、見事に対応していることが分かります。

つまり、知覚は実際にこれぐらい変わるということです。

個人的には、例えばこうしたことが、奇跡講座以外の教えにはこれほどはっきりと書かれていなかったと感じることの一つです。

ここで断言的に表現しなかった理由は、こうした体験を経て、実際に知覚が移行すると、このことに関して言及していた教えや話は、実は到る処にあったということもまた、同時に分かってくるので、実はこれですらも、別に奇跡講座の「専売特許」というわけではなかった、ということもまた、分かるからです。

例えば、アーサー王の物語の中の、「ガウェインの結婚」という物語。

これは、私はそれまで知らず、たまたまネットで見つけたものですが、これもまた、ベールを取り去った実例の一つです。

http://timeway.vivian.jp/kougi-1.html

もちろん、これは「完全に一致」というわけではないんでしょうけど。

ですから、これはもう、地獄の業火で延々と焼かれているとしか感じられなかったものが、知覚が変容したら、自分は実はずっと、天国のお花畑で寝そべっていたと分かった、というぐらいの変容なので。

「地獄の業火」とは、実はなんと、自分から吹き出ていた「聖霊の愛の炎」だったというわけです。

ただし、自我の実在性を信じている間は、それは実際に、ブッダの言う「すべては燃えている」的な状態にとどまってはいますが。

ま、ですから、「賽の河原」というのも、実のところは、クライエントが、自分は「罪人」であるという「証拠」を必死で延々と積み上げているものを、セラピストが笑いながら、「そんなの不要ですから」と、あっさりはねのける様子が、あたかも、それまでの自分が積み重ねてきた努力が鬼によってすべて「無に帰され」たかのように感じる、みたいなことだったりもするわけです、はいm(_ _)m

あ、ですから、賽の河原で父母の供養のために積み重ねる石ころは、「人間の証明」ならぬ「罪人の証明」だったりするわけですから、そら、鬼でなくても、「そんなもん、積み重ねんでもええやんけ」とか、普通に言いたくなりますしね。

脱線しました。

今回書こうと思ったのは、T-17.V 「癒された関係」についてでした。

ここもまた、先にご紹介した「ベールを取り去る」というセクションと同様、知覚の移行に関して具体的に描かれています。

さて、特別な関係は、テキストのこの段階まで実践する間に、「非神聖な関係」へと、知覚が少しだけ変化しています。

これは例えば、「それは罪ではなく誤りだったに違いない」(T-25.III.8:10)というように、自分が「罪」として見ているものは、実は「ただの間違い」であり、だからこそ訂正が可能なのである、と、T-19.II.1:1-3 に書かれていますが、そのように、特別な関係もまた、それは特別なのではなく「非神聖」なだけである、と見なされることにより、一種の膠着状態に対して、いい意味で「亀裂が入る」わけですね。

「それ(神聖な関係)は、古くからの非神聖な関係が変容し、新たな見方で見られたものである」(T-17.V.2:2)とあるように、これは端的に、関係の質の変容のことです。

ここでは例えば、「(非神聖な関係の逆転の)最初の段階で、その関係のゴールが、突然それまでとは正反対のものに転換させられる」(同 2:6)などもまた重要ですが、この記事では、知覚の移行ないしは変容に関する奇跡講座の記述はどのようなものであるかを見るために、細かいところははしょります。

なので、この記事だけを読んでも、この関係の質の変容に関しては、ごく概略的なことしかつかめません。

また、この段階の実践には、テキストでここまで書かれていることが一通り身についていて、かつ実践できていることが必要になってきます。

そうでなければ、ここに書かれていることは、とんでもなく荒唐無稽なことか、あるいは、場合によっては、これは意図的な精神的破綻を強要されている、というぐらいに感じることもあります。

ですから、まずはエゴイスティックなぐらいに自分を大切にして、ある意味で「あえて分離する」というぐらいのことが必要になる場合もあります。

実際に、病気からの回復のためには、「健全な分離」とでもいうものは、実はとても有用です。

それは、人類が集合的に陥っている、ある種の「霊的共依存」の状態から脱出することが必要だからです。

そしてこれは実のところ、本当は「分離」ではありませんから。

話が脱線しました。

例えば、「聖霊のゴールは即刻あなたのゴールと入れ替わる」(T-17.V.3:2)といったことでも、これが実際に起きたときには、自分が自分ではなくなったような、あやふやな感じがしたりすることがあります。

それは、これはアイデンティティの変容でもあるので、一時的に心が不安定になったり、自分があやふやになったり、あるいは心許ない感じになったりするからです。

それが関係の認知に関しては、「その関係には動揺や不和やかなりの苦悩さえ伴うかに見えてくる」(同 3:3)となります。

これはただし、新しくこういう動揺などが作り出されたのではなく、それまでは、関係の特別さによって、こうした感覚に蓋がされていたものが、いわば蓋が外れたために、一気に自覚に上ってきたものです。

これは、東洋医学的には、一種の、広い意味での好転反応として捉えることが可能です。

ただし、例えばこうしたことからも、奇跡講座は、対人関係をぶち壊しにすることを説いているかのように見えるわけですし、また、実際にそれぐらい危機的な状況に陥っている場合もかなり多いのですから、こうしたことはむやみに適用しないこと、です。

さて、その次の第4段落では、自我が全力で「引き留め工作」にかかる様子が描かれています。

ここでも、「それはひどく張り詰めた関係のように見えることがある」(同 4:6)といったように、見かけにだまされて道に迷ってしまわないようにと、親切な「注意書き」が書かれているわけです。

焦点はその次の段落からです。

「目的の急激な転換によってのみ、その関係全体が何のためのものなのかについて、心の完全な変化を引き起こすことが可能となる」(同 5:2)

この、目的の急激な転換の「渦中」での描写が、この段落の後半に書かれています。

このように、関係は極めて不安定になったり、自分の「本心」にぞっとしたり、など、それはもう、心の中で「天変地異」が起きたというレベルですから。

ただし、実相世界への橋を渡るときにも、いわば一種の「心の天変地異」を潜り抜けるわけですが、ここでは、対人関係において、いわば「関係の天変地異」を通過するわけです。

さて、「今こそ信が求められる時である」(同 6:1)と、イエスの、心からの力づけが書かれていますが、これもまた、心の基本が癒やされていない状態では、とんでもなくプレッシャーをかけられているかのように感じたりします。

この段階では、もう本当に、ある意味で、それまでの自分の何もかもが信じられなくなったりとか、相手のことも何一つ信じられないとか、まして聖霊なんてくそでも食らえ、神も仏もあるものか、というぐらい、本当に何もかもがあやふやになり、信じられなくなったりとかもします。

言ってみれば、幼虫から成虫になる間の、さなぎの段階の時には、幼虫の体はいったんドロドロに溶けるわけですが、そのようことが生じているのだと思うと、多少はわかりやすくなるかもしれません。

ですから、こうした頑強な思考体系をしっかりと踏まえておくことは、いわば、さなぎが拠り所とする枝に体をしっかりと固定するようなものです。

この段階では、極端に言うと、奇跡講座の言葉ぐらいしか頼りになるものが何一つない、というぐらい、極端なことになる場合もあります。

だからこそ、「今こそ信が求められる時である」というのは、決して大げさな表現ではありません。

いよいよ心の中は不安定になり、自我の差し出す「解決策」の「有効性」もまた、ますますはっきりと知覚されるからです。

「しかしあなたの正気を保つためには、あなたは空想の主な領域をこの兄弟から除外しなければならない」(同 7:4)

これ、実は、いわば「自我語」で話されている、ということに注意が必要です。

一見すると、この言葉は「正しい」ように思えますね。

自分の正気を保つためには、兄弟から空想の主な領域を除外しなければならない、というのは、言葉上はとても「まとも」です。

なぜなら、空想の主な領域を除外すれば、自分は兄弟をありのまに知覚することができますからね。

そうすれば、自分の正気を保つことが可能になりますね。

さて。

これが「自我語」だと申し上げたのは、これは、自我による知覚によれば、この関係の現状はこのように見えている、ということだからです。

では、自我にとっての「空想」とは。

はい、ここでは聖霊のゴールのことなんですね。

あなたの「正気」は、今は聖霊のゴールによって根底から脅かされ続けているけど、聖霊のゴールなどは空想の産物でしかないのだ。だから、それを事実上、兄弟に対する知覚から取り去ってしまえば、自我とともにあった「正気」をまた安泰に保つことができる、ということなわけですが。

このように「翻訳」してみると、実にやばいですよね。

だからこそ、「今このようなことに耳を傾けてはならない!」(同 7:5)わけです。

ただし、この一言が書かれていなければ、さっきの言葉は非常に分かりにくいですね。

もう、後ほんのもう少しで、自我の言うことをまた真に受けるところでしたが、すんでのところで、イエスが「喝!」を入れてくれたわけです。

自我の巧妙さはここまで徹底している、つまり、言葉の意味を完全にすり替える程度のことぐらいは、実は割と普通に行っているので。

それがいよいよはっきりとしてくると、その「実態」は、例えばこのようなものだというわけです。

ですからこれは、自我の「忠告」が激しくなっているとも見えますが、それと同時に、むしろ逆に、自我が実際には何をしていたかが、いよいよはっきりと見えてくる段階でもある、というわけです。

それが、「神聖な関係が始まり、進展し、達成される際のすべての局面は、非神聖な関係の逆転に相当している」(同 2:4)ということの、一つの具体例です。

そして、先の強いイエスの言葉を信じて、この重大な局面を潜り抜けたことにより、「今ではあなたは完全に狂ってはいない」(同 7:9)となり、「今、聖霊は、あなたがたとえ当惑しつつも、もう少しの間、信を抱き続けるようあなたに求める」(同 7:11)となります。

これは、最も大変な局面を通過した直後の段階です。

このようにして、「この関係は、神聖なものとして生まれ変わったのである」(同 7:14)となり、ここからは少しずつ、祝福の段階に入ります。

ここでも、この関係は「失敗」したとしか感じられない状況が何度も生じるからこそ、イエスはわざわざ、「その関係の「失敗」を兄弟のせいにして責めたくなる機会をあなたは何度も見いだすだろう」(同 8:2)から、この段落の末尾まで、いわば一種の「アフターフォロー」としての説明が続いています。

ですから、「目的がなくなったような感覚があなたにつきまとい、自分がかつて満足を追求し、満足を見出したと思ったときのことをすべて思い出させるだろう」(同 8:3)というのも、関係の質が変容したのですから、以前のように、自分なりのゴールを追求していたときのような目的意識感覚は、すっかり失われてしまっているので、いわば「失われし過去の栄光」が繰り返しぶり返すわけです。

なのでここで、「そのときにあなたが見つけたのは本当は惨めさだったことを、今になって、忘れてはいけない」(同 8:4)というのは、かつて見いだしたと思っていた満足が、実際に自分にもたらしたものは、実は惨めさだった、ということを忘れないように、ということです。

そうすれば、一時的にぶれたとしても、またすぐ正気に戻れるからです。

ですが往々にして、このことを絶対に認められないので、その惨めさをさらに隠蔽しようとして、別の形で、「「満足」という名の惨めさ」を延々と求め続ける、というのが、自我による満足の追求だったということが、ここではもう疑いようもなくなりつつあります。

ですから、たとえ以前のような満足を追求しようとしても、その「実態」が見えてしまっているため、まるで満足を見いだせません。

ですから、「やっぱり、この関係は失敗だった」とかも思いたくなるわけです。

このように、ぶり返しはかなり執拗に襲いかかり続けることもあるので、「衰えつつある自我に生気を吹き込んではならない」(同 8:4)ということなわけです。

さっきのような後悔にどっぷりとはまることは、言ってみれば、せっかく衰えつつある自我に、むざむざまた息を吹き返してもらおうとするようなものだ、ということなわけです。

この期に及んでもなお、自我の「蘇生術」を行うことに、どうしてもとてつもなく惹かれるものですから。

ですが実は、ここで逆説的に、あえてどっぷりとはまってみる、という方法もあります。

そうすることにより、場合によっては、はまらないようにと気をつけるよりも確実に脱けることができる場合もあります。

こうした応用的なことはケースバイケースであり、一概にこうだということはできません。

さて、次の第9段落では、おずおずとですが、新しい道を歩き始める様子になっています。

「初心者として覚えておくべきことは、あなたと兄弟は、共に、再び出発したということである。だから彼の手を取り、今あなたが信じているよりも本当はずっとよく歩き慣れている道を共に歩んでいきなさい」(同 9:3-4)となっています。

これでめでたく、非神聖な関係は神聖な関係へと変容し、新しい道を踏み出し始めた、というわけです。

ここから先はもう、ただ祝福が広がるのみなので、書くまでもないでしょう。

ま、後は、第14段落まで行くと、例えば、「受け入れられた目的と現状における手段との食い違いがあなたを苦しませているかに見えるが、その食い違いは天国を喜ばせている」(同 14:4)とか、こんなの言われたら、「もう、イエスのいぢわるぅ~」とか言いたくなる感じですが。

で、こうしたことはすべて、「あなたが兄弟に惜しみなく与えた贈り物」(同 15:1)だということが、実はとても重要なことです。

これらはもはや、ただ自分のためにだけ行ったのではなく、自分のためであるようでありながら、実はそれは同時に兄弟への贈り物だ、ということだからです。

ですから、利害の対立は自然消滅に向かいます。

ここでも、自分が与えることにより、実はどれほど自分もまた受け取っているかが、少しずつ分かり始めることでしょう。

それまでは、いわば「得るために与える」という形でしたが、ここからは、「与えると与えられる」というように、いわば関係の順序が逆転するわけです。

「得るために与える」というのは、「地獄の習慣」ですしね。

癒やされた関係は、この悪循環が、根本が逆転して良循環へと変容することです。

もちろん、最初はまだまだ不安定ですが、ここでようやく、奇跡講座学習者なら「耳たこ」である、「受けるよりも与えること」みたいなことが、本当の意味で機能し始めるというわけです。

そして、次のセクションであるT-17.VI は「ゴールの設定」となっていますが、先のセクションでは、自分なりのゴールが聖霊のゴールに入れ替わるという段階がありましたが、そうするとこれは、ゴールを設定するとはどういうことか、ということへとスムーズに連なっているように感じます。

ま、この先にはここでは言及しませんが、例えばこのように、このセクションには一連の流れがあることが、おわかりいただけたら幸いです。

ではでは。

創世記第1,2章を素直に読むと

創世記、第1,2章を読んでみます。

(引用は、特に断りがなければ聖書協会共同訳です。

また、GNB は Good News Bible 、KJV は King James Version です)

まず、神が6日間かかって天地を創造したことが書かれています。

そして、7日目に休みました。

ここまでは割と知られているかと思います。

問題は、創世記2.4からです。

まず、2.4の前半である「これが天と地が創造された次第である」というところは、それまでの天地創造の話の末尾です。

そして、2.4の後半からは、このように書かれています。

では、2.4から2.7までを詳細に見ていきましょう。

「神である主が地と天を造られたとき、(5)地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。(6)しかし、水が地下から湧き上がり、土の面(おもて)をすべて潤した。(7)神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」

ここで、土の塵から形づくられたのが、アダムです。

新共同訳では、2.7は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」となっています。

で、今、引用していてややこしいことに気がつきましたが、聖書協会共同訳では、この箇所では「神である主」と訳されているところが、新共同訳では、「主なる神」と訳されているんですね。

GNBでもKJVでも、ここは「LORD GOD」であり、どちらにも受け取ることができそうな印象です。

さて、問題はここからです。

創世記2.4の前半までで、天地創造の話は一段落したはずです。

ですが、2.4の後半では、「神である主」が、「地と天」を「造られた」と書かれています。

旧約聖書の時代の言葉は、単語の選択や語順にも意味があったと思われます。

「創造する」は「create」の訳語ですが、「造る」は、「make」です。

奇跡講座学習者なら、これは「はっ?!」と思うでしょう。

ワプニック博士は、「創造する(create)」と「作出する(make)」との区別について解説しているからです。

1.1では、「初めに神は天と地を創造された」と書かれています。

2.4の後半では、「神である主が地と天を造られたとき」と書かれています。

おわかりですか?

さらに、日本語訳だとわかりませんが、英語だと、1.1の方の「天と地」は「the heaven and the earth」なんですが、2.4の後半の「地と天」は、「the earth and the heavens」です。

つまり、後者の「天」は複数形です。

ここまでを整理します。

神が創造したのは天(単数)と地ですが、神である主が造ったのは、地と天(複数)である、ということが、創世記の冒頭に書かれていることです。

さて、語順にも意味があるとしますと、ここで、「天(単数)と地」と、「地と天(複数)」というように、順番が逆に書かれていることからは、前者の天地と後者の天地(あるいは「地天」というべきかもですが)とは、互いに、天と地の関係が逆になっている、ということがうかがえます。

さて、先に引用した、2.4-2.7の箇所を、もう少し詳細に見てみましょう。

2.5では、こう書かれています。

「地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。」

で、1.1-2.4の前半を振り返りますと、そこでは、神が動植物のすべてを創造し、また、「神は見て良しとされた」という言葉が何カ所か書かれているところからすると、それらは実際に創造されていると思われます。

というか、一般的には、これが天地創造の物語だとされています。

では、「まだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった」のは、どこなんでしょう?

すでに、動植物も家畜も創造されているはずですが?

さらに言えば、1.1-2.4の前半でも、「創造する」と「造る」とが混在しています。

この区別にもすべて意味があるとしたら、どうなるのでしょうか。

ここまででもすでに「おなかいっぱい」かもですが、まだまだ続きます。

2.7では、こう書かれています。

「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」

ここでは、「形づくる」という言葉が登場し、英語では「form」です。

で、これが、アダムが作られた話です。

では、1.26-27を引用します。

「神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された」

さて、何かおかしいことに気がつきますか。

先の、アダムが作られた話(2.7)は、この、神が男と女を創造した話(1.27)よりも後に登場します。

そして、イブが作られた話は、もっと後の、2.21-23に登場します。

では、アダムよりも前に、男と女が創造されたということなのでしょうか。

では、この男と女は、どうなっちゃったんでしょうか。

創世記には、この男と女に関しては、その後は記述がないようです。

また、アダムと、この男と女には、何か関係があるのでしょうか?

それとも、特に何も関係はないのでしょうか。

聖書の記述からわかることは、アダムが作られ、次にイブが作られたのは、神である主が造った天地においてですが、男と女が創造されたのは、神が創造した天地においてである、ということです。

さて、神である主が造った方の地と天では、「まだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった」(2.5)わけですが、それは、「神である主が地上に雨を降らせず、地を耕す人もいなかったからである」(同)と書かれています。

ところが次に、「しかし、水が地下から湧き上がり、土の面(おもて)をすべて潤した」(2.6)と書かれています。

ということは、ここでは、地面が潤ったのは、雨ではなく地下から湧き上がった水によってである、ということがわかります。

気候としては、これは何か砂漠を思わせる記述です。

それから、神が天地を創造した話の中では、雨に関する記述はないようです。

ですがこれは、雨は降らせなかったのか、雨は降らせたけど記述されていないのか、はわかりません。

天地創造の話の方では、「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ」(1.6)と神は言い、そして、「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった」(1.7)ということからは、水は大空によって、大空の下の水と大空の上の水とに分けられた、ということがわかります。

さらに、「神は大空を天と呼ばれた」(1.8)と書かれているので、この時点までは、天はまだ存在していなかったことになります。

確かに、1.2では、地と闇と水は登場しますが、光が登場するのはその次の、1.3です。

さて、「地は混沌として」(1.2)と訳されている箇所ですが、ここはKJVでは、「And the earth was without form,and void;」となっていて、GNBでは、「the earth was formless and desolate.」となっています。

つまり、混沌としていたというのは、「形を持たなかった」ということです。

また、「void」あるいは「desolate」に相当する訳語は、どうやら見当たらないようです。

で、話がそれましたが、先のところで、「大空の上の水」と書かれているものが、もしかすると雲や雨などにあたるのかもしれませんが、そうとはっきり書かれている記述はありませんでした。

いずれにせよここでは、水は大空(天)の下と上とに分かれて存在していることになります。

さて、水を分けることに関してここで用いられている表現は、英語では、「divide A from B」という形です。

日本語ではこれは、「AとBを分ける」と訳されますが、文字通りに厳密に受け取ると、これは「BからAを分ける」という感じになります。

で、「水と水を分けるようになれ」(1.6)というところは、KJVでは「let it divide the waters from the waters」となっていますが、「大空の下の水と、大空の上の水とを
分けられた」(1.7)は、「divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament」です。

つまり、「大空の上の水から、大空の下の水を分けた」という表現になっています。

なお、ここで water が複数形になっていますが、 water が複数形になるのは、海、湖、河などの大きな水域を指している場合や、ペットボトル入りの水などを指す場合のようです。

言い換えると、あるまとまりを持つものとして捉えられる水のことなのでしょう。

なので、ここで water が複数形なのは、あるまとまりや領域として捉えているのでしょう。

そして、「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ」(1.9)ということで、「乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼」ぶ(1.10)ことになり、こうして、地と海が生じたわけです。

さらに、太陽と月、星々は、この次の日に造られたとされています。

フラットアース説を推すわけではありませんが、こうした記述は、フラットアース理論ととても相性がいいのを感じます。

そして、核心中の核心です。

1.26で神はこう言っています。

「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」

翻訳でもちゃんと反映されていますね。

はい、神はここでは複数形なんです。

これは他に、創世記3.22でも、「神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」」と書かれているように、ここでも、神、ないしは神である主は複数形です。

ですから、創世記に登場する神は一神教の神ではない、ということになるのかもしれません。

あるいは、そうした複数の神のうち、いずれか一つが突出して信仰されるようになったのかもしれませんし、あるいは、そうした神の属性をひとまとめにして、一神教の神として形作られたのかもしれません。

いずれにしても、創世記第4章の、カインとアベルの話から後は、神は唯一神のように描かれ、また、「神」と「主」とはあまり区別されなくなったようです。

それから、1.27で神が創造した人は、「男と女」と訳されていますが、これは元の英語では、「male and female」です。

そして、2.22-23にイブがアダムのあばら骨から造り上げた話がありますが、ここでの「女」は、英語では「woman」であり、これは、「男(man)から取られたから」(2.23)と書かれています。

ということで、男女のありようには、male and female として創造されたというものと、アダムのあばら骨からイブが造り上げられたというものと、2種類があることになります。

さらに、イブが造り上げられた話の直前に、「神である主は人を深い眠りに落とされた」(2.21)と書かれていますが、ここで、奇跡講座のテキストは意味深なことを言っています。

夢の中に見えているものは非常に実在性があるように思える。しかし聖書は、アダムの上に深い眠りが訪れたと言っており、彼が目覚めたことに関してはどこにも言及がない。この世界はまだ、いかなる包括的目覚めも再生も経験してはいない。このような再生は、あなたが投影すなわち誤った創造を続けている限り不可能である。

T-2.I.3:5-8

アダムは、深い眠りが訪れた後にはじめて悪夢を経験するようになった。誰かが恐ろしい夢を見ているときに突然明かりをつけられたなら、その人は最初はその光自体を自分の夢の一部と解釈して、それを恐れるかもしれない。しかし、彼が目覚めれば、その光は夢からの解放であると正しく知覚され、もはやその夢に実在性が付与されることはなくなる。この解放は幻想に依存するものではない。

T-2.I.4:5-8

ということは、この世界とは「アダムの悪夢」である、と言うことも不可能ではありません。

ですから、目覚めるとは、「アダムの悪夢」から目覚めることだ、と言うことも可能なのかもしれません。

では、テキストで他に、「アダム」が登場する箇所を引用します。

この種の誤りが、神がアダムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関連する多数の誤りの原因となっている。

T-3.I.3:9

ここで、「この種の誤り」とは何かが気になるかと思いますが、気になった方は直接テキストに当たられてみて下さい(笑)。

というのは意地悪なので、こうしたことに関しては記事にしますね。

結論だけを簡単に言うと、神がアダムを追放したという「事実」は存在しなかった、ということです。

それはアダムの、自分は神を裏切った、神に背いたという罪悪感、そしてそこから派生して、自分は必ず神から罰せられるという恐怖のために、知覚がゆがんだ結果としてもたらされた幻想だったというわけです。

さて、もう一カ所あります。

アダムが自分を楽園から追放したのは父だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰に影響することもなかっただろう。

T-13.in.3:6

ですから、自分の罪悪感を解消していくことは、同時にアダムの罪悪感を解消していることでもあり、そのことによって、自分だけではなく世界の目覚めもまた、加速することになります。

ですから、自分の癒やしに取り組むことは、ただ自分だけにとどまらず、究極的には万物の目覚めへと連なっています。

逆に言うと、世界を救いたければ自分の癒やしに取り組むことこそが必要であり、そして、ただそれだけでよかったのだということが、いずれわかってきます。

これは例えば、ワークブックのレッスン132、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」ということに連なっています。

ここで、「これまで「世界」だと思ってきたもの」というものが、悪夢であり幻想の世界のことです。

言い換えると、これが「ベール」と呼ばれているものです。

また、自分がすべてにベールをかぶせて知覚している状態は「闇」と表現されています。

例えば、ヨーロッパだったと思いますが、未亡人が一定期間、顔の周りに薄いベールをかけて顔を覆う習慣がありますが、自分はちょうどあのように、本当の自分自身、ひいては神、を喪失したという喪失感のただ中を、いわば「喪中」の状態で生きている、というわけです。

ですから、自分はこの喪失感を、他人や世界に投影して捉えている、ということです。

というのは、自分の周りにベールをかけている人からは、すべてはそのベールを通してしか見えませんから、ベールと実在との区別が付かないと、そのベールはむしろ、他人や世界の上に覆い被さっているとしか思えないわけです。

このことを、「人はみな色眼鏡をかけて世界を見ている」という言い方もしますが、他の人のことをそのように捉えている人もまた色眼鏡をかけている、というところがややこしいわけです。

このような事情に対してイエスは、こう言っています。

「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる」

マタイによる福音書、7.3-5

ただし、この「梁」は、ドゥルーズが「襞」と呼ぶように、多層的・重層的に折り重なっているので、それを取り除くのは一筋縄ではいきません。

奇跡講座ではさらに一歩進んで、「きょうだいの目の中におが屑がある」という知覚自体が、「自分の目にある梁」によって知覚がゆがめられた結果なのであり、自分の目にある梁が、あたかもきょうだいの目におが屑として存在しているかのような知覚を作り出している、というように捉えています。

言い換えると、自分の自我は自分には感じられず、むしろ他人の中に感じられるということです。

(cf. 兄弟の自我の誤りを指摘するなら、あなたは自分の自我を通して見ているに違いない。(T-9.III.3:1))

これは、自分は梁を通してすべてを見ているために、梁自体は決して梁として知覚されることはなく、むしろ、他人の内心や世界の「背後」に、潜在的にその「梁」が隠れているかのように知覚されている、ということです。

言い換えると、自分にとっての梁は、自分の側ではなく他人や世界などの側に属しているかのように見える、ということです。

そして、究極的には、この「梁」こそが、自分がアダムから受け継いでいる「悪夢」だというわけです。

ただし問題は、自己他者関係においては、これは相互交通的というか双方向的な投影なので、それもまたややこしさを倍加させていた、というわけです。

この自己他者関係に端的に集約されている「もつれ」「ねじれ」とでもいうべき構造をほどくことが、すべての肝心要のことになっています。

ですが、それはまず、神と自分との関係が回復する、あるいは「回復途上」にあることが先なので、奇跡講座の実践はまず、「聖なる瞬間」を練習することからになっています。

聖なる瞬間とは今この瞬間であり、あらゆる瞬間でもある。あなたが聖なる瞬間であってほしいと思うその瞬間が、聖なる瞬間である。

T-15.IV.1:3-4

ただし、「聖なる瞬間」という表現に近い日本語があり、それは、「我に返る」ということです。

これは、神とのつながりが回復した様子を、日本語では「我に返る」と表現しているからですが、ここで「我」という言葉に引きずられて、「これは自我と同一化することではないか」とか、

あ、これは私もかなりそう感じるからですが。

なので、こうしたことに関しても、少しずつ書いていく予定です。

これはもう、書くことによって自分を整理するようなものですから。

長くなりすぎたので、この辺で。

ではでは~

「闇からの脱出」に関して

闇から脱出するためには二つの段階を要する。その第一は、闇は隠すことができない、と認めることである。

こう踏み出すと、通常、恐れが出てくる。

第二は、たとえ隠すことができたとしても、隠した方がいいものは何もない、と認めることである。

こう踏み出すことで、恐れからの脱出がもたらされる。

何も隠さずにいようという気になったとき、あなたは聖餐(せいさん)にあずかる(コミュニオンに参入する)ことにやぶさかではなくなるだけではなく、平安とか喜びとはどういうことなのかがわかってくるだろう。

T-1.IV.1(ふう訳)

「闇は隠すことができない」と訳されている元の英語は、「darkness cannot hide」ですが、これは、田中訳でも大内訳でも、「暗闇は隠すことはできない」と訳されています。

ところが公認訳では、ここは「闇による隠蔽は不可能だ」と訳されています。

私は翻訳自体がない頃に奇跡講座の原書を入手したので、この辺りは自分で訳読したためにはっきり覚えていたので、公認訳の翻訳に衝撃を受けました。

どういうことか。

文法的には、これは、「hide」を自動詞と受け取るか他動詞と受け取るかの判別が困難です。

つまり、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「隠れる」という意味なので、「darkness hide」は「闇が隠れる」とか「闇が隠れている」といった感じになります。

しかし、「hide」を他動詞として受け取ると、これは、「隠す」という意味になり、ここは、「闇が何かを隠す」ということになります。

ところが、日本語で「闇は隠すことはできない」としてしまうと、これ、「あなたが闇を隠すことはできない」という意味も含んでしまうんですよね。

つまり、「闇は隠れることができない」というニュアンスです。

そのために公認訳では、誤解の余地のないように、あえて堅く訳したのだろうと感じました。

ここまでは文法としての理解ですが、これは単なる文法的な話ではありません。

「hide」を自動詞として受け取る、つまり、「闇は隠れることができない」、あるいは、「あなたが闇を隠すことはできない」というようなニュアンスは、「割と普通」なんです。

例えば、相手の「問題」を「暴く」とか、「あなたはもっと自分の闇をさらけ出すべきだ」といったようなことも、まさに、「あなたが自分の闇を隠すことはできない」、言い換えると、「闇は隠れることができない」という路線に沿っていますから。

要するに、「あなたがいくら自分の闇を隠して、自分には闇などございませんというふりをしても、あなたの闇はバレバレなんだよ」という意味なんですね。

ところが、「闇による隠蔽は不可能」というのは、これとは真逆になります。

くだけた言い方をするならば、これは、「あなたがいくら、自分の本質は闇だと言い張っても、あなたが本当は光だということはバレバレなんだよ、それをいくら闇で隠しても無駄だし」みたいな意味になるわけです。

こういう「衝撃」を裏付けるものとして、テキストから3箇所引用します。

聖性が真に闇の中に隠されることはあり得ないが、あなたはそれがあり得ることだと自分を欺くことはできる。あなたは自分の胸(こころ)の中でこの欺瞞があなたを怯えさせる。そしてあなたは、その欺瞞を実相に仕立て上げようとして莫大な努力を傾ける。

T-1.IV.2:1-2

自我が提供し得る体験からはあまりにかけ離れた種類の体験というものがあり、ひとたびそれを経験するなら、あなたは二度と再びそれを覆い隠したいとは思わなくなる。闇と隠蔽へのあなたの信念こそが、光が入ってこられない理由だということを、ここで繰り返す必要がある。

T-4.III.5:1-2

あなたは神の意志を恐れているが、その理由は、それが自分の意志ではないと信じているからである。……これを信じて、あなたは闇の中に隠れ、光が自分の中にあることを否定する。

T-11.I.10:3;10:6

というように、「Darkness cannot hide」を、「闇による隠蔽は不可能だ」、つまり、「闇が何かを隠すことは不可能だ」と受け取ることにより、他の箇所との整合性がとれます。

もちろん、「闇は隠すことはできない」もこういう意味なんですが、先に書いたように、これだけだと微妙になってしまうわけです。

ここで闇が隠しているものが、光や聖性だということになります。

ここまではよかったんですが、この記事を書くに当たって改めて調べてみましたが、他動詞の場合に、目的語が省略されるケースは、もちろん日常的な使い方としてはあるんですが、通常は目的語が省略されることはない、という「壁」にぶち当たりました。

つまり、「darkness cannot hide」だけだと、「hide」が他動詞であるかどうかはわからないというわけです。

で、日常的な場合に、目的語が文脈から明らかな場合には省略されることがあるようですが、ちゃんとした文章の場合には、まず省略されないのではという気がしました。

というのは、省略されると文意が曖昧になるからです。

しかし、もう一つややこしいのは、テキストの場合には、闇が隠すものと言えば光だろうというぐらい、目的語が省略されていたとしても明らかなので、やっぱりどちらにも受け取れるということです。

さらに、もう一つは、これは自分の心の中で、自分本来の光を隠しているというだけではありません。

『天国から離れて』、p.546によると、元々、この言葉は、ヘレンさんが「一生を通じて、イエスの光に背を向け、自分の自我の不安と価値判断や裁きという闇を隠れ処にし続けることで、イエスから逃げようとしていた」ことに対する言及だったようです。

つまり、他の人の光を自分の目から覆い隠すものとしての闇、についての言及だったようです。

で、「何も隠さずにいようという気になる」(公認訳では「何も隠さなくてもよいと思うようになる」)というのは、必ずしも他の人に対してではなく、自分自身に対してです。

つまりこれが、以下のことに関わってきます。

あなたが聖霊の前に闇を顕わにすれば、聖霊は闇に光をもたらす。しかし、聖霊には、あなたが隠すものを見ることはできない。

T-14.VII.6:4-5

だからこそ、「何も隠さずにいようという気になる」ことで、聖餐にあずかる(コミュニオンに参入する)ことができるようになるというわけです。

で、では、闇を隠さないことなのか、光を隠さないことなのかということなんですが、今のところの私の探求では、これは、自分自身に対しては、自分の中の闇を隠さないこととなり、世界や他人などに対しては、それらに闇をかぶせて捉えないこと、つまり闇で光を隠さないこと、という感じのようです。

ですから、この箇所の受け取り方としては、どちらもありなんですね。

なのでこれは、どちらの意味も含まれている「闇は隠すことができない」という表現でオーケーだ、と感じることができました。

で、第一のステップとして、「闇は隠すことができない」と認めることが恐怖を伴うというのは、これは、新しく恐怖を作り出しているのではありません。

この恐怖は闇の原因となり、闇をもたらしているものであり、「闇は隠すことができない」と認めることで、抑圧が少し解除されるために、怖くなってくるわけです。

ただし直接的には、おそらくですが、この闇は「罪悪感の暗雲」と何か関係があるのかもしれません。

ただし、この恐怖にもまた段階があり、例えば、闇自体が恐怖によるものだということと、もう一つは、自分が実は何をしているか、つまり、闇によって光を覆い隠そうとしていた、ということの自覚は、とても「恐ろしい」ものです。

その両方の意味で、ここでは、そこはかとなく恐怖がじわじわと感じられてきたり、場合によってはパニック的になったりします。

なので、奇跡講座の実践は、慎重に慎重を重ねてちょうどいい、というぐらいのこともあります。

実際、それぐらい、人が心の中に抑圧否認してきた闇は、人によっては、質・量ともに、とんでもないものになっている場合があります。

こうしたことは個人差がとても大きいので、一般論めいたことは言えません。

さて、第二段階あるいは第2ステップは、「隠すことは百害あって一利なし」ということを踏まえる、ということです。

ここで、原文では「you want」が入っていますが、実は、このフレーズは、「あなたは~したい」という文字通りの意味ではなく用いられることが多いようです。

詳しいことは、こうしたことに関して解説しているサイトに譲りますが、それを踏まえて私は、最初のように訳してみました。

ですが、何もかもをさらけ出さなければならない、ということではありません。

しかし、いずれはそうした状況になるのかもしれませんが、それは今のところの私にはわかりません。

ですが覚醒していくということは、いずれ、自分の内にも外にも全く隔たりがない状態になるのだろうという気はしています。

「聖餐にあずかる」とは、一つにはそういうことなのではないかという気がしています。

それから、「聖餐」と訳されている元の英語は「communion」ですが、wikiによると、これは、日本語訳聖書では二通りに訳されているそうです。

すなわち、「聖餐」や「聖体拝領」として訳されている場合と、「交わり」として訳されている場合とです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3

で、日本聖書協会のサイトから、聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳に関して、「聖餐」で検索をかけたところ、ヒットしませんでした。

つまり、「聖餐」という言葉は、少なくとも上の3つの翻訳の中では用いられていない、ということなのでしょう。

「聖餐」という言葉は、おそらく神学用語で、聖書読解や解釈の時に用いられる、のかもしれません。

キング・ジェームス版聖書には、「communion」という言葉は3回登場していて、そのどれもが、聖書協会共同訳では「交わり」と訳されています。

以下は、聖書協会共同訳から、当該箇所です。

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。

コリントの信徒への手紙1 10.16

あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。

コリントの信徒への手紙2 6:14

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

コリントの信徒への手紙2 13:14 (聖書協会共同訳では、13:13)

この3箇所です。

ちなみに、公認訳のこの箇所で「聖餐」と訳されている「communion」は、田中訳では「霊的交わり」、大内訳では「「神」と心を通わせる」と訳されています。

ですから、これらの異なる表現は、元はすべて同じ「communion」です。

さらに言うと、スピ系でも「コミュニオン」という表現は使われていて、例えば、バーバラ・ブレナンの本のどこかにも登場しています。

で、バーバラ・ブレナンはもちろん、これをこの世界の中で起きていることとして描写していますが、これは、ブレナンは、当人同士にコミュニオンが起きている状況を、それら全体を観察している「第三者」の立場から、言い換えるとその状況を「外部」から見ているためであり、当人同士にとっては、そのコミュニオンは心のレベルで起きていることとして体験されているわけです。

さて、コミュニオンが起きているときの様子を、別の箇所から引用します。

二人の兄弟がつながり合うということが、真に何を意味しているか、考えてみなさい。そしてそれから、世界を忘れ、世界の小さな勝利や死の夢のすべてを忘れてしまいなさい。同じ者たちはひとつのものである。だから今では、罪悪の世界について何も思い出すことはできない。部屋は神殿となり、街路は、病んだ夢のすべてを軽くなぞりながら通り過ぎていく星々の流れとなる。

P-2.VII.8:1-4

ですから、奇跡講座で言う「世界」とは、「私たちが世界だと思っているもの」のことであり、目の前に具体的に展開している現実のことではありません。

しかし、目の前に具体的に展開している現実(実相)に、今のところは、罪悪というフィルターがかぶせられています。

これが、テキストのこの箇所では「闇」と表現されています。

私たちの目からその闇が取り払われたとき、「部屋は神殿となり、街路は、……星々の流れとなる」わけです。

このように、「ベールを取り去る」(T-19.IV.D.i.h)ということが、奇跡講座全体を通していろいろな形で現れている変化のことであり、「闇からの脱出」もまた、「ベールを取り去る」ことのバリエーションの一つだと捉えることができます。

「闇から脱出する」のと「ベールを取り去る」のとでは、ずいぶんニュアンスが違って感じられますが、これは、イエスさんは、その時その時のヘレンさんに最も伝わる表現を選んでいるからなのだと思います。

構造的に表現すると、本人が体験する同じプロセスに関して、前者は他者側から、後者は自己側から、それぞれ表現したものだということができます。

これだけでは何のことやらなので、もう少し平たく言うと、自分がすべてのものにベールをかぶせて捉えている状況を「他人の立場」から捉えると、本人の周囲が闇に覆われていたり、本人に何か心の闇があるように感じる、という感じです。

ただし、自分の心の闇は通常、むしろ相手の心の闇や「自我」として感じるので、こうしたことは多層的な構造になっています。

では、今回はこの辺で。

ではでは~。

あと、追記しておきますが、自分の中に闇があると認識している自分は闇ではありませんよ、念のため。

テキストの難解さについて

例えば、ガールズトークについて全く知らない人に対して、ガールズトークの楽しさの霊的な側面に関して、できるかぎり誤解の余地がないような言葉を選んで説明しようとしたとしますと、人同士のやりとりに対するイエス的な「うぶ」さを加味すれば、例えばこのようになります。

自分と兄弟とが、互いに利害を共有しているという前提の元に心を開き、思うことにできる限り検閲を差し挟まずにただ話すとき、普段は心の中に隠し持たれていた刃が、もはや不要になったという安堵とともに脇に置かれ、そこには「秘密の花園」が開花して、一つであることを思い出した彼らの心は、キリストへの招待状である。

「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書、18.18-20)

とかなんとかです。

ま、実際のガールズトークが肉眼にはどのように映っているかは別として、心眼(ヴィジョン)だとこのように見えるのかもですね(笑)。

ただし、「二人または三人が私の名によって」云々でイエスが言いたいことは、要するに、日本語で言う「三人寄れば文殊の知恵」ということですけどね。

テキストの言葉の難解さは、例えばこのようなものではないか、というお話でした。

激怒の構造

激怒する人は、なぜ激怒するのかを考えてみましょう。

このイラストにおいて、右側に描かれている人が、激怒する人です。

ところが激怒する人の心の中では、この状況は、実はこのように知覚されているわけです。

おわかりでしょうか。

形の状況では、激怒する人は確かに激怒しています。

しかし実は、激怒する人の心の中では、むしろ、周囲の人が潜在的に自分を攻撃しているかのように感じられていて、そして本人はそのことで脅えきっています。

だからこそ、「正当防衛」として激怒するわけです。

ですから奇跡講座では、攻撃は「愛を求める呼び声」だと表現しているわけですね。

「あなたが恐れを守ろうとしなければ、聖霊は恐れを解釈し直してくれる。それが、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である」(T-12.I.8:9-10)

「愛こそが世界の実相であり、あなたがその愛を見たいと思うなら、愛に対抗する防衛の一つひとつの根底に、愛を求める懇請が潜んでいることを認識する以上に良い方法があるだろうか」(T-12.1.10:1)

たとえばこうしたことは、意識の構造面からも説明できるというわけです。

また、2つめの引用から分かることは、防衛や攻撃とは愛を求めているのだと認識する目的は、自分が、世界の実相である愛を見たいからだということです。

まあ、そんなもの、別に見たくもないというのであれば、奇跡講座はそもそもお呼びではありませんが(笑)。

ここに書かれていることは、「もしあなたが愛を見たいと思うなら、このように認識するといい」ということであり、「愛を見たいか見たくないかに関わらず、このように認識しなければいけない」と書かれているのではありません。

構造的に言うと、「もしあなたがこうしたいのであればこうするといい」と書かれています。

言い換えるとこれは、「もしあなたがこうしたいとは思っていないのであれば、必ずしもこうする必要はない」ということです。

つまり、別に愛など見たくもないと思うのであれば、必ずしもこのように認識する必要はありません。

こうしたことは論理的な話です。

ですが、こうした文からはどうしても、「このようにしなければならない」というニュアンスを潜在的に読み取ってしまいます。

例えばこうした、潜在的な読み取りに無自覚で、それに完全に振り回されていることもまた、奇跡講座の学習を困難にしている要因の一つではないかという気がしています。

さらに言うと、私のこうした話も、「言葉を文字通りに受け取らなければならない」ということではありません。

あえて言うならば、言葉を文字通りに受け取るということに自覚的になってみると、自分が実は言外のニュアンスをいろいろと感じていて、しかもそのことに無自覚だった、ということに気がついてくる、ということが、ここで私が言いたいことです。

そして、こうしたことが、例えばワプニック博士の解説だと、ワークブックを練習するときに、ワークブックに書かれていることに対する自分の抵抗に着目するといい、というようなアプローチの仕方と関連してくるのでしょう。

さらに言うと、「もしあなたが愛を見たいと思うのであれば」という表現にしても、すでにここに、「あなたは当然、愛を見たいと思っているはずだ」というニュアンスが感じられます。

言い換えると、「「実は愛など見たくもない」と内心で密かに思っているあなたは、なんて「いけない」存在なのか」というようなニュアンスもまた、さらに奥には潜んでいるわけです。

こうした暗黙のニュアンスは、すべて、内心の罪悪感が完全に抑圧され、否認されていることに端を発しています。

さらに言うと、ここでは、「愛を見たい自分でなければならない」ということでもありません。

むしろ逆に、「私は愛など見たくないし、知りたくもない」という自分をはっきりと自覚することの方が、実は、学習上は「近道」です。

例えば、私は愛など見たくもないし知りたくもない、という自覚を持って日常を暮らしてみると、「実は愛を見たいし知りたいと思っている自分」に、否応なく直面「させられてしまう」ので(笑)。

ですから、実のところ、自分は愛を見たいと思っているということなんですけどね。

ここには例外はないというわけです。

ですが、はじめから頭ごなしにそのように捉えてしまうと、「実は愛など見たくもない自分」は、ますます否認されていきます。

「愛など見たくもない」という感覚は罪悪感と「相性がいい」ので、こうした感覚を否認していると、例えば、「実は自分は愛を見たいと思っていた」ということに直面したときに、「自分はその「事実」に「屈服」しなければならない」、といった認識を生じます。

ですから、こういう認識もまた、実は「罪悪感のなせる技」なわけです。

つまり、自分の意志に関わらず、無理矢理に、強引に仕向けられている、強いられているという感覚から立ち上がる認識です。

こうしたことは、実は実際には全く起きていませんが、ただ自分の中では、自分はまさに、相手や周囲からいろいろと強いられているという暗黙の感覚を強く持っています。

問題は、現実の人間関係では、自分も相手も、ある感情的な意図を持って言葉を使っているのが普通である、ということです。

自分が自分のありように、常に一定の「裏の意図」を含み持たせているために、相手の振る舞いにも「何か裏があるに違いない」と感じるわけです。

そうした状況の中では、他者とのコミュニケーションはそもそも成立しません。

そして、これが人間においては割と普通の状況です。

だからこそ奇跡講座では、私たちが普段、コミュニケーションだと思っているものは、実は全くコミュニケーションではないと述べています(cf. T-14.VI.6、15.IX.2)。

さて、初めのイラストに戻りますと、人はこのように、外見と内心とが真逆だというぐらいのギャップを抱えているのが通例です。

そのギャップが、実は、物理学的に言うと一種の「位置エネルギー」を生じさせるために、人はそれこそが「生きる意欲」だと感じます。

それは言い換えると、自分の中に常にある、ある種の「落差」が「原動力」になっている、ということです。

そしてそれは例えばこの場合ですと、この人が激怒するのもまた、「落差」を「埋め合わせよう」とする「位置エネルギー」の作用による、ということができます。

あるいは場合によってはそれは、外界や他者に働きかける力となる場合もあるでしょう。

ですから、癒やしがある程度進んでくると、以前のように生き生きとした感じがなくなってくるのは、自分の中のギャップが「低く」なってくるために、いわば、この「位置エネルギー」があまり生じなくなってくるから、というのもあるのでしょう。

そして、この「落差」がほぼなくなると、自分はまるで死んでしまったかのような感じにすらなってきます。

ですが実は、ここからが本当の始まりです。

これまでの「落差」は、いわば、この世界的な意味での落差、言い換えると「水平的な落差」だったのですが、その方向性が水平から垂直へと転換する(cf. T-1.II.6:3)ことにより、これは、神と自分との「落差」、あるいは、神の子である自分とこの世界の個人としての自分との「落差」、つまり「存在論的落差」というように転換します。

そうすることにより、自分は、神からもたらされる「位置エネルギー」の無限の供給を受けるようになります。

ただし、ここで言う「垂直的な落差」というのは、この世界での、高いところから低いところということではありません。

これは、いわば「意識の位置」のようなことです。

ですが、そのように知覚が転換すると、自分の見ている世界にもそれが反映される、つまりこれは奇跡講座で言うと「延長」ですが、そのことにより、すべての物事や対人関係の中に、潜在化した神と自分との関係を見いだすようになります。

そうすると、先の激怒している人は、実は、「神とは激怒している存在である」という先入観を無意識に持っていて、そしてそれを他の人の内心として投影して、そしてそれに対して脅えきっていて、そしてそれに対する「正当防衛」として激怒していた、というメカニズムが浮かび上がってきます。

そうすると、自分は「位置エネルギー」の「されるがまま」になり続けるのか、そうではない選択をするのか、という、「選択の自由」の余地が自分の中に生じます。

つまりここで、激怒する人は自ら物理的法則を逆転させる可能性を自分の中に見いだすことができます。

これが、「この交換(奇跡)は物理的法則を逆転させる」(T-1.I.9:2)の一つの現れとなります。

ただしこの段階ではまだ、これは心理的側面に限られていますが、例えばイエスが行ったような、水をワインに変えるといった奇跡もまた同様の仕組みが働いているのでしょう。

しかも、この段階ではまだ、物理的法則のもたらしている、ある種の強力な力にあえて逆らうという選択をしているように感じるため、こうした選択をすると、さしあたってはとてつもない抵抗感などが自分の中に生じます。

仏教では、「暴流(ぼる・ぼうる)」という言葉があり、これは、修行者が感じる、ある意味で暴力的なほどの意識の流れにあえて逆らうような感覚のことですが、おそらくはそうしたことを指しているのではないかと思われます。

ですが、テキストではこう書かれています。

「神の計画を、自分が成就したい唯一の機能として受け入れたなら、あなたが努力せずとも聖霊が他のすべてを手配するだろう。聖霊があなたの前を進み、躓きの石やあなたの行く手を阻む障害を一つ残らず取り除き、あなたの道を整えるだろう。あなたは、何一つ必要なものを拒否されない。困難と見えるものもすべて、あなたがそこに至るまでの間に溶け去っているだろう」(T-20.IV.8:4-7)

だからこそ、奇跡講座は、いわば「現代版易行道(いぎょうどう)」だということができます。

ただしそれは、道の容易さ(たやすさ)を全力で拒むことを、少しずつでもやめる気になるかどうかによります。

で、私もまだかなり、道とは困難なものだという信念に凝り固まっていますけどね(笑)。

いちお、テキストではこう書かれているということです。

最後はなんだか奇跡講座の宣伝になってしまいましたが、ですから、ま、易行道を行くと偉業をなす、ということですね。

で、意外かもしれませんが、実はイエスもこう言っているわけです。

「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書、11.29-30)

ここで「軛」と訳されているのは、英語では「yoke」ですが、これはおそらくは、「ヨーガ」のことです。

「yoga」もまた、「軛を付ける」というところから来ていますし、「yoga」と「yoke」はおそらく、同じインド・ヨーロッパ語族として、語源的につながりがあるものと思われます。

ヨーガとは簡単に言うと、心に一定のルールを施すことによって、神とのつながりを保持することなわけです。

ただし、外部からの「お仕着せ」ではなく、自発的に選択することが必要ですが。

「荷」というのは、言ってみれば、「心の重荷」のことでしょう。

つまり、このときイエスは、心がとても軽やかだったのでしょうね。

ですから、「私の軛は負いやすい」というのは、「私のしているヨーガはたやすい」ということだったのかもしれません。

言い換えると、イエスもまた実は、当時の文脈による易行道を行っていた、のかもしれませんね。

というわけで、「お開き」といたします。

奇跡講座テキストの序文について

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

奇跡は、例えば今まで自分を苦しめているとしか思えなかったものや人が苦しみの源泉ではなくなった、というようなことも含んでいて、奇跡講座で扱う奇跡とは、どちらかというとこうした方面、とりわけ、対人認知に「奇跡的な」変容をもたらすことに重点が置かれています。

こうしたことは、意識覚醒に伴って必然的に学ぶ必要のあることを含んでいるために、奇跡講座は、遅かれ早かれ誰しもが何らかの形で学ぶことになる、ある何かについての講座です。

ですが、形としての奇跡講座を学ばなければならない、というわけではありません。

同様のことは無数の教えの中でも言われていますが、ただ、奇跡講座はその方法論において、他の教えにはないものがあります。

ですが、ものごとにはタイミングがあり、学ぶことが可能な段階に至るタイミングは人それぞれです。

ですから、奇跡講座を学ぼう、学びたいと自発的に思った、あるいは感じたときが「その時」です。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

通常、人は、何を学ぶのかを自分で決めています。

それは究極的には、自我の言うことは本当だったと「再確認」する「学び」です。

まさにここから脱出する方策をもたらしているものが奇跡講座です。

ですから学びとは、その時その時に、自我の言うことを再確認するのか、あるいは聖霊のレッスンを学ぼうという意欲をあらためて抱くのか、その2つに1つを毎瞬毎瞬選んでいる、というところにあり、ここに自由意志を行使した選択の自由があります。

余談ですが、奇跡講座でいう「学び」とは、通常の意味での学びとは異なるようです。

通常だと、例えば、「5+3=8」といったことを学ぶことを「学び」だとしているわけですが、奇跡講座の場合には、例えば、「5+3=8」ということについて、自我の学びとして受け取るのか、あるいはそこに神の意味を感じ取るか、といったことを学ぶ、というような感じです。

ですから、自我ではなく聖霊のレッスンを学ぶという点において、この世界での出来事や対人関係は、例外なく教材として活用できる、ということになります。

ある形は聖霊からのもので、別の形は自我からのものだ、ということではなく、どんな形であっても、そこには、自我による捉え方と聖霊による捉え方とが必ずある、というような感じです。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

「臨在」と訳した元の言葉は「presence」ですが、これは、註1をご覧くださるとわかるようにキリスト教用語ですが、聖書の中で直接用いられているわけではないようです。

しかし、おそらくここでは「臨在」という意味であろうと思われます。

というのは、ただ、「愛は存在する」とだけすると、どうしても、ある場所や状況でのみ愛は存在するが、その一方で、愛が欠落している状況や場所などがある、という裁きを解消することができません。

奇跡講座の特徴の一つに、「例外がない」ということがあり、ここでもまた、そのニュアンスが感じられます。

もう一つ大切なことは、奇跡講座は愛について直接教えているわけではない、ということです。

そうではなく、その次のところに書かれていますが、愛の臨在に気がつくことを妨げているものを取り去る、ということが、このコースの狙いです。

これはまた、「ベールを取り去る」ということでもあります。

ベールが取り去られたとき、結果として、愛の臨在に気がつくようになる、という方法です。

だからこそ、奇跡講座は、「愛ではない」ものごとに重点を置いて解説しているわけです。

こうしたアプローチは、例えば、「ネーティ・ネーテイ」(註2)と呼ばれるものや、否定神学などにも見られます。

(否定神学に関しては、引用すると長くなるので、ウィキペディアをご覧ください)

また、原始仏教も実は似たところがあります。

こうしたアプローチも、一見すると否定的なようですが、それは、非本質的、非本来的なものごとを徹底的に否定していった結果、どのようにしても否定できない本質が結果として際立つ、という方法論のようなものがあるからです。

数学の証明に「背理法」というものがあり、これは、証明する結論をまず否定して、しかる後に、それでは矛盾が生じるということを論証して、そして、はじめに証明したい事柄は正しかったと結論付ける方法ですが、世界というものもいわば、一種の「神に対する背理法」のようなものとして存在している、という捉え方も可能です。

奇跡講座の場合には、否定神学のような「神は~ではない」という否定表現の代わりに、例えば「自我は~である」というような表現を重ねることによって自我を取り消し、結果として神がわかってくる、というようなアプローチです。

ですから、単なる否定神学よりは、「1段階層が深い」という言い方が可能かもしれませんが、いずれにしても、一見否定的な言説を重ねることによって、言葉を超えたところに至ろうとする、というアプローチの仕方は共通性があります。

ですから、例えば「神在り」という、知る人ぞ知る表現があり、これは、ただ神のみが実在するという意味ですが、奇跡講座的なアプローチの結果をあえて言葉で表現すると、「……結局神しかなかったのかよ。。。」みたいな感じになります。

こうしたアプローチの仕方をとっているために、奇跡講座は自我や罪や闇などについて延々と述べてはいますが、実は、奇跡講座は「愛についてのコース」(※)だというわけです。

※「これは、あなたについてのコースであるがゆえに、愛についてのコース(a course on love)だからである」(T-13.IV.1:2)

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語があり得ない。

ここでは、前半は二元性の中での対比としての愛と恐怖、そして後半が、非二元的な「何か」についての言及になっています。

ちなみに、「包括者」というのはヤスパース哲学の用語ですが、ヤスパースははじめ、精神医学者として世に出て、「精神病理学原論」という本を書き、それは西洋的な精神医学の基礎をなしています。

その後ヤスパースは哲学に転じ、「哲学的信仰」と呼ばれる独自の哲学を打ち立てましたが、「包括者」というのは、その中に登場する用語です。

それは、主観と客観に分かれる以前の存在そのものを指す言葉で、その包括者が、例えば主観としての自分と客観としての世界とに分かれて、現象として現れているのであり、そして、存在の包括性をもたらしているところのものが「超越者」、つまり神、と捉えられているようです。

そして、ヘレンもまた心理学者として、おそらく、「精神病理学原論」は読んでいたのではないかと思われます。

こうしたことから、あえてヤスパース哲学の用語で訳しました。

また、「The all-encompassing」というのは、神学的に神を議論するときに、神の性質の一つとしての、「全てを包括する存在」という意味で用いられる表現であり、哲学的立場としては汎神論に該当します。

汎神論と言えば、スピノザの哲学が、一般的には汎神論として知られていますが、ただし、調べてみると、ヘーゲルがスピノザの哲学を評して「無宇宙論」と表現しているようです。

無宇宙論とは、コトバンクによると、こう説明されています。

「神にだけ実在性を認めて、宇宙および宇宙の諸事物の実在性を否定し、それらを神や自我の一時的、仮象的な現れとする哲学説。ウパニシャッド、禅、またスピノザなどの哲学の類。無世界説。」

「宇宙あるいは世界の実在性を認めず、それを神や自我の様態または仮象と見なす思想。エレア学派やスピノザ・バークリーなどに見られる。無世界論。」

なんか、まんまですね。

ウィキペディアの「汎神論」の説明も興味深いです。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

さて、これは奇跡講座の中でも、あまりにも有名な「三行」ですが、ここで注意したいことがあります。

最初の1行目は、例えば公認訳ですと、「実在するものは脅かされない」となっていますが、こうした言葉から、普通は次のようなニュアンスを感じ取っています。

つまり例えば、「では、私は絶えず周囲から脅威を感じているので、私は実在ではないんだな。なぜならば、実在するものは脅かされないはずなのに、現に脅かされていると感じているのだから」というような、無意識的な推測をしてしまっていることがよくあります。

これは実は、ニュアンスが正反対になります。

この言葉が言っていることは、「だからこそ、安心していいんだよ」、という意味なんです。

つまり、この三行を平易に言い換えると、こんな感じになるわけです。

「あなたはまさに実在そのものなんだから、そのあなたが脅かされるなんてことは、本来あり得ないんだよ。つまり、自分が絶えず脅かされているかのように感じているのは、本来の状態を忘れてしまい、存在しないものが実在しているかのように感じているからなわけ。で、実在しないものは存在しないからね。ないものはないの。今のあなたは、ないものをあることにしようとして必死になっているんだから、そりゃ苦しいよ。だから、そういう知覚の間違い、つまりそれが、愛の臨在に気が付くのを妨げているものなんだけど、それを丁寧に取り去っていこうね。そうすれば、いずれ必ず神の平安を味わうことができるからね」

というわけです。

もちろん、先に書いたような推測は、普段はほぼ無意識的に行われているため、自覚されることはまずありません。

しかし、それを自覚し、そして、ここに書かれている本来の意味に立ち返ってみると、まさにそれが、自我の言うことを真に受けたことによる結果だということが、なんとなくおわかりいただけるかもしれません。

つまり、自我の言うことを真に受けた結果、自分は自我の感覚を自分の感覚として感じるようになり、そのために、自分が自我であるかのように感じている、というような感じです。

で、例えばこのように、奇跡講座の文章は、何か「愛あるダメ出し」みたいなニュアンスではなく、実は、自分を限りなく励まし、勇気づけてくれる内容なわけです。

こうしたニュアンスの逆転がなぜ生じるかについては、意識とはそもそもそのようにして成り立っているものだから、という感じのようです。

少し補足しますと、例えば、自我はあるのかないのかということについても、以下のように整理することも可能かもしれません。

これはつまり、自我は本来はありませんが、現時点では、まさに自我が実在しているかのような状況を味わっている、という、2つの捉え方が両立しているのではないか、ということです。

このように、自我はあるのかないのかという議論もまた、依って立つ大前提が異なると正反対の結論が出る、ということで、とりあえず納得するしかないようです。

ですから、まさに自我が実在するとしか思えない現時点での状況に対して、いきなり「自我はない」という言葉を適用すると、それは現状否認になってしまうわけです。

そうではなく、「自我は本来は存在しない」という観点から、「まさに自我が実在しているとしか思えない」という現時点での状況を捉える、というような感じになります。

註1 : 臨在(presence)とは、キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

註2 : 「ネーティ・ネーティ」はインド哲学用語であり、「しからず」という意味。アートマン(本来の自我)の不可説であることを表現したウパニシャッドに出てくる言葉。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の4章5節で、ヤージニャバルキャ仙人は妻マイトレーイーとの対話で、不壊不滅のアートマンを説くが、一切を認識するアートマン自身は何によって認識されるかというと、それは否定的判断によって「しからず、しからず」としか説明できないという。

(出典 : コトバンク)

奇跡講座 テキストの序文

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対語義があり得ない。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

臨在(presence) : キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

内容に関しては、https://wordpress.com/post/acim.home.blog/145 もご参照ください。