テキストの難解さについて

例えば、ガールズトークについて全く知らない人に対して、ガールズトークの楽しさの霊的な側面に関して、できるかぎり誤解の余地がないような言葉を選んで説明しようとしたとしますと、人同士のやりとりに対するイエス的な「うぶ」さを加味すれば、例えばこのようになります。

自分と兄弟とが、互いに利害を共有しているという前提の元に心を開き、思うことにできる限り検閲を差し挟まずにただ話すとき、普段は心の中に隠し持たれていた刃が、もはや不要になったという安堵とともに脇に置かれ、そこには「秘密の花園」が開花して、一つであることを思い出した彼らの心は、キリストへの招待状である。

「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書、18.18-20)

とかなんとかです。

ま、実際のガールズトークが肉眼にはどのように映っているかは別として、心眼(ヴィジョン)だとこのように見えるのかもですね(笑)。

ただし、「二人または三人が私の名によって」云々でイエスが言いたいことは、要するに、日本語で言う「三人寄れば文殊の知恵」ということですけどね。

テキストの言葉の難解さは、例えばこのようなものではないか、というお話でした。

激怒の構造

激怒する人は、なぜ激怒するのかを考えてみましょう。

このイラストにおいて、右側に描かれている人が、激怒する人です。

ところが激怒する人の心の中では、この状況は、実はこのように知覚されているわけです。

おわかりでしょうか。

形の状況では、激怒する人は確かに激怒しています。

しかし実は、激怒する人の心の中では、むしろ、周囲の人が潜在的に自分を攻撃しているかのように感じられていて、そして本人はそのことで脅えきっています。

だからこそ、「正当防衛」として激怒するわけです。

ですから奇跡講座では、攻撃は「愛を求める呼び声」だと表現しているわけですね。

「あなたが恐れを守ろうとしなければ、聖霊は恐れを解釈し直してくれる。それが、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である」(T-12.I.8:9-10)

「愛こそが世界の実相であり、あなたがその愛を見たいと思うなら、愛に対抗する防衛の一つひとつの根底に、愛を求める懇請が潜んでいることを認識する以上に良い方法があるだろうか」(T-12.1.10:1)

たとえばこうしたことは、意識の構造面からも説明できるというわけです。

また、2つめの引用から分かることは、防衛や攻撃とは愛を求めているのだと認識する目的は、自分が、世界の実相である愛を見たいからだということです。

まあ、そんなもの、別に見たくもないというのであれば、奇跡講座はそもそもお呼びではありませんが(笑)。

ここに書かれていることは、「もしあなたが愛を見たいと思うなら、このように認識するといい」ということであり、「愛を見たいか見たくないかに関わらず、このように認識しなければいけない」と書かれているのではありません。

構造的に言うと、「もしあなたがこうしたいのであればこうするといい」と書かれています。

言い換えるとこれは、「もしあなたがこうしたいとは思っていないのであれば、必ずしもこうする必要はない」ということです。

つまり、別に愛など見たくもないと思うのであれば、必ずしもこのように認識する必要はありません。

こうしたことは論理的な話です。

ですが、こうした文からはどうしても、「このようにしなければならない」というニュアンスを潜在的に読み取ってしまいます。

例えばこうした、潜在的な読み取りに無自覚で、それに完全に振り回されていることもまた、奇跡講座の学習を困難にしている要因の一つではないかという気がしています。

さらに言うと、私のこうした話も、「言葉を文字通りに受け取らなければならない」ということではありません。

あえて言うならば、言葉を文字通りに受け取るということに自覚的になってみると、自分が実は言外のニュアンスをいろいろと感じていて、しかもそのことに無自覚だった、ということに気がついてくる、ということが、ここで私が言いたいことです。

そして、こうしたことが、例えばワプニック博士の解説だと、ワークブックを練習するときに、ワークブックに書かれていることに対する自分の抵抗に着目するといい、というようなアプローチの仕方と関連してくるのでしょう。

さらに言うと、「もしあなたが愛を見たいと思うのであれば」という表現にしても、すでにここに、「あなたは当然、愛を見たいと思っているはずだ」というニュアンスが感じられます。

言い換えると、「「実は愛など見たくもない」と内心で密かに思っているあなたは、なんて「いけない」存在なのか」というようなニュアンスもまた、さらに奥には潜んでいるわけです。

こうした暗黙のニュアンスは、すべて、内心の罪悪感が完全に抑圧され、否認されていることに端を発しています。

さらに言うと、ここでは、「愛を見たい自分でなければならない」ということでもありません。

むしろ逆に、「私は愛など見たくないし、知りたくもない」という自分をはっきりと自覚することの方が、実は、学習上は「近道」です。

例えば、私は愛など見たくもないし知りたくもない、という自覚を持って日常を暮らしてみると、「実は愛を見たいし知りたいと思っている自分」に、否応なく直面「させられてしまう」ので(笑)。

ですから、実のところ、自分は愛を見たいと思っているということなんですけどね。

ここには例外はないというわけです。

ですが、はじめから頭ごなしにそのように捉えてしまうと、「実は愛など見たくもない自分」は、ますます否認されていきます。

「愛など見たくもない」という感覚は罪悪感と「相性がいい」ので、こうした感覚を否認していると、例えば、「実は自分は愛を見たいと思っていた」ということに直面したときに、「自分はその「事実」に「屈服」しなければならない」、といった認識を生じます。

ですから、こういう認識もまた、実は「罪悪感のなせる技」なわけです。

つまり、自分の意志に関わらず、無理矢理に、強引に仕向けられている、強いられているという感覚から立ち上がる認識です。

こうしたことは、実は実際には全く起きていませんが、ただ自分の中では、自分はまさに、相手や周囲からいろいろと強いられているという暗黙の感覚を強く持っています。

問題は、現実の人間関係では、自分も相手も、ある感情的な意図を持って言葉を使っているのが普通である、ということです。

自分が自分のありように、常に一定の「裏の意図」を含み持たせているために、相手の振る舞いにも「何か裏があるに違いない」と感じるわけです。

そうした状況の中では、他者とのコミュニケーションはそもそも成立しません。

そして、これが人間においては割と普通の状況です。

だからこそ奇跡講座では、私たちが普段、コミュニケーションだと思っているものは、実は全くコミュニケーションではないと述べています(cf. T-14.VI.6、15.IX.2)。

さて、初めのイラストに戻りますと、人はこのように、外見と内心とが真逆だというぐらいのギャップを抱えているのが通例です。

そのギャップが、実は、物理学的に言うと一種の「位置エネルギー」を生じさせるために、人はそれこそが「生きる意欲」だと感じます。

それは言い換えると、自分の中に常にある、ある種の「落差」が「原動力」になっている、ということです。

そしてそれは例えばこの場合ですと、この人が激怒するのもまた、「落差」を「埋め合わせよう」とする「位置エネルギー」の作用による、ということができます。

あるいは場合によってはそれは、外界や他者に働きかける力となる場合もあるでしょう。

ですから、癒やしがある程度進んでくると、以前のように生き生きとした感じがなくなってくるのは、自分の中のギャップが「低く」なってくるために、いわば、この「位置エネルギー」があまり生じなくなってくるから、というのもあるのでしょう。

そして、この「落差」がほぼなくなると、自分はまるで死んでしまったかのような感じにすらなってきます。

ですが実は、ここからが本当の始まりです。

これまでの「落差」は、いわば、この世界的な意味での落差、言い換えると「水平的な落差」だったのですが、その方向性が水平から垂直へと転換する(cf. T-1.II.6:3)ことにより、これは、神と自分との「落差」、あるいは、神の子である自分とこの世界の個人としての自分との「落差」、つまり「存在論的落差」というように転換します。

そうすることにより、自分は、神からもたらされる「位置エネルギー」の無限の供給を受けるようになります。

ただし、ここで言う「垂直的な落差」というのは、この世界での、高いところから低いところということではありません。

これは、いわば「意識の位置」のようなことです。

ですが、そのように知覚が転換すると、自分の見ている世界にもそれが反映される、つまりこれは奇跡講座で言うと「延長」ですが、そのことにより、すべての物事や対人関係の中に、潜在化した神と自分との関係を見いだすようになります。

そうすると、先の激怒している人は、実は、「神とは激怒している存在である」という先入観を無意識に持っていて、そしてそれを他の人の内心として投影して、そしてそれに対して脅えきっていて、そしてそれに対する「正当防衛」として激怒していた、というメカニズムが浮かび上がってきます。

そうすると、自分は「位置エネルギー」の「されるがまま」になり続けるのか、そうではない選択をするのか、という、「選択の自由」の余地が自分の中に生じます。

つまりここで、激怒する人は自ら物理的法則を逆転させる可能性を自分の中に見いだすことができます。

これが、「この交換(奇跡)は物理的法則を逆転させる」(T-1.I.9:2)の一つの現れとなります。

ただしこの段階ではまだ、これは心理的側面に限られていますが、例えばイエスが行ったような、水をワインに変えるといった奇跡もまた同様の仕組みが働いているのでしょう。

しかも、この段階ではまだ、物理的法則のもたらしている、ある種の強力な力にあえて逆らうという選択をしているように感じるため、こうした選択をすると、さしあたってはとてつもない抵抗感などが自分の中に生じます。

仏教では、「暴流(ぼる・ぼうる)」という言葉があり、これは、修行者が感じる、ある意味で暴力的なほどの意識の流れにあえて逆らうような感覚のことですが、おそらくはそうしたことを指しているのではないかと思われます。

ですが、テキストではこう書かれています。

「神の計画を、自分が成就したい唯一の機能として受け入れたなら、あなたが努力せずとも聖霊が他のすべてを手配するだろう。聖霊があなたの前を進み、躓きの石やあなたの行く手を阻む障害を一つ残らず取り除き、あなたの道を整えるだろう。あなたは、何一つ必要なものを拒否されない。困難と見えるものもすべて、あなたがそこに至るまでの間に溶け去っているだろう」(T-20.IV.8:4-7)

だからこそ、奇跡講座は、いわば「現代版易行道(いぎょうどう)」だということができます。

ただしそれは、道の容易さ(たやすさ)を全力で拒むことを、少しずつでもやめる気になるかどうかによります。

で、私もまだかなり、道とは困難なものだという信念に凝り固まっていますけどね(笑)。

いちお、テキストではこう書かれているということです。

最後はなんだか奇跡講座の宣伝になってしまいましたが、ですから、ま、易行道を行くと偉業をなす、ということですね。

で、意外かもしれませんが、実はイエスもこう言っているわけです。

「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書、11.29-30)

ここで「軛」と訳されているのは、英語では「yoke」ですが、これはおそらくは、「ヨーガ」のことです。

「yoga」もまた、「軛を付ける」というところから来ていますし、「yoga」と「yoke」はおそらく、同じインド・ヨーロッパ語族として、語源的につながりがあるものと思われます。

ヨーガとは簡単に言うと、心に一定のルールを施すことによって、神とのつながりを保持することなわけです。

ただし、外部からの「お仕着せ」ではなく、自発的に選択することが必要ですが。

「荷」というのは、言ってみれば、「心の重荷」のことでしょう。

つまり、このときイエスは、心がとても軽やかだったのでしょうね。

ですから、「私の軛は負いやすい」というのは、「私のしているヨーガはたやすい」ということだったのかもしれません。

言い換えると、イエスもまた実は、当時の文脈による易行道を行っていた、のかもしれませんね。

というわけで、「お開き」といたします。

奇跡講座テキストの序文について

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

奇跡は、例えば今まで自分を苦しめているとしか思えなかったものや人が苦しみの源泉ではなくなった、というようなことも含んでいて、奇跡講座で扱う奇跡とは、どちらかというとこうした方面、とりわけ、対人認知に「奇跡的な」変容をもたらすことに重点が置かれています。

こうしたことは、意識覚醒に伴って必然的に学ぶ必要のあることを含んでいるために、奇跡講座は、遅かれ早かれ誰しもが何らかの形で学ぶことになる、ある何かについての講座です。

ですが、形としての奇跡講座を学ばなければならない、というわけではありません。

同様のことは無数の教えの中でも言われていますが、ただ、奇跡講座はその方法論において、他の教えにはないものがあります。

ですが、ものごとにはタイミングがあり、学ぶことが可能な段階に至るタイミングは人それぞれです。

ですから、奇跡講座を学ぼう、学びたいと自発的に思った、あるいは感じたときが「その時」です。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

通常、人は、何を学ぶのかを自分で決めています。

それは究極的には、自我の言うことは本当だったと「再確認」する「学び」です。

まさにここから脱出する方策をもたらしているものが奇跡講座です。

ですから学びとは、その時その時に、自我の言うことを再確認するのか、あるいは聖霊のレッスンを学ぼうという意欲をあらためて抱くのか、その2つに1つを毎瞬毎瞬選んでいる、というところにあり、ここに自由意志を行使した選択の自由があります。

余談ですが、奇跡講座でいう「学び」とは、通常の意味での学びとは異なるようです。

通常だと、例えば、「5+3=8」といったことを学ぶことを「学び」だとしているわけですが、奇跡講座の場合には、例えば、「5+3=8」ということについて、自我の学びとして受け取るのか、あるいはそこに神の意味を感じ取るか、といったことを学ぶ、というような感じです。

ですから、自我ではなく聖霊のレッスンを学ぶという点において、この世界での出来事や対人関係は、例外なく教材として活用できる、ということになります。

ある形は聖霊からのもので、別の形は自我からのものだ、ということではなく、どんな形であっても、そこには、自我による捉え方と聖霊による捉え方とが必ずある、というような感じです。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

「臨在」と訳した元の言葉は「presence」ですが、これは、註1をご覧くださるとわかるようにキリスト教用語ですが、聖書の中で直接用いられているわけではないようです。

しかし、おそらくここでは「臨在」という意味であろうと思われます。

というのは、ただ、「愛は存在する」とだけすると、どうしても、ある場所や状況でのみ愛は存在するが、その一方で、愛が欠落している状況や場所などがある、という裁きを解消することができません。

奇跡講座の特徴の一つに、「例外がない」ということがあり、ここでもまた、そのニュアンスが感じられます。

もう一つ大切なことは、奇跡講座は愛について直接教えているわけではない、ということです。

そうではなく、その次のところに書かれていますが、愛の臨在に気がつくことを妨げているものを取り去る、ということが、このコースの狙いです。

これはまた、「ベールを取り去る」ということでもあります。

ベールが取り去られたとき、結果として、愛の臨在に気がつくようになる、という方法です。

だからこそ、奇跡講座は、「愛ではない」ものごとに重点を置いて解説しているわけです。

こうしたアプローチは、例えば、「ネーティ・ネーテイ」(註2)と呼ばれるものや、否定神学などにも見られます。

(否定神学に関しては、引用すると長くなるので、ウィキペディアをご覧ください)

また、原始仏教も実は似たところがあります。

こうしたアプローチも、一見すると否定的なようですが、それは、非本質的、非本来的なものごとを徹底的に否定していった結果、どのようにしても否定できない本質が結果として際立つ、という方法論のようなものがあるからです。

数学の証明に「背理法」というものがあり、これは、証明する結論をまず否定して、しかる後に、それでは矛盾が生じるということを論証して、そして、はじめに証明したい事柄は正しかったと結論付ける方法ですが、世界というものもいわば、一種の「神に対する背理法」のようなものとして存在している、という捉え方も可能です。

奇跡講座の場合には、否定神学のような「神は~ではない」という否定表現の代わりに、例えば「自我は~である」というような表現を重ねることによって自我を取り消し、結果として神がわかってくる、というようなアプローチです。

ですから、単なる否定神学よりは、「1段階層が深い」という言い方が可能かもしれませんが、いずれにしても、一見否定的な言説を重ねることによって、言葉を超えたところに至ろうとする、というアプローチの仕方は共通性があります。

ですから、例えば「神在り」という、知る人ぞ知る表現があり、これは、ただ神のみが実在するという意味ですが、奇跡講座的なアプローチの結果をあえて言葉で表現すると、「……結局神しかなかったのかよ。。。」みたいな感じになります。

こうしたアプローチの仕方をとっているために、奇跡講座は自我や罪や闇などについて延々と述べてはいますが、実は、奇跡講座は「愛についてのコース」(※)だというわけです。

※「これは、あなたについてのコースであるがゆえに、愛についてのコース(a course on love)だからである」(T-13.IV.1:2)

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語があり得ない。

ここでは、前半は二元性の中での対比としての愛と恐怖、そして後半が、非二元的な「何か」についての言及になっています。

ちなみに、「包括者」というのはヤスパース哲学の用語ですが、ヤスパースははじめ、精神医学者として世に出て、「精神病理学原論」という本を書き、それは西洋的な精神医学の基礎をなしています。

その後ヤスパースは哲学に転じ、「哲学的信仰」と呼ばれる独自の哲学を打ち立てましたが、「包括者」というのは、その中に登場する用語です。

それは、主観と客観に分かれる以前の存在そのものを指す言葉で、その包括者が、例えば主観としての自分と客観としての世界とに分かれて、現象として現れているのであり、そして、存在の包括性をもたらしているところのものが「超越者」、つまり神、と捉えられているようです。

そして、ヘレンもまた心理学者として、おそらく、「精神病理学原論」は読んでいたのではないかと思われます。

こうしたことから、あえてヤスパース哲学の用語で訳しました。

また、「The all-encompassing」というのは、神学的に神を議論するときに、神の性質の一つとしての、「全てを包括する存在」という意味で用いられる表現であり、哲学的立場としては汎神論に該当します。

汎神論と言えば、スピノザの哲学が、一般的には汎神論として知られていますが、ただし、調べてみると、ヘーゲルがスピノザの哲学を評して「無宇宙論」と表現しているようです。

無宇宙論とは、コトバンクによると、こう説明されています。

「神にだけ実在性を認めて、宇宙および宇宙の諸事物の実在性を否定し、それらを神や自我の一時的、仮象的な現れとする哲学説。ウパニシャッド、禅、またスピノザなどの哲学の類。無世界説。」

「宇宙あるいは世界の実在性を認めず、それを神や自我の様態または仮象と見なす思想。エレア学派やスピノザ・バークリーなどに見られる。無世界論。」

なんか、まんまですね。

ウィキペディアの「汎神論」の説明も興味深いです。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

さて、これは奇跡講座の中でも、あまりにも有名な「三行」ですが、ここで注意したいことがあります。

最初の1行目は、例えば公認訳ですと、「実在するものは脅かされない」となっていますが、こうした言葉から、普通は次のようなニュアンスを感じ取っています。

つまり例えば、「では、私は絶えず周囲から脅威を感じているので、私は実在ではないんだな。なぜならば、実在するものは脅かされないはずなのに、現に脅かされていると感じているのだから」というような、無意識的な推測をしてしまっていることがよくあります。

これは実は、ニュアンスが正反対になります。

この言葉が言っていることは、「だからこそ、安心していいんだよ」、という意味なんです。

つまり、この三行を平易に言い換えると、こんな感じになるわけです。

「あなたはまさに実在そのものなんだから、そのあなたが脅かされるなんてことは、本来あり得ないんだよ。つまり、自分が絶えず脅かされているかのように感じているのは、本来の状態を忘れてしまい、存在しないものが実在しているかのように感じているからなわけ。で、実在しないものは存在しないからね。ないものはないの。今のあなたは、ないものをあることにしようとして必死になっているんだから、そりゃ苦しいよ。だから、そういう知覚の間違い、つまりそれが、愛の臨在に気が付くのを妨げているものなんだけど、それを丁寧に取り去っていこうね。そうすれば、いずれ必ず神の平安を味わうことができるからね」

というわけです。

もちろん、先に書いたような推測は、普段はほぼ無意識的に行われているため、自覚されることはまずありません。

しかし、それを自覚し、そして、ここに書かれている本来の意味に立ち返ってみると、まさにそれが、自我の言うことを真に受けたことによる結果だということが、なんとなくおわかりいただけるかもしれません。

つまり、自我の言うことを真に受けた結果、自分は自我の感覚を自分の感覚として感じるようになり、そのために、自分が自我であるかのように感じている、というような感じです。

で、例えばこのように、奇跡講座の文章は、何か「愛あるダメ出し」みたいなニュアンスではなく、実は、自分を限りなく励まし、勇気づけてくれる内容なわけです。

こうしたニュアンスの逆転がなぜ生じるかについては、意識とはそもそもそのようにして成り立っているものだから、という感じのようです。

少し補足しますと、例えば、自我はあるのかないのかということについても、以下のように整理することも可能かもしれません。

これはつまり、自我は本来はありませんが、現時点では、まさに自我が実在しているかのような状況を味わっている、という、2つの捉え方が両立しているのではないか、ということです。

このように、自我はあるのかないのかという議論もまた、依って立つ大前提が異なると正反対の結論が出る、ということで、とりあえず納得するしかないようです。

ですから、まさに自我が実在するとしか思えない現時点での状況に対して、いきなり「自我はない」という言葉を適用すると、それは現状否認になってしまうわけです。

そうではなく、「自我は本来は存在しない」という観点から、「まさに自我が実在しているとしか思えない」という現時点での状況を捉える、というような感じになります。

註1 : 臨在(presence)とは、キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

註2 : 「ネーティ・ネーティ」はインド哲学用語であり、「しからず」という意味。アートマン(本来の自我)の不可説であることを表現したウパニシャッドに出てくる言葉。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の4章5節で、ヤージニャバルキャ仙人は妻マイトレーイーとの対話で、不壊不滅のアートマンを説くが、一切を認識するアートマン自身は何によって認識されるかというと、それは否定的判断によって「しからず、しからず」としか説明できないという。

(出典 : コトバンク)

奇跡講座 テキストの序文

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対語義があり得ない。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

臨在(presence) : キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

内容に関しては、https://wordpress.com/post/acim.home.blog/145 もご参照ください。

寛容ラップに見られる自己側と他者側の差異

の続きです。

このおばあさんははじめ、自分がお金を出すのがもたもたしていることで、周囲から暗に責められているように感じています。

それが、おばあさんが体験している「世界」です。

しかし、後ろに立っていた男性は、実は全くそんなことは思っていませんでした。

ということは、おばあさんが感じていた「世界」とは、実は、そのおばあさんの「心の中」のことだったわけです。

ここにこそ、奇跡講座でいう「ベール」があります。

これが、奇跡講座が言う「世界は幻想」ということの、最も下位のレベルでの話です。

「下位のレベル」と表現したのは、究極的には確かに、この物理的世界自体が幻想だという段階があるからですが、現段階ではそうではないからです。

そして、おばあさんが「世界」だと感じている、おばあさんの「心の中」は、しかしながら、そのおばあさんにとっては、まさにそれこそが、「リアルな世界」だとしか感じられないわけです。

言い換えると、自分から見えている世界は自分の「心の中」だということを、他者側から見ると、このようになっている、ということです。

おばあさんにとっての「世界」は、おばあさんにとっては確かに「リアル」なのですが、その、おばあさんにとっての「リアルな」世界は、他の人から見ると、実はどこにも存在していません。

しいて言えば、それはおばあさんの「心の中」での話だと感じられます。

しかし、おばあさんにとっては、他の人から捉えると存在していないとしか思えない世界、言い換えると、「心の中」こそが、まさに「リアルな」世界として体験されています。

空間には実はこういうからくりがあります。

ですから、例えば後ろに並んでいた、ちょっと怖そうなお兄さんは、自分は周囲から怖がられているという世界を体験しています。

ですから、他の人が彼に対して、ちょっとでも、彼の攻撃性を「前提」として彼に接すると、彼はそれに対して防衛的に反応します。

しかし、彼が「正当防衛」している様子を他者側から見ると、彼はとても攻撃的な人にしか見えない、というわけです。

つまり、怖そうなお兄さんの「攻撃性」は、実は架空のものであり、言い換えると、「あの人は攻撃的だ」という周囲の人の信念が本人に集積した結果、彼は、「自分は攻撃的な人だと思われている」という意識をまとうようになり、そしてそのシャドウである意識が絶えず彼を攻撃してくるために、それに対して「正当防衛」をしているだけであり、その結果として、実際にも彼が攻撃的な人のように見えているだけ、なのかもしれません。

つまりそれは、実際の彼とは実は何の関係もない、一種の「虚像」だというわけです。

これが、「救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである」(T-27.VIII.10:1)ということです。

つまり彼は、そのご自身の殻を打ち破って、そもそも愛でしかないご自身をダイレクトに表現した結果、奇跡が起きたわけです。

「奇跡は愛の表現として自然に起こる。真の奇跡とは、奇跡を喚起する愛そのものである。この意味において、愛から生じるものはすべて奇跡である」(T-1.I.3)

例えばこのように、空間に潜在する自己側と他者側の存在論的差異が見えてくると、奇跡講座に書かれていることもまた、すっきりと見えてきます。

奇跡講座的に読み解くACジャパン CM 寛容ラップ

このCMは、奇跡講座で言及されている奇跡が下敷きになっていると感じました。

もちろん脚色されてはいますが、自我のベールを取り去る(T-19.IV.D.i)と実相はこんな感じだということが、わかりやすく描かれている好例です。

ただし、そのベールは実際には、幾重にも重なっていますから、1枚や2枚取り去っただけでは実相は見えてきません。

もう一つ大切なことは、これをただ客観的に眺めるだけではなく、まさに「自分事」であると受け取ると、その意味が見えてきます。

つまり、自分はまさに日々、このおばあさんと本質的に同じ状況を味わっている、というところから捉えると、奇跡とはどういうことなのかがわかってきます。

説教じみてすみませんが。

よかったら、「「ベールを取り去る」ことに関して」もご参照ください。
https://wordpress.com/post/acim.home.blog/107

追記しますと、つまり、このCMの最後の様子は、実相世界の様子を誇張して描写してあります。

ただし実際には、人々のしぐさが変わるというより、世界や人々に対して自分が感じているニュアンスが、例えばこのような感じになる、という感じです。

いずれは、自分にとってすべてが明らかになるでしょう。

奇跡講座の「まえがき」より

「由来」

「由来」に書かれていることは概ね、このコース(奇跡講座のこと)がどのようにしてもたらされたかについての概説ですが、この中で一つ、注意点があります。

このコースは、ビル(ウィリアム・セットフォード)がヘレン(ヘレン・シャックマン)に、「何か別の道があるはずだ」と結論し、ヘレンが、その道を見つけるのを手伝いましょうと言ったことによって始まったとされています。

奇跡講座関係では半ば「伝説」のようになっていることですが、ヘレンとビルの関係は非常にまずく、この「まえがき」の表現によると、「二人の仲は難しく、時に緊張をはらみ、」と書かれていて、また、ビルは、「私たちの態度に表れている怒りや攻撃の感情にはうんざりした」と発言したと書かれています。

そして、「何か別の道があるはずだ」というビルの、あの有名な「鶴の一声」に連なるわけです。

では、ここでビルが言った「何か別の道」とは、具体的にはどのようなことを指していたのでしょうか。

明らかに、奇跡講座はこの、「何か別の道」を見いだすためのガイダンスのようなものとして下りてきていますし、「まえがき」でも、「どうやら、このコースがその別の道だったようです」と書かれています。

これに関しては、言うまでもなく、まずはヘレンとビルの関係のありようには「別の道がある」ということだと思います。

そして、彼らが実際にそれらを体感することにより、そのことが彼らのありようを通して広がっていく、という流れがあったのではないかと思われます。

だからこそ、ワプニック博士は『天国から離れて』の第13章で、このように書いています。

「ヘレンもビルも、『講座(コース)』と一体感をもてなかったことはもとより、お互いを赦すことができなかったことにより、そういった指導的役割を担うことは不可能となった。しかも、イエスからは、『講座(コース)』を書き取った後にさらに重要な役割を彼らのどちらもが果たすことになる、と繰り返し保証されていたにもかかわらずである。(中略)すでに示唆したとおり、この当時およびそれ以前のいくつものメッセージは、彼らふたりのさらに大きな役割を暗示していた。間違いなくそれは教えるという機能(はたらき)に関連しており、彼ら自身が指導的立場につくことをほのめかしていた」

また、同じ章ですが、アイリーン・ギャレットという霊能者がヘレンに、次のように言ったと書かれています。

「もしあなたが、自らの書き取ったものとともに進むなら、あなたはこの地上でもっとも幸せな人となるでしょう。しかし、もしあなたがそれに抗うとしたら、あなたは病気になり、残りの人生は不幸なものとなるでしょう」

そして、『神の使者』のアーテンとパーサが二人で登場したことの意味は、なぜかあまり着目されてきませんでしたが、このことが示唆していることは、つまり、現代においては、アセンションには双対性の自覚が必要だということです。

こうしたことと、後述する、特別な関係に内在する可能性もまた、おそらく密接に関連しています。

話を戻します。

さて、ここで一つ、とても大切なことが示唆されています。

それは、ヘレンとビルの関係は非常に困難なもの(difficult)であり、しばしば緊張をはらんでいたということです。

(奇跡講座の用語では、こうした関係のことを「特別な関係」と表現しているので、以下、「特別な関係」と表記します)

こうしたことから分かることは、まず、奇跡講座がもたらされたのは、ヘレンとビルの特別な関係が発端だったということです。

ここまではいいと思います。

さて、では、自分が現に体験している特別な関係に関しては、どうなのでしょうか。

彼らの特別な関係だけが、それこそ何か特殊な可能性を秘めていたのであり、今、自分が現に体験している特別な関係は「例外」なのでしょうか。

(※余談ですが、英語の「special」は、日本語では「特別」の他に、文脈によっては「特殊」とも訳されます)

「特別な関係」という関係の構図自体は、ある種の普遍性があるので、実は、何ら特別なものではありません。

その具体的な形は千差万別ですが、関係認知が特別性に根ざしているということ自体は、どんな特別な関係であろうが同じです。

では、ヘレンとビルの特別な関係では可能だったけど自分の陥っている特別な関係では不可能だ、ということが、果たしてあるのでしょうか。

言い換えると、特別な関係を、ただ自分を害するものとしてのみ受け取ることは、同時に、何か重大な可能性をも切り捨てているのではないでしょうか。

さて、話を続けます。

特別な関係に関して、まえがきの中の「教義」には、次のようなことが書かれています。

「この世界の「特別な関係」は、破壊的で利己的、そして幼稚なほど自我中心的である。しかし聖霊にゆだねられたとき、そうした関係は、地上で最も神聖なものとなり、天国へ戻る道を指し示す奇跡となる」

また、テキストにはこう書かれています。

「地上における最も神聖な場所とは、往古の憎悪が現在の愛となった場所である」(T-26.IX.6:1)

これらの記述が連関していることが感じられます。

そしてまた、奇跡講座では、特別な関係を神聖な関係へと変容させる、ということが、かなり大きなテーマになっています。

ものすごく簡単に言うと、特別な関係には、「これは特別な関係である」という知覚のベールがかぶせられているのですが、そのベールが取り去られたとき、それまで特別な関係だと知覚されていたものは、実は神聖な関係だったということが分かる、ということです。

もちろん、神聖さとは「例外がない」ことですから、これは、特定の個人と個人とだけのことではありません。

例えば、目の前のスマホとの間に、今、自分は「特別な関係」を持っていますが、それを神聖な関係に変容させることもまた、奇跡講座の狙いの一つです。

さて、テキストには、こういう記述があります。

「あなた方は二人で一緒に、自分たちの関係の中に聖霊を招き入れた。そうでなければ、聖霊は中に入ることはできなかった」(T-17.V.11:1)

もちろん、こうした描写は特定の誰かと誰かのことではないと捉える、というのが、奇跡講座を理解するときの「お約束」ですが、しかしそれと同時に、奇跡講座は、ヘレンとビルとの関係に降りてきた、ということも事実です。

そのことを踏まえると、上の記述にはある一定の「具体的な背景」が感じられますし、また、これは、具体的・個別的な体験から、そこに内在する普遍性が「立ち上がって」きたものではないか、ということが感じられます。

ですから例えば、テキストのこの辺りの記述も、もちろん万人向けではあるものの、それと同時に、イエスがヘレンに個人的に語りかけているという側面も、確実にあったと思われますし、また、そのような背景を踏まえて読むと、このくだりの「リアリティ」が、桁違いにはっきりしてきます。

ですから例えば、同じ段落の中で、「あなたも同じように、兄弟に対して感謝の気持ちを抱いてきただろうか。善意ある努力に一貫して感謝し、間違いを見過ごしてきただろうか。あるいは、実在する間違いのように見えたものを前にして、あなたの感謝は揺らいで、霞んでいっただろうか」(T-17.V.11:6-8)といった箇所もまた、実は極めて具体的な状況に関するアドバイスであることが感じられます。

だからこそ、以下のような記述もまた、そのままの意味であることが感じられます。

「これは極めて実用的なコースであり、述べられている通りのことを意味していると、あなたにもすでにわかり始めているはずである」(T-8.Ix.8:1)

「このコースはあなたが理解して使用するに充分なほど具体的でないと、あなたは苦情を言うかもしれない。だが、そう言うあなたは、おそらくこのコースが具体的に提唱していることを実行してこなかったに違いない」(T-11.VIII.5:1-2)

で、ヘレンとビルが、果たして彼らの特別な関係を神聖な関係に変容させることができたのか、に関しては、私が言うのは野暮というものでしょう。

言い換えると、それはそれ以降の全ての人の手に託された、ということも感じられます。

つまり、このことを、時空を超えた贖罪の「バトンリレー」のようなものとして捉えると、いわば、「私はここまで達した。次はあなたの番だ」として、バトンを託されたようなものなのかもしれません。

「構成」

「構成」には、まず、奇跡講座がテキスト、ワークブック、マニュアルで構成されている(正確には、この他に小冊子として、『精神療法』と『祈りの歌』がある)ことが書かれていますが、そこには同時に、こう書かれてもいます。

(※「小冊子」と訳されている元の英語は「supplement」であり、これは「補足」「補編」といった意味です)

「これらの教材を使う順序や学習方法は、受講生各自の必要や好みに任される」

ですから、どのように取り組むかに関しては、自分に合ったやり方でよい、ということになります。

ただし、例えば、ワークブックのレッスンは、一日に行うレッスンは1つである、といった簡単なルールは決められていて、それは最低限遵守する必要があるのでしょう。

マニュアルにはこう書かれています。

「場合によっては、生徒にとって、この「マニュアル」を最初に読むことが役に立つかもしれない。あるいは、「ワークブック」から始めたほうがよい者たちもいるだろう。さらに他の者たちは、「テキスト」で、もっと抽象的なレベルから始める必要があるかもしれない」(M-29.1:5-7)

また、ワークブックの序文には、こう書かれています。

「「テキスト」が提示しているような理論的基盤は、この「ワークブック」の演習に意義をもたせる枠組みとして必要なものである。しかしこのコースの目標の達成は、演習を行うことで可能となる。訓練されていない心には、何も達成できない。「テキスト」が教えている通りの考え方ができるように心を訓練することが、この「ワークブック」の目的である」(W-in.1:1-4)

それから、これはテキスト自体を学ぶときの注意事項ですが、意外に見落とされている印象があるので、列挙しておきます。

「このコースの後半には、最初の数章に深く根ざしている部分があるため、これらの章の注意深い学習を義務づけないわけにはいかない。また、あなたには準備のためにもそれが必要である。この準備なしでは、後に続く内容があまりにも恐ろしく思えてきて、それを建設的に用いられなくなるかもしれない」(T-1.VII.4:2-5)

「(前略)このコースの後半のいくつかのステップは、神ご自身への直接的なアプローチを伴う。こうした後半のステップを周到な準備なしで始めることは賢明ではない。そのようなことをすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷(トラウマ)をもたらすようなものとなってしまう」(T-1.VII.5:7-8)

こうしたことから言える、私の体験も交えての「学習のコツ」を一つ述べます。

例えば先に、テキスト第17章から、あなたは兄弟に感謝しているだろうかという意味の文章を抜粋しましたが、これは実は、テキストの後半に属しています。

これが意味していることは、兄弟に感謝する前に取り組むべきことがある、ということです。

つまり、例えば、恐怖や罪悪感などがリアルだと感じている状態で兄弟に感謝するというのは、他の霊的な教えでも割と一般的なことなのですが、奇跡講座ではそうではなく、まずは聖なる瞬間を練習して、罪悪感や恐怖などのない状態がある、ということを感じ取り、次に、実相世界への橋を渡って実相世界に到達し、そうしてはじめて、兄弟に感謝するとはどういうことなのかが体感的にわかる、という流れになっています。

実は、テキストの後半は、実際に実践はこのような順序をたどる、という流れがあります。

これも、一通り実践してみると分かります。

ですから、テキストの後半に述べられていることを、その段階までの実践が積み重なっていない状態で実践しようとすることは、ごく簡単に言うと、その実践がトラウマ体験となるようなことを招きかねません。

これが、先に引用した箇所に書かれていることです。

脅すような言い方になっていたら申し訳ありませんが、しかし、コツコツと実践した果ての実りは、文字通り計り知りない、ということだけは述べておきます。

神の無条件の愛というものがどういうものかがわかり、知覚が恐怖ベースから愛ベースに移行し、ワプニック博士の言う存在論的罪悪感が癒やされると、実際に、今まで自分が世界だと思って体験していたものは幻想であり、本来の世界とは何もかもが逆転していた、ということが、次第に分かってきます。

さて、「構成」の、以下の記述もまた大切です。

「キリスト教の言葉が使われてはいるが、扱っているのは普遍的な霊性に関するテーマである。こうした普遍的なカリキュラムはほかにもいくつもあり、このコースはその一つにすぎず、異なるのは形だけであることが強調されている。そうしたカリキュラムはすべて、最終的にはに行き着く」

これは、マニュアルの以下のことと関連しています。

「本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす」(M-1.4:1-2)

奇跡講座は、普遍なるコースの特別な形態の一つである、ということです。

ですから、奇跡講座だけが唯一絶対の教えだというわけではありません。

こうしたことは、実はワプニック博士も述べています。

ワプニック博士は何ら、奇跡講座は唯一絶対の教えだとは言っていないどころか、こう述べています。

「私たちが『奇跡講座』と呼ぶ特別な霊性の道として、このコースは、単に、全世界的な適用性をもつことを意図されてはいないのです。他の文化や宗教的伝統においては、それらに独自の霊性の道がいくつもありますし、あり続けるでしょう」

「本書において私たちが繰り返し指摘してきたように、「すべての人々との普遍的なつながり合い」が、普遍的なコースの教える内容ですが、人々がそのレッスンを学ぶときには、学びの具体的な方法が、前述の「特別なカリキュラム」の様々な形態を構成します。そして、『奇跡講座』は単にその諸形態の一例なのです」

(いずれも、ワプニック博士の著作である『赦しのカリキュラム』の、質問67より)

ちなみにここで、「普遍的なコース」と訳されているのは、マニュアルの中での「普遍なるコース」と同じです。

ここでワプニック博士は、「すべての人々との普遍的なつながり合い」が、普遍的なコースの「内容」だと明言しています。

ですから、自分のみの救済に専心するというのは、実は、ワプニック博士の教えとは異なる、ということです。

ですが、それと同時に、実践面においては、ただ自分の知覚の訂正のみが求められていることである、というのもまた事実です。

「これは哲学的思弁に関するコースではなく、厳密な語義にこだわるものでもない。贖罪のみに、すなわち、知覚の訂正のみに関するものである」(C-in.1:1)

つまり、自分の知覚が訂正された結果として、すべての人々との普遍的なつながり合いがもたらされる、ということであり、だからこそワプニック博士は、ただ一人一人の知覚の訂正のみにフォーカスして教えていた、というわけです。

つまり、例えば仏教には、小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教という大きな派閥があり、前者は自分の救済に、後者は人々の救済に、それぞれフォーカスしていますが、奇跡講座は、ただ自分に専心することが、結果として人々とのつながりをも回復させる、というスタンスを取っている、というわけです。

こうしたところから、仏教と奇跡講座との連関もまた見えてきます。

例えば、以下のようなことがあります。

「聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄、結文より)

「阿弥陀仏の、きわめて長期間にわたって思惟された願いは、よくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためなのであった。そう思うと、多くの悪業に縛られたわが身であったのに、その身を助けようと思い立ってくださった本願のなんとありがたいことか」(現代語訳:阿満利麿)

の法則はただあなたの益となるように働き、の法則の他に法則はない」(T-10.IV.4:4)

から「わが子を解放せよ!」と言われているあなたが、が解放を求めているのはあなたのためだと学んだときに、それに耳を傾けたくないという誘惑に負けたりするだろうか」(T-31.VII.15:5)

「真理はただあなたに幸せを与えたいだけである。それが真理の目的である」(W-pI.136.12:4)

つまり、神はただ「わたし」を救いたいだけです。

しかし、全ての人の中の「わたし」に、同様に働きかけているというわけです。

もちろん、こうした言葉の背景や詳細は、この世界で信じられているものとはことごとく逆転しています。

こうしたことは、実践を積み重ねていくことにより、はじめて実感されます。

また、ワークブックの序文に関して、「構成」では以下のような指摘がされています。

「序文においては以下の通り、「ワークブック」の実用性が強調され、最初から霊的な目標に専心することよりも、実践による体験を重視している」

このように、奇跡講座は実は、「霊的な目標に専心する」ものではありません。

「実践による体験」を目指しています。

「普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか、必要である。このコースは、その体験へと向かうものである」(C-in.2:5-6)

奇跡講座が目標としているのは、実は、天国に帰ることではありません。

厳密に言うと、それを直接目指すものではありません。

そうではなく、どうやら、自分が完全に、幻想の世界という知覚をもたらしていた思考、すなわち自我による思考体系、から解放されること、のようです。

その思考体系から解放されたとき、世界は天国を反映したものとして、ありのままに知覚されるようになります。

ですから、かつて自分が世界や他者の姿にかぶせていた、自我による解釈というベールが完全に取り去られること、が、さしあたっては奇跡講座が目指していること、だったようです。

そうしたことについて、「構成」では次のように述べています。

「『奇跡講座』はこのコースが終着地点であるとは主張せず、「ワークブック」のレッスンも受講生の学びを完結させるところまでは意図していない。最後には各人が自らの内なる教師にゆだねられ、その後の学びはすべて、内なる教師により各人に最もふさわしい形で導かれることになる」

そうして、ワークブックの「エピローグ」から、やや長い引用がされています。

つまり、奇跡講座がゴールとしているのは、各人がただ、神と聖霊のみを頼りとすることができるようになる、というところまでだということです。

ただし、ロードマップは示されています。

「そうして彼は贖われる。目の前に天国の門が開かれているのを見て、彼はその中に入り、神の胸(こころ)の中へと消えていくだろう」(W-pII.14.5:4-5)

この直前には、兄弟を救済することについて述べられていますが、これは何か社会的な形や、あるいは何らかの活動や運動をすることではありません。

しかし例えば、「自分は苦しんでいると考えていた神の子に、私たちは嬉しい知らせを運ぶ」(W-pII.14.5:3)というとき、私たちがまだ苦痛という信念を保っていたら、私たちは嬉しい知らせではなく苦痛に満ちた知らせを運ぶことになります。

これは、言葉として「真理の言葉」を話すかどうかではありません。

自分のありようそのものが、ただ「嬉しい知らせ」となっていることです。

で、この「嬉しい知らせ」と訳されている元の言葉は、「glad tiding」ですが、これは、単語は異なるものの、要するに「good news」つまり「よい知らせ」であり、早い話、「福音」のことです。

つまり、自らのありようがただ福音そのものであること、だというわけです。

これを、分離がリアルであるという前提の元で、ただ形だけ成し遂げようとすると、それがおそらくは、ワプニック博士の言う「能天気な極楽トンボ」(ケネス・ワプニック インタビュー、第11回「階梯の初段階」に登場します)となるのでしょう。

さて、「教義」に関しては、ここでは触れません。

いずれにしても、私はまだ充分に到達しているわけではありません。

私はまだ、この世界の根源的な逆転性がありのままに見えてきて、正直、いささか参っているところです。

個人的には、以前とは全く変わり、基本的にはただ喜びと平安のみがあるんですけどね。

ただし、この喜びは、楽しくはしゃぐ感じではなく、平和で静かなものです。

奇跡講座の内容の一例

「あなたの周囲にあるもので、あなたの一部でないものは一つもない。それを愛をもって眺め、その中に天国の光を見なさい。あなたは自分に与えられるすべてのものを、そのように理解するようになるだろう。優しい赦しの中で世界は燦然と輝き、あなたがかつて罪深きものと思った一切が、今では天国の一部として解釈し直される」(T-23.in.6:1-4)

奇跡講座には「世界は幻想」と書かれているというのは、奇跡講座について少しでも知っている人ならば、一度は聞いたことがあると思いますが、例えば上のような、奇跡講座のテキストの記述を読んで、正直、「これのどこが「世界は幻想」なのか」と、普通に感じます。

もう正直私には、いろいろなことが素でわからなくなってしまいました。

確かに、ワークブックにはこう書かれています。

「世界は存在しない! これがこのコースが教えようとしている中心概念である」(W-pI.132.6:2)

ですが、このレッスンをよく読むと、このレッスンは、自分の中の思い込みとしての「世界」というイメージや先入観から、実際の世界を解放する、ということについてのレッスンです。

例えば、レッスン132の第13段落では、はじめは確かに、「世界は存在しない」(W-pI.132.13:1)と書かれていますが、最後は、「自分の心を解放するなら、あなたは、解放された世界を見るだろう」(同13:6)と書かれています。

この二つの「世界」が同じことを意味しているとしたら、これは明らかに、わずか1つの段落の中でも、奇跡講座は互いに矛盾したことを述べていることになります。

ですが、このレッスンは、「「世界」から世界を解放する」ということについてのレッスンである、ということが重要です。

ここでは、結論めいたことは、書かないでおきます。

「ベールを取り去る」ことに関して

実際に奇跡講座に書かれていることについて、例えば、テキストの以下の部分を採り上げて、詳細に見てみたいと思います。

T-19.IV.D 「i. ベールを取り去る」というところをご覧ください。

ここでは、誰か兄弟に関して、その兄弟に対する知覚が具体的にどのように変容するか、について、ある整然とした流れ、あるいはプロセスとして、きわめて詳細に書かれています。

それを順番に見ていきましょう。

まず、第8段落から第11段落までは、一種の「心の準備」、あるいは「心構え」のようなことについて書かれています。

そして、第12段落では、兄弟は、「依然として異邦人のように見えている」(T-19.IV.D.12:1)存在として描かれています。

出発点においては、自分は相手に恐怖や罪悪感などに根ざす知覚を投影して、相手を攻撃していますが、「しかし、彼の手の中にあなたの救済がある」(12:4)として、ここから、相手の中にキリストを見るというプロセスが始まります。

そのために、「彼についてのあなたの解釈」(12:2)を心の中で手放すこと、つまり「赦す」(12:7)ことが必要となります。

これはまた、相手に対する先入観を「脇に置く」ことである、とも言うことができます。

要するに、相手の姿に自分が投影している先入観、ないしは解釈、を、自分の視界からどける、ということです。

これが、「自分の目から梁を取り除く」(マタイによる福音書、7.3-5。新共同訳では「梁」は「丸太」となっている)として、福音書でイエスが言っていることに相当します。

さて、第13段落において、兄弟は、「あなたに贖罪の聖杯を差し出している者」(13:1)として描かれています。

この段階において、相手は、「異邦人」から、「贖罪の聖杯を差し出している者」へと、知覚が少し変容しています。

ここでは、相手は、今まで自分が思い込んでいたような存在ではなかったのかもしれない、という可能性に対して、少し心が開かれた様子について描写されています。

だからこそ、攻撃の手は止んでいます。

そして、「あなたは彼の罪を理由に彼を咎めたいだろうか。それとも、彼からあなたへの贈り物を受け入れたいだろうか。救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか」(13:2-3)として、ここに、知覚における二者択一性が提示されています。

そして、その上で、「自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになることを思い出して、彼がそのどちらであるかを選択しなさい」(13:4)とイエスは言っています。

つまり、選択するのはあくまでも自分である、ということです。

ここでは、聖霊か自我かという選択が、具体的にどのようになされるのかについての描写の一つになっています。

そして、「あなたに彼の罪を赦す力があるのと同様に、彼の中にもあなたの罪を赦す力がある。あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない」(13:5-6)という箇所では、赦しとは、実は対関係において成されるものである、ということが示唆されています。

例えばこれ、つまり、赦しは実は対関係において成されるものだということが、今までの奇跡講座の理解および実践に欠落していた観点の一つではないかと思われます。

また、先と重複しますが、「あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない。だが、あなたの救済者はどちらの傍らにも立っている」(13:6-7)というのは、「だが」と訳されているのは「and yet」であり、これは、「それでもなお」「それにもかかわらず」というような意味があります。

ですからここでは、「あなたの救済者」とは、どうやら兄弟のことではないか、という可能性が思われてきます。

つまり、「自分で自分を赦すことはできないが、「相手こそが自分の救済者である」という事実は、実は双方に当てはまる」ということです。

また、ここで「傍らに立つ」と訳されているのは、「stand beside」という英語ですが、調べてみると、この表現には「味方である」という意味もあるようです。

ですからこれは、「あなた方はお互いにお互いの味方なんだよ」ということも暗に意味していることになります。

さて、ここで注意する必要があるのは、相手を「異邦人」として知覚したままの段階では、その知覚は自分の選択によるものであるということが、まだ見えていないので、このように、選び直すことはそもそも不可能である、ということです。

ですからここでは、自分の知覚自体に対して、心の中で「距離を置く」、という表現も、不可能ではありません。

いずれにしても、自分が知覚しているものは、自分が為した選択の結果であり、まずは、それらに対して距離を置く、つまり、「離れて見る」という心の姿勢が必要であり、これはまた、「戦場を超えたところ」(T-23.IV)ということとも関連しています。

このように見ていくと、ここでの選択とは、つまり、よくあるたとえで言う「映写機のフィルムを交換する」ことに相当しているのかもしれません。

では、先に進みます。

第14段落において、兄弟は、キリストとして描かれています。

「傍らに立つ」というのは、横とか隣というだけではなく、漠然と「そばにいる」という意味でもあるので、「傍ら」というにとどまらないことを思うと、相手のことを指していると受け取っても差し支えはないと思われます。

また、先に述べたように、「stand beside」には「味方である」という含みもあるので、ここの冒頭の、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリスト」(14:1)というのは、また、「あなたの味方であるあなたの友、キリスト」というニュアンスも持っています。

ですから、これはことわざで言う、「渡る世間に鬼はない」ということでもあるわけです。

ですが、ここで相手を「異邦人」、言い換えると「鬼」だとしたままでは、キリストに対して心を開くことができません。

無理にそんなことをしようとしたら、例えば、「鬼こそが自分の救い主である」というような、ややこしいことになりますから。

しかし、相手は鬼だというのは、幻想であるはずなのに現実だとしか見えず、それはもう、確信的なものがあるので、そうした場合には、まずは物理的に距離を置くことが先決です。

例えば、親との確執がこじれすぎてどうしようもなくなっている場合には、まずは距離を置くことが先決です。

その確信、つまり、どう見ても幻想が現実だとしか思えない、という状況の中で、こうしたことを行うのは、あまりにもハードルが高すぎます。

こうした、実際的な対処は、ときに極めて有用です。

さて、もしかすると、相手は自分の友、キリストだったのかもしれない、ということに対して少しずつ心が開かれてくると、知覚も次第に変容してきて、「この「敵」、この「異邦人」は、キリストの友であるあなたに今でも救済を差し出している」(14:5)ということが、次第に見えてきます。

ここは、翻訳だと少しわかりにくいですが、原文ですと、「キリスト」とは、この「敵」、この「異邦人」のことを指していることが分かります。

そして、「キリストの「敵」、罪の崇拝者たちは、自分が誰を攻撃しているのかを知らない」(14:6)というのは、三人称的な表現によってそれとなく伝えているわけです。

つまり、「あなたがしていることは、客観的に言うとこういうことだからね。「人の振り見て我が振り直せ」と言うよね」というようなことです。

もちろんこれは、私の「独自解釈」ですよ(笑)。

実際のところは分かりません。

さて、そうすると第15章では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)ということになります。

次に書かれている、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか。彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:2-3)とありますが、ここも、さりげなく重要です。

余談ですが、こうした私の理解は、実は、構造的な認識によっているのですが、「用語の解説」では、「「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である」(C-in.1:4)と書かれているんですよね。

なのでやっぱり、私のこうした理解は、「独自解釈」の域を出ていないのだと思います。

さて、そうした構造的な理解によると、ここに書かれていることは、まず、自分に赦しを差し出すことができるのは、ただ相手だけである、ということが書かれています。

そして、では、「あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」というのは、つまり、前半を受けていて、この2つで次のようになっています。

「相手が自分を赦すことができるために、自分は相手を赦す」

だからこそ、相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである、ということになります。

そして、自分が相手を赦すということを相手の側から見ると、相手にとっては、まずは自分が相手から赦されたという体験になっています。

そうすると、ここにおいてはもはや、特別な関係を維持する必要自体がなくなっているので、赦しを差し出すことが可能になる、というわけです。

そうすると、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:3)というのは、構造的には、先の、「相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである」ということを、他者側から見た様子であることが分かります。

つまり、ここで自分が率先して相手を赦すというのは、相手に、自分を赦す機会を差し出しているわけです。

で、さらに、これが実は日本語ならではの特徴なんですが、ここで、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」というときに、実は、この「自分」というのは、すでに、分離した兄弟の双方に当てはまっているわけです。

つまり、ここではすでにもう、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」ときに、相手が赦す「自分」というのは、こちら側のことであると同時に、相手自身のことでもある、という段階に、自動的に到達することになります。

これは、通常のコミュニケーションだと、誰のことを指しているのかが分からなくなってしばしば混乱する原因になりますが、キリスト意識にとっては、自他の分離を超えたところの主体性を簡潔明瞭端的に表現できる、実に便利な表現なんですね。

そして、面白いことに、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」というのは、実は、今から自分が行おうとしていること、つまり、自ら率先して相手に赦しを差し出すということ、を相手の側から見たとしても、全く同様の表現になる、ということです。

このように、このセクションでの記述は、構造的には、自分と相手の立場を入れ替えても、同様に成立することであることが分かります。

ただし、相手が自分を赦してくれるのを待っていると、何も始まらないわけです。

というのは、そのときに、相手もまた全く同様に、相手が自分を赦してくれるのを待っているからです。

つまりここでは、完全に自他対称的な状況があるわけで、このままだと、全く動きがないのですが、どちらかが率先して選択するときに、こうした一連の流れが始まるわけです。

ですからこれは、物理学で言う「自発的対称性の破れ」に相当しています。

または、「負けるが勝ち」とも言います。

この膠着状態を維持し続けることに対して「折れる」、つまり、「負けを認める」ことで、相手に赦しを差し出すことが始まり、そしてそのことによって自分に赦しが返ってくる、という流れが始まる、つまり、負けることによって勝つ、というわけです。

ですから、「あなたが兄弟に天国の恩寵を差し出せば、あなたは必ずそれを至聖なる友から受け取ることになる」(15:5)というのは、つまり、相手に赦しを差し出すというのは、天国の恩寵を相手に差し出すことだからでもあるからですが、そうすることによって、相手の姿を通して、至聖なる友、つまりキリストが、自分にも天国の恩寵を差し出してくれる、というわけです。

ですからここではもう、キリストがキリストを赦し、互いに天国の恩寵を差し出し合うという、「良循環」が生じることを意味しています。

その良循環について、「兄弟に、それ(天国の恩寵)を与えずにおかせてはならない。なぜなら、あなたはそれを受け取ることにより、それを彼に差し出すからである。そして彼は、あなたが彼から受け取ったものを、あなたから受け取るだろう。救いは、あなたがそれを兄弟に与えることにより受け取るようにと、あなたに与えられている」(15:6-8)というくだりで描写されています。

かくして、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る」(16:1)というところにたどり着くことができる、というわけです。

これ以降の記述は、もう、実質的には、ベールが取り去られた後のことですから、ここでは触れません。

このように、テキストのこのくだりには、実は、知覚の変容に関する漸進的な流れがあったということが、おわかりいただけるかと思います。

そして、テキストには、実は、こうした流れが至る所に見受けられます。

例えば、T-26.IX.1-3 を例に挙げてみます。

ごく簡単にしか触れませんが、第1段落では、自分の神聖さ、および、兄弟の神聖さについて、よく考えてみるようにと書かれていたり、ちょっと諭されている感じもあります。

そして第2段落において、兄弟を信頼することについての言及があります。

そうすると第3段落において、ある種の「奇跡」が起きた様子が描かれています。

ここにも、ちゃんとした流れがあるわけです。

例えばこのように、「現状 – 選び直す-変容する」というような流れで書かれているわけです。

ですから、こうした観点を持って奇跡講座を読んでみると、また新しい発見があるかもしれません。

ただし、念のために申し上げますと、ここで例に出した「ベールを取り去る」ことは、まずは実相世界に到達しないと、実質的には無理です。

というのは、知覚が根本的に逆転したままでは、これは、ものすごい困難や苦痛や、などを伴う、極めて困難で達成不可能なことを求められているように感じられるからです。

今まで、奇跡講座の実践がはなはだしく困難だった背景には、おそらくは、こうしたことがあるのではないかと思われます。

ですから、テキストは、第15章以降は、実践は具体的にこのような順序で展開していく、という流れがあるようです。

なので例えば、第30章に書かれている「決断のためのルール」を、それまでの実践の積み重ねなしに実行しようとしても、今ひとつうまくいきません。

というのは、第30章までに書かれていることが、実践的・体験的に理解されていないと、赦しとか平安とか愛とかに関して、実のところ何も分かっていない状態のままで第30章の実践に取り組むことになりますが、それは、ほとんど何も準備せずにいきなり高い山の登山をしようとしているというぐらい、無謀なことだからです。

つまり、第30章のタイトルが「新たなる始まり」となっているのは、ここまでに書かれていることが一通り実践できているからこそ、これは「新たなる始まり」だというわけです。
ですから、テキストの前半と後半で、いろいろな記述や描写が微妙に異なる理由として考えられるのは、テキストの前半は、主として純粋に理論的な話であるのに対して、後半は、実際に実践することに関しての話である、ということが関連しているのかもしれません。

さて、例えばこのように、奇跡講座に関して概観する趣旨の本を書こうと思っていて、この記事は将来的には、その本の一部となると思われます。

認識の枠組みと実相世界への橋

「1+1 = 2」について説明します。

まず、ここには1枚のコインがあります。

そして、ここにはもう1枚のコインがあります。

そして、これらのコインを並べてみると、これが、「1+1」の状態です。

ここまではいいと思います。

問題はここからです。

そして、これは「2」の状態です。

何かがおかしいと感じましたか?

おそらく、「「1+1」の画像と「2」の画像と、どこが違うのか?」と思われたと思います。

はい、実は、同じ画像です。

にもかかわらず、初めのものは「1+1」の画像であり、次のものは「2」の画像です。

ということは。

「1+1 = 2」というのは、実は、対象物が変わったのではなく、自分の側の認識の変化のことではないか、ということです。

つまり、対象物をどう捉えるかの、枠組みの変化のことではないか、というわけです。

ここから、例えば小学生が初めに足し算を習うときに、例えば、「みかんが3個、りんごが2個で、合わせて何個ですか」という問題が困難に感じる理由も、一つ推測できます。

それは、認識の枠組みの変化を、対象物の変化として捉えようとしているために、混乱が生じているのかも知れない、という可能性です。

では、このことを特に疑問にも思わなくなっている状態とは、もしかするとですが、認識の枠組みの方を見てはいても、対象物そのものはあまり目に入っていないのかも知れませんね。

こうしたことが生じる理由は、おそらくですが、脳内の演算量の節約です。

例えば、もし現実をありのままに捉えていたら、演算量が膨大になりすぎます。

しかし、例えば上の画像を、「コインが2枚ある」と、ざっくりとした枠組みで捉えると、ありのままの現実は、その枠組みに対して、いわば「背景」に退くために、かなりの情報処理量を節約できます。

言い換えると、画像に対して「キャプション」をつけるわけです。

そうすると、その「キャプション」に基づいて、画像に描かれている様子を推測するという方針が立つために、ありのままの画像を捉えるよりも脳の負担が軽くなります。

これはあくまでも一つの推測ですが。

そのために、人間の意識は、どうやら、ありのままの現実に対して、言わば「ワンクッション置く」ようにして、仮想現実を目の前に用意しているのではないか。

つまり、あくまでも、知覚された情報をソースにしてはいますが、そこに対して、ある一定の知覚(認識)の枠組みに基づいて それらの一次情報を取捨選択することによって構成された、一種の仮想現実(二次情報)を目の前に用意していて、その仮想現実が「現実」だとして生きているのではないか。

言い換えると、その仮想現実は、ありのままの現実に対して、自分なりの解釈を加える、つまり、情報に対する取捨選択がなされていることにより、いわば「情報量が間引かれて」いるわけです。

そして、そのことによって、何か脳にかかる負担が軽減されています。

そうすると、どうなるか。

これは、私が今夜の食事のために買ってきたコンビニ弁当です。

(自炊は今はちょっとお休みしています)

私がこれから食べるのは、果たして、この弁当なのか、それとも、仮想現実の中の弁当のイメージなのでしょうか。

この辺りで、「あるがまま」ということの意味が、何か少し見えてきた気がします。

さて、たまたま私は自分のことを例に挙げましたが、もしかすると、ここで、私が夕食にコンビニ弁当を食べたという話で、頭がロックオンされてしまった方もいるかも知れません(笑)。

人はそんなもんなんです。

つまり、事柄とかは「割とどうでもよく」て、人がどうしているか、どういう人なのか、といった、「ゴシップ」にしか初めから関心がないんですね。

私はここで、実はかなりの「恨み」(笑)を発散させていますが、それは、私が何をどれだけ話しても、人は、話されている内容はほとんど受け取らなかった、という「恨み」です。

話の内容ではなくて、例えば、「つまり、あなたは自分がどれだけすごいかをわかってほしいんですね」とか、なんだか、存在しない主体を一生懸命に見いだそうとして、本当にもう、「涙ぐましい努力」をしているようにすら感じることもあります。

その様子は、もう、「けなげですね」としか言いようがないこともあります。

あまりにも話があれかもしれませんので、ちょっと話の切り口を変えてみます。

さて、この動画をご覧ください。

例えば、この女性の方は、動画の0分51秒の辺りで、「私は目覚めたいのです」と話しています。

それに対してムージは、「なぜあなたは目覚めていないと考えるのですか?」と話します。

それに対して、女性は少し考えます。

これが、目の前で起きていることを「仮想化」しているときの「タイムラグ」です。

そして、この女性は、「私が目覚めているとは思えません」という「仮想の結論」を出します。

だんだんおわかりになったと思います。

ムージとしては、「あなたは初めから目覚めているのだから、ただそのことに気がつけばいいだけなのに」と思っているわけです。

ですが、この女性の方は、「私はまだ目覚めていない」という「仮想現実」を維持することに必死になっています。

ですが、この女性にとっては、実際に、自分はまだ目覚めていないとしか感じられていないわけです。

そのために、「あなたはすでに目覚めているんですが」という指摘を受けても、そのことを全力で否認することしかできません。

なぜなら、「自分は目覚めている」という事実は、認めるには「あまりにも恐ろしい」からです。

ですから、ここで強制的に、「目覚めた人」になろうとすると、「目覚めていない」と必死になっている自分を、実は「隠蔽」してしまうんですね。

おそらく、今までの霊的な教えで全くといっていいほど触れられてこなかったのは、ここではないかという気がします。

というのは、上で描写したように、「私はまだ目覚めていない」という、その女性にとっての「現実」は仮想的であるために、ムージの側からはまるで見えません。

ですから、ムージとしてはただ、「目覚めていることに気がつけばいいだけなのに」としか思えません。

ですので、例えば動画の1分33秒辺りからは、「”I am”とは、私は存在するという感覚です」というムージの発言に対して、その女性の側からは、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、「I am」が必死で受け応えているという、実におかしなことが起きてしまっているわけです。

つまりは、ムージのこの発言は、この女性にとっては、ただ「圧」をかけられているとしか感じられません。

なぜならば、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実の中にいる場合には、こうした「霊的な正論」は、ただのプレッシャー以上のものではないからです。

ですから、その女性は、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、一見すると、否定的な自己主張か、あるいはムージの言う「真理」に対する拒絶をしているようにも見えますが、実はこの女性は、おそらく、ムージの発言から感じた「圧」に対して受け答えをしているのではないかと感じられます。

そうすると、1分44秒でムージが、「”I am”が”I am”を見つけたいと思っているのです」という発言の真意も、なんとなく見えてくると思います。

ですから、こうした「仮想現実」は、ただもう自分をとことん傷つけるものでしかなくなっているんですが、それでも人は、ただそれだけしか自分を守ってくれるものはないからと、必死になってその「仮想現実」にしがみつくしか「選択の余地がない」と感じてしまっているわけです。

ですが、くどいほど申し上げますが、こうしたことは、私はいわば「第三者」の視点から捉えているので、このように、ある意味で「情け容赦ない」描写になってしまっていますが、この女性にとっては、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実が「現実」だとしか見えませんから、何もかものニュアンスか真逆になって捉えられているわけです。

まあ、ですが例えばこの女性が、何かムージの話を、子どもが必死に何かを訴えているのを受け止めているかのように、「共感する」気持ちで聞いていたとしたら、例えば、「あなたはとても素晴らしいことをおっしゃいますね」というようにして、一言でまとめることによって、その「脅威」を低減しようとします。

言い換えると、人は普通に、「この人はこういう人だ」「この話はこういうことだ」という「枠組み」に基づいて、一連の情報を整理します。

ですから、その枠組みに入らない情報を知覚すると、混乱します。

ですが、その反面、いったん形成された「枠組み」は、とても強固です。

「あの人は何か怪しい」という「仮想の結論」が出たら、もう「一巻の終わり」(笑)ですね。

すべての言動が、「怪しさ」に関連付けて捉えられるようになりますから。

そうすると、その人は実際にも「怪しい人」であるとしか見えなくなっていきますね。

例えば、自分自身のことも含めて、人に対するイメージは、得てしてこのようにして形成されていきます。

まあ、奇跡講座の学習者であれば、こうした仕組みが何を意味しているのかが、薄々感じられてきたと思います。

だからこそ、こうした枠組みはもう不要だから、少しずつでも取り去っていこう、というのが奇跡講座なわけです。

で、どこかに私は、「一次情報」と「二次情報」という言葉を用いましたが、一般的に言う「あるがまま」の状態とは、実はまだ、「一次情報」に対して、すべてを真逆に捉えるようなフィルターをかけていない二次情報、が見えるようになった段階です。

つまりはおそらく、奇跡講座で言う「実相世界」とは、このことなのかもしれません。

問題は、この一次情報自体もまた、「それ」そのものではない、ということです。

ですが、例えばよく言う「世界は幻想」というのは、この一次情報自体もまた幻想である、というところに言及している印象があります。

そうではなく、二次情報のニュアンスが逆転していることが、「世界は幻想」ということの、とりあえずの意味です。

ですから、この「逆転現象」が根本的に回復するときに、自分から見ていると、あたかも何もかもが狂ったかのように見えますが、それこそが、知覚の転倒が根底から訂正されていく、まさにその渦中であるために、一時的に何もかもがわからなくなるわけであり、このことをテキストでは、「実際に方向性を失ったような感覚」(T-16.VI.7:4)と書かれていますが、これは、元の言葉は精神医学の用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」と訳される言葉であり、私の体験からは、この方がより的確に表現されています。

例えば、自分が誰なのか、今が「いつ」なのか、「ここ」はどこなのか、とか、そういった、基本的な現実感覚ですらも、一時的には不安定になります。

場合によっては、世界が今にも滅亡していくのではないかとか、他の人が自分を陥れようとしているとか、世界が自分を抹殺しようとしているとか、とにかく、自我が必死になって隠蔽しようとしてきた、ありとあらゆる「心の闇」が洗いざらい出てきます。

ですが、そうしたことは一切合切、ただ通り過ぎていくことです。

しかし、例えばこの前に、他の人とものすごい敵対関係にあったりとか、そうした問題を抱えていると、ここで体験される感覚が現実のものだとしか思えなくなります。

例えば、極端に言うと、「あの人が自分を失脚させようとしている」とかの「証拠」を、世界の至る所に感じたりもします。

あるいは、他の人の心の中に、「悪意」や「敵意」などをリアルに感じたりもします。

にもかかわらず、他の人から見ると、そんなことは何一つ起きていません。

ですから、「あの人は何かおかしなことを言っている」としか見えません。

テキストでは割とさらりと書かれていますが、実際にはこうしたとんでもない内的混乱を通過します。

もちろんこれは個人差がありますから、必要以上におびえる必要はありません。

ただ、全く何もないということは、おそらくありません。

なぜならば、それまで転倒していた知覚が根底からひっくり返るということは、自分にとっては、現実そのものが根底から揺らぐ体験として感じられるからです。

この、「ぐれんとひっくり返る」時期自体は、実はそれほど長くはなく、「急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定化された状態から解き放つことのみである」(T-16.VI.8:3)という局面において、上に述べたようなことが起こります。

ここでようやく、「自我があなたに差し出した救済の真似事」(T-16.VI.10:1)から、脱出できるわけです。

そして、橋を渡る前には、「それ(天国)はあなたの外にあって、橋の向こう側にあるように見える」(T-16.VI.11:2)わけですが、「天国につながる」(T-16.VI.11:3)ために橋を渡ると、「天国があなたにつながって、あなたとひとつになる」(T-16.VI.11:3)わけです。

これは、どこか遠いところで起きるのではありませんから、あたかもこれが、どこか遠いところで起きるものであり、自分にはとても手の届かないものであるかのような捉え方とは、つまりは、まだ橋を渡っていないのに、橋を渡ることについて述べているということです。

そして、橋を渡るために必要なことが、まずは、「聖霊の視座を共有しようというあなたの意欲」(T-16.VI.12:2)と、もう一つは、「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識すること」(T-16.VI.12:5)であり、そのことによって、「聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる」(ibid.)というわけです。

そして、「無は無でしかないのだから無を手放そうという単純な意欲」(T-16.VI.10:7)というのが、つまりは、自我をつなぎ止めている自分の中の「引っかかり」を手放すことになり、ここで自我から自由になることができます。

で、ちょっと「ちくっ」(笑)とすることを書き添えますと、「神は橋の向こう側にいて、こちら側にはまったく何も無い」(T-16.V.17:2)のですから、「神はこの世界には介入しない」というのは、つまりは、単に自我の枠組みの中には神は入ってこないということであり、実相世界自体のことではない、ということです。

もちろん、自我の機能は神を締め出すことですから、これは当然ですが、それは、上で言う仮想現実の中、つまり、先ほど引用した表現で言う「橋のこちら側」には神は不在だ、ということです。

しかし、橋を渡る前は、その仮想現実こそが現実だと見えています。

さて、こうして、ただひたすら「通り過ぎていく」ことにより、やがて「赦された世界」(T-17.II.h)が見えてきます。

ここに至って、実相世界は確固たる現実として感じられるようになります。

橋を渡り終えると、この世界は実際にこのように感じられてきます。

「この麗しさは空想ではない。これは実相世界であり、広々とした青空の下ですべてが光り輝く、明るくすがすがしい新しい世界である」(T-17.II.2:1-2)

これは、実際にそう感じられますから、某ワプニック博士の大好きな「暗喩」ではありません(笑)。

(博士、茶化してすみませんm(_ _)m)

さて、まあ確かに、橋を渡り終えた直後は、まだ、こうした表現は「文学的な比喩」程度ですが、いずれはやがて、これは肉眼でもリアルに感じられるようになる、つまりは、実際にすべてが光り輝いているのが見える、というような段階があるのだろうと、私は予想しています。

ただしもちろんですが、こうしたことは、「世界は幻想」とまではとてもまだ遠いように感じられるかも知れません。

ですから私は、こうした自分の体験からの理解が絶対的なものだとは思いません。

単に私には、このような「回りくどい」道しかたどることができなかった、というだけのことかも知れませんから。

ただ、まあ一応ですが、T-16.VII のタイトルは、「幻想の終わり」となっています。

で、T-17.II.2:4 には、この橋は実は、とても小さくて楽々と渡れると書かれていますし、実際に、この橋にたどり着くまでの労苦を思うと、ごくわずかな努力しか要しません。

しかし、「この小さな橋は、この世界に少しでも触れているものの中で最強のもの」(T-17.II.2:5)であり、まさにここに至って、この世界はそれまでは、大変「いい」ところに思えていたとしても、ここですべてが「暗転」して、いきなり、橋のたもとには、ありとあらゆる「脅し文句」が書かれているのが目に入り始めます。

というのは、この橋を渡って無事に帰ってきた人は誰もいないのと、途中で引き返してきた人は、みな一様に、気が狂ってしまっていたので、この橋は何かとても恐ろしいものに違いないという「伝説」ができあがってしまっているからです。

実は、橋を渡り終えた人は意外にいる、ということが、橋を渡り終えるとわかってきますが、そうした人は、市井の中で普通に暮らしていて、たぶん、本人は自分が橋を渡り終えたことすらも無自覚の場合がほとんどでしょう。

そして、「最も小さな木の葉でさえも感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる」(T-17.II.6:3)というのは、橋を渡る前だと、この幻想世界の中にも、神の創造の片鱗は見られる、というように捉えられますが、橋を渡ると、これこそがまさに神の創造であると感じられるようになります。

で、ここまで来て、はじめて、奇跡講座に書かれていることが本当の意味でわかり始めます。

おそらくは、この文章は、学習者によっては、ものすごく反感を感じたり、あるいは際限のない疑いの気持ちや、場合によっては激しい憎悪や激怒をもたらすかも知れません。

抑圧されている感情のすさまじさは、私も身をもって嫌と言うほど体験してきました。

ですが、橋を渡ることに関するガイダンスが、あまりにも少ないという現状から、私は書きました。

でないと、すでに橋を渡るところまで来ているにもかかわらず、その手前で立ち往生している方があまりにも多いと感じられるからです。

それはとてももったいないことです。

さらに言うと、世界はそろそろ、総体としても、この、実相世界への橋を渡る段階に来ています。

ここを渡り終えると、この世界はそのまま、天国を反映したものになります。

正確に言うと、そうしたものとして知覚されるようになります。

そして、これは例えば、禅で言うならば「魔境」であり、また、巫病やシャーマンの病と呼ばれるものもこれに酷似していることから、おそらくは、この橋に関する知識は、全世界に見られるのではないかという気がします。

ただし、今までは、この橋を渡った人はごく限られていましたが、これからの時代は、おそらくは、橋を渡る人と渡らない人とに、どうしても大きく二分されてしまうのではないかと思われます。

これは別に私が特定の人にダメ出しをするとかではなく、橋を渡るかどうかは、ひとえに一人一人の自発的な意欲と選択にのみかかっているからです。

でも、こうした私の発言もまた、先ほどの「仮想現実」の中では、例えば、「この人は、自分こそがすべてを裁くと言っているぞ」とか「私は絶対に正しいから、私の言うことを聞きなさいとは、なんて偉そうな」といったように感じるわけです。

ま、そういうわけですんで、異論・反論はもちろんありますから。

私は別に、自分こそが絶対に正しいとは思っていませんが、読む人によってはそう感じるでしょうし。

なので、そうした場合にはもう、ただ「無」を手放してくださいとしか言いようがありません。

本当に、それぐらい人は、文字通り「幻想の世界」の中を生きています。

そこからの脱出がいかに容易ではないか、しかしその一方で、脱出してみると、どうしてこんなにたやすいことが今までできなかったのだろうと感じるのもまた、事実です。

なんか、初めは、「1+1=2」に関する気づきをシェアするだけのつもりでしたが、途中から、何かとんでもない方向に話が展開してしまいましたが(^_^;)

で、ここに書いた、「一次情報」と「二次情報」とかの区別は、まだ思いつきの段階ですので、これから、いろいろと細部に関しては変化があるかも知れないので、あまり厳密に受け取らないでいただけるとありがたいです。