「ベールを取り去る」ことに関して

実際に奇跡講座に書かれていることについて、例えば、テキストの以下の部分を採り上げて、詳細に見てみたいと思います。

T-19.IV.D 「i. ベールを取り去る」というところをご覧ください。

ここでは、誰か兄弟に関して、その兄弟に対する知覚が具体的にどのように変容するか、について、ある整然とした流れ、あるいはプロセスとして、きわめて詳細に書かれています。

それを順番に見ていきましょう。

まず、第8段落から第11段落までは、一種の「心の準備」、あるいは「心構え」のようなことについて書かれています。

そして、第12段落では、兄弟は、「依然として異邦人のように見えている」(T-19.IV.D.12:1)存在として描かれています。

出発点においては、自分は相手に恐怖や罪悪感などに根ざす知覚を投影して、相手を攻撃していますが、「しかし、彼の手の中にあなたの救済がある」(12:4)として、ここから、相手の中にキリストを見るというプロセスが始まります。

そのために、「彼についてのあなたの解釈」(12:2)を心の中で手放すこと、つまり「赦す」(12:7)ことが必要となります。

これはまた、相手に対する先入観を「脇に置く」ことである、とも言うことができます。

要するに、相手の姿に自分が投影している先入観、ないしは解釈、を、自分の視界からどける、ということです。

これが、「自分の目から梁を取り除く」(マタイによる福音書、7.3-5。新共同訳では「梁」は「丸太」となっている)として、福音書でイエスが言っていることに相当します。

さて、第13段落において、兄弟は、「あなたに贖罪の聖杯を差し出している者」(13:1)として描かれています。

この段階において、相手は、「異邦人」から、「贖罪の聖杯を差し出している者」へと、知覚が少し変容しています。

ここでは、相手は、今まで自分が思い込んでいたような存在ではなかったのかもしれない、という可能性に対して、少し心が開かれた様子について描写されています。

だからこそ、攻撃の手は止んでいます。

そして、「あなたは彼の罪を理由に彼を咎めたいだろうか。それとも、彼からあなたへの贈り物を受け入れたいだろうか。救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか」(13:2-3)として、ここに、知覚における二者択一性が提示されています。

そして、その上で、「自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになることを思い出して、彼がそのどちらであるかを選択しなさい」(13:4)とイエスは言っています。

つまり、選択するのはあくまでも自分である、ということです。

ここでは、聖霊か自我かという選択が、具体的にどのようになされるのかについての描写の一つになっています。

そして、「あなたに彼の罪を赦す力があるのと同様に、彼の中にもあなたの罪を赦す力がある。あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない」(13:5-6)という箇所では、赦しとは、実は対関係において成されるものである、ということが示唆されています。

例えばこれ、つまり、赦しは実は対関係において成されるものだということが、今までの奇跡講座の理解および実践に欠落していた観点の一つではないかと思われます。

また、先と重複しますが、「あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない。だが、あなたの救済者はどちらの傍らにも立っている」(13:6-7)というのは、「だが」と訳されているのは「and yet」であり、これは、「それでもなお」「それにもかかわらず」というような意味があります。

ですからここでは、「あなたの救済者」とは、どうやら兄弟のことではないか、という可能性が思われてきます。

つまり、「自分で自分を赦すことはできないが、「相手こそが自分の救済者である」という事実は、実は双方に当てはまる」ということです。

また、ここで「傍らに立つ」と訳されているのは、「stand beside」という英語ですが、調べてみると、この表現には「味方である」という意味もあるようです。

ですからこれは、「あなた方はお互いにお互いの味方なんだよ」ということも暗に意味していることになります。

さて、ここで注意する必要があるのは、相手を「異邦人」として知覚したままの段階では、その知覚は自分の選択によるものであるということが、まだ見えていないので、このように、選び直すことはそもそも不可能である、ということです。

ですからここでは、自分の知覚自体に対して、心の中で「距離を置く」、という表現も、不可能ではありません。

いずれにしても、自分が知覚しているものは、自分が為した選択の結果であり、まずは、それらに対して距離を置く、つまり、「離れて見る」という心の姿勢が必要であり、これはまた、「戦場を超えたところ」(T-23.IV)ということとも関連しています。

このように見ていくと、ここでの選択とは、つまり、よくあるたとえで言う「映写機のフィルムを交換する」ことに相当しているのかもしれません。

では、先に進みます。

第14段落において、兄弟は、キリストとして描かれています。

「傍らに立つ」というのは、横とか隣というだけではなく、漠然と「そばにいる」という意味でもあるので、「傍ら」というにとどまらないことを思うと、相手のことを指していると受け取っても差し支えはないと思われます。

また、先に述べたように、「stand beside」には「味方である」という含みもあるので、ここの冒頭の、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリスト」(14:1)というのは、また、「あなたの味方であるあなたの友、キリスト」というニュアンスも持っています。

ですから、これはことわざで言う、「渡る世間に鬼はない」ということでもあるわけです。

ですが、ここで相手を「異邦人」、言い換えると「鬼」だとしたままでは、キリストに対して心を開くことができません。

無理にそんなことをしようとしたら、例えば、「鬼こそが自分の救い主である」というような、ややこしいことになりますから。

しかし、相手は鬼だというのは、幻想であるはずなのに現実だとしか見えず、それはもう、確信的なものがあるので、そうした場合には、まずは物理的に距離を置くことが先決です。

例えば、親との確執がこじれすぎてどうしようもなくなっている場合には、まずは距離を置くことが先決です。

その確信、つまり、どう見ても幻想が現実だとしか思えない、という状況の中で、こうしたことを行うのは、あまりにもハードルが高すぎます。

こうした、実際的な対処は、ときに極めて有用です。

さて、もしかすると、相手は自分の友、キリストだったのかもしれない、ということに対して少しずつ心が開かれてくると、知覚も次第に変容してきて、「この「敵」、この「異邦人」は、キリストの友であるあなたに今でも救済を差し出している」(14:5)ということが、次第に見えてきます。

ここは、翻訳だと少しわかりにくいですが、原文ですと、「キリスト」とは、この「敵」、この「異邦人」のことを指していることが分かります。

そして、「キリストの「敵」、罪の崇拝者たちは、自分が誰を攻撃しているのかを知らない」(14:6)というのは、三人称的な表現によってそれとなく伝えているわけです。

つまり、「あなたがしていることは、客観的に言うとこういうことだからね。「人の振り見て我が振り直せ」と言うよね」というようなことです。

もちろんこれは、私の「独自解釈」ですよ(笑)。

実際のところは分かりません。

さて、そうすると第15章では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)ということになります。

次に書かれている、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか。彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:2-3)とありますが、ここも、さりげなく重要です。

余談ですが、こうした私の理解は、実は、構造的な認識によっているのですが、「用語の解説」では、「「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である」(C-in.1:4)と書かれているんですよね。

なのでやっぱり、私のこうした理解は、「独自解釈」の域を出ていないのだと思います。

さて、そうした構造的な理解によると、ここに書かれていることは、まず、自分に赦しを差し出すことができるのは、ただ相手だけである、ということが書かれています。

そして、では、「あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」というのは、つまり、前半を受けていて、この2つで次のようになっています。

「相手が自分を赦すことができるために、自分は相手を赦す」

だからこそ、相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである、ということになります。

そして、自分が相手を赦すということを相手の側から見ると、相手にとっては、まずは自分が相手から赦されたという体験になっています。

そうすると、ここにおいてはもはや、特別な関係を維持する必要自体がなくなっているので、赦しを差し出すことが可能になる、というわけです。

そうすると、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:3)というのは、構造的には、先の、「相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである」ということを、他者側から見た様子であることが分かります。

つまり、ここで自分が率先して相手を赦すというのは、相手に、自分を赦す機会を差し出しているわけです。

で、さらに、これが実は日本語ならではの特徴なんですが、ここで、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」というときに、実は、この「自分」というのは、すでに、分離した兄弟の双方に当てはまっているわけです。

つまり、ここではすでにもう、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」ときに、相手が赦す「自分」というのは、こちら側のことであると同時に、相手自身のことでもある、という段階に、自動的に到達することになります。

これは、通常のコミュニケーションだと、誰のことを指しているのかが分からなくなってしばしば混乱する原因になりますが、キリスト意識にとっては、自他の分離を超えたところの主体性を簡潔明瞭端的に表現できる、実に便利な表現なんですね。

そして、面白いことに、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」というのは、実は、今から自分が行おうとしていること、つまり、自ら率先して相手に赦しを差し出すということ、を相手の側から見たとしても、全く同様の表現になる、ということです。

このように、このセクションでの記述は、構造的には、自分と相手の立場を入れ替えても、同様に成立することであることが分かります。

ただし、相手が自分を赦してくれるのを待っていると、何も始まらないわけです。

というのは、そのときに、相手もまた全く同様に、相手が自分を赦してくれるのを待っているからです。

つまりここでは、完全に自他対称的な状況があるわけで、このままだと、全く動きがないのですが、どちらかが率先して選択するときに、こうした一連の流れが始まるわけです。

ですからこれは、物理学で言う「自発的対称性の破れ」に相当しています。

または、「負けるが勝ち」とも言います。

この膠着状態を維持し続けることに対して「折れる」、つまり、「負けを認める」ことで、相手に赦しを差し出すことが始まり、そしてそのことによって自分に赦しが返ってくる、という流れが始まる、つまり、負けることによって勝つ、というわけです。

ですから、「あなたが兄弟に天国の恩寵を差し出せば、あなたは必ずそれを至聖なる友から受け取ることになる」(15:5)というのは、つまり、相手に赦しを差し出すというのは、天国の恩寵を相手に差し出すことだからでもあるからですが、そうすることによって、相手の姿を通して、至聖なる友、つまりキリストが、自分にも天国の恩寵を差し出してくれる、というわけです。

ですからここではもう、キリストがキリストを赦し、互いに天国の恩寵を差し出し合うという、「良循環」が生じることを意味しています。

その良循環について、「兄弟に、それ(天国の恩寵)を与えずにおかせてはならない。なぜなら、あなたはそれを受け取ることにより、それを彼に差し出すからである。そして彼は、あなたが彼から受け取ったものを、あなたから受け取るだろう。救いは、あなたがそれを兄弟に与えることにより受け取るようにと、あなたに与えられている」(15:6-8)というくだりで描写されています。

かくして、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る」(16:1)というところにたどり着くことができる、というわけです。

これ以降の記述は、もう、実質的には、ベールが取り去られた後のことですから、ここでは触れません。

このように、テキストのこのくだりには、実は、知覚の変容に関する漸進的な流れがあったということが、おわかりいただけるかと思います。

そして、テキストには、実は、こうした流れが至る所に見受けられます。

例えば、T-26.IX.1-3 を例に挙げてみます。

ごく簡単にしか触れませんが、第1段落では、自分の神聖さ、および、兄弟の神聖さについて、よく考えてみるようにと書かれていたり、ちょっと諭されている感じもあります。

そして第2段落において、兄弟を信頼することについての言及があります。

そうすると第3段落において、ある種の「奇跡」が起きた様子が描かれています。

ここにも、ちゃんとした流れがあるわけです。

例えばこのように、「現状 – 選び直す-変容する」というような流れで書かれているわけです。

ですから、こうした観点を持って奇跡講座を読んでみると、また新しい発見があるかもしれません。

ただし、念のために申し上げますと、ここで例に出した「ベールを取り去る」ことは、まずは実相世界に到達しないと、実質的には無理です。

というのは、知覚が根本的に逆転したままでは、これは、ものすごい困難や苦痛や、などを伴う、極めて困難で達成不可能なことを求められているように感じられるからです。

今まで、奇跡講座の実践がはなはだしく困難だった背景には、おそらくは、こうしたことがあるのではないかと思われます。

ですから、テキストは、第15章以降は、実践は具体的にこのような順序で展開していく、という流れがあるようです。

なので例えば、第30章に書かれている「決断のためのルール」を、それまでの実践の積み重ねなしに実行しようとしても、今ひとつうまくいきません。

というのは、第30章までに書かれていることが、実践的・体験的に理解されていないと、赦しとか平安とか愛とかに関して、実のところ何も分かっていない状態のままで第30章の実践に取り組むことになりますが、それは、ほとんど何も準備せずにいきなり高い山の登山をしようとしているというぐらい、無謀なことだからです。

つまり、第30章のタイトルが「新たなる始まり」となっているのは、ここまでに書かれていることが一通り実践できているからこそ、これは「新たなる始まり」だというわけです。
ですから、テキストの前半と後半で、いろいろな記述や描写が微妙に異なる理由として考えられるのは、テキストの前半は、主として純粋に理論的な話であるのに対して、後半は、実際に実践することに関しての話である、ということが関連しているのかもしれません。

さて、例えばこのように、奇跡講座に関して概観する趣旨の本を書こうと思っていて、この記事は将来的には、その本の一部となると思われます。

認識の枠組みと実相世界への橋

「1+1 = 2」について説明します。

まず、ここには1枚のコインがあります。

そして、ここにはもう1枚のコインがあります。

そして、これらのコインを並べてみると、これが、「1+1」の状態です。

ここまではいいと思います。

問題はここからです。

そして、これは「2」の状態です。

何かがおかしいと感じましたか?

おそらく、「「1+1」の画像と「2」の画像と、どこが違うのか?」と思われたと思います。

はい、実は、同じ画像です。

にもかかわらず、初めのものは「1+1」の画像であり、次のものは「2」の画像です。

ということは。

「1+1 = 2」というのは、実は、対象物が変わったのではなく、自分の側の認識の変化のことではないか、ということです。

つまり、対象物をどう捉えるかの、枠組みの変化のことではないか、というわけです。

ここから、例えば小学生が初めに足し算を習うときに、例えば、「みかんが3個、りんごが2個で、合わせて何個ですか」という問題が困難に感じる理由も、一つ推測できます。

それは、認識の枠組みの変化を、対象物の変化として捉えようとしているために、混乱が生じているのかも知れない、という可能性です。

では、このことを特に疑問にも思わなくなっている状態とは、もしかするとですが、認識の枠組みの方を見てはいても、対象物そのものはあまり目に入っていないのかも知れませんね。

こうしたことが生じる理由は、おそらくですが、脳内の演算量の節約です。

例えば、もし現実をありのままに捉えていたら、演算量が膨大になりすぎます。

しかし、例えば上の画像を、「コインが2枚ある」と、ざっくりとした枠組みで捉えると、ありのままの現実は、その枠組みに対して、いわば「背景」に退くために、かなりの情報処理量を節約できます。

言い換えると、画像に対して「キャプション」をつけるわけです。

そうすると、その「キャプション」に基づいて、画像に描かれている様子を推測するという方針が立つために、ありのままの画像を捉えるよりも脳の負担が軽くなります。

これはあくまでも一つの推測ですが。

そのために、人間の意識は、どうやら、ありのままの現実に対して、言わば「ワンクッション置く」ようにして、仮想現実を目の前に用意しているのではないか。

つまり、あくまでも、知覚された情報をソースにしてはいますが、そこに対して、ある一定の知覚(認識)の枠組みに基づいて それらの一次情報を取捨選択することによって構成された、一種の仮想現実(二次情報)を目の前に用意していて、その仮想現実が「現実」だとして生きているのではないか。

言い換えると、その仮想現実は、ありのままの現実に対して、自分なりの解釈を加える、つまり、情報に対する取捨選択がなされていることにより、いわば「情報量が間引かれて」いるわけです。

そして、そのことによって、何か脳にかかる負担が軽減されています。

そうすると、どうなるか。

これは、私が今夜の食事のために買ってきたコンビニ弁当です。

(自炊は今はちょっとお休みしています)

私がこれから食べるのは、果たして、この弁当なのか、それとも、仮想現実の中の弁当のイメージなのでしょうか。

この辺りで、「あるがまま」ということの意味が、何か少し見えてきた気がします。

さて、たまたま私は自分のことを例に挙げましたが、もしかすると、ここで、私が夕食にコンビニ弁当を食べたという話で、頭がロックオンされてしまった方もいるかも知れません(笑)。

人はそんなもんなんです。

つまり、事柄とかは「割とどうでもよく」て、人がどうしているか、どういう人なのか、といった、「ゴシップ」にしか初めから関心がないんですね。

私はここで、実はかなりの「恨み」(笑)を発散させていますが、それは、私が何をどれだけ話しても、人は、話されている内容はほとんど受け取らなかった、という「恨み」です。

話の内容ではなくて、例えば、「つまり、あなたは自分がどれだけすごいかをわかってほしいんですね」とか、なんだか、存在しない主体を一生懸命に見いだそうとして、本当にもう、「涙ぐましい努力」をしているようにすら感じることもあります。

その様子は、もう、「けなげですね」としか言いようがないこともあります。

あまりにも話があれかもしれませんので、ちょっと話の切り口を変えてみます。

さて、この動画をご覧ください。

例えば、この女性の方は、動画の0分51秒の辺りで、「私は目覚めたいのです」と話しています。

それに対してムージは、「なぜあなたは目覚めていないと考えるのですか?」と話します。

それに対して、女性は少し考えます。

これが、目の前で起きていることを「仮想化」しているときの「タイムラグ」です。

そして、この女性は、「私が目覚めているとは思えません」という「仮想の結論」を出します。

だんだんおわかりになったと思います。

ムージとしては、「あなたは初めから目覚めているのだから、ただそのことに気がつけばいいだけなのに」と思っているわけです。

ですが、この女性の方は、「私はまだ目覚めていない」という「仮想現実」を維持することに必死になっています。

ですが、この女性にとっては、実際に、自分はまだ目覚めていないとしか感じられていないわけです。

そのために、「あなたはすでに目覚めているんですが」という指摘を受けても、そのことを全力で否認することしかできません。

なぜなら、「自分は目覚めている」という事実は、認めるには「あまりにも恐ろしい」からです。

ですから、ここで強制的に、「目覚めた人」になろうとすると、「目覚めていない」と必死になっている自分を、実は「隠蔽」してしまうんですね。

おそらく、今までの霊的な教えで全くといっていいほど触れられてこなかったのは、ここではないかという気がします。

というのは、上で描写したように、「私はまだ目覚めていない」という、その女性にとっての「現実」は仮想的であるために、ムージの側からはまるで見えません。

ですから、ムージとしてはただ、「目覚めていることに気がつけばいいだけなのに」としか思えません。

ですので、例えば動画の1分33秒辺りからは、「”I am”とは、私は存在するという感覚です」というムージの発言に対して、その女性の側からは、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、「I am」が必死で受け応えているという、実におかしなことが起きてしまっているわけです。

つまりは、ムージのこの発言は、この女性にとっては、ただ「圧」をかけられているとしか感じられません。

なぜならば、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実の中にいる場合には、こうした「霊的な正論」は、ただのプレッシャー以上のものではないからです。

ですから、その女性は、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、一見すると、否定的な自己主張か、あるいはムージの言う「真理」に対する拒絶をしているようにも見えますが、実はこの女性は、おそらく、ムージの発言から感じた「圧」に対して受け答えをしているのではないかと感じられます。

そうすると、1分44秒でムージが、「”I am”が”I am”を見つけたいと思っているのです」という発言の真意も、なんとなく見えてくると思います。

ですから、こうした「仮想現実」は、ただもう自分をとことん傷つけるものでしかなくなっているんですが、それでも人は、ただそれだけしか自分を守ってくれるものはないからと、必死になってその「仮想現実」にしがみつくしか「選択の余地がない」と感じてしまっているわけです。

ですが、くどいほど申し上げますが、こうしたことは、私はいわば「第三者」の視点から捉えているので、このように、ある意味で「情け容赦ない」描写になってしまっていますが、この女性にとっては、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実が「現実」だとしか見えませんから、何もかものニュアンスか真逆になって捉えられているわけです。

まあ、ですが例えばこの女性が、何かムージの話を、子どもが必死に何かを訴えているのを受け止めているかのように、「共感する」気持ちで聞いていたとしたら、例えば、「あなたはとても素晴らしいことをおっしゃいますね」というようにして、一言でまとめることによって、その「脅威」を低減しようとします。

言い換えると、人は普通に、「この人はこういう人だ」「この話はこういうことだ」という「枠組み」に基づいて、一連の情報を整理します。

ですから、その枠組みに入らない情報を知覚すると、混乱します。

ですが、その反面、いったん形成された「枠組み」は、とても強固です。

「あの人は何か怪しい」という「仮想の結論」が出たら、もう「一巻の終わり」(笑)ですね。

すべての言動が、「怪しさ」に関連付けて捉えられるようになりますから。

そうすると、その人は実際にも「怪しい人」であるとしか見えなくなっていきますね。

例えば、自分自身のことも含めて、人に対するイメージは、得てしてこのようにして形成されていきます。

まあ、奇跡講座の学習者であれば、こうした仕組みが何を意味しているのかが、薄々感じられてきたと思います。

だからこそ、こうした枠組みはもう不要だから、少しずつでも取り去っていこう、というのが奇跡講座なわけです。

で、どこかに私は、「一次情報」と「二次情報」という言葉を用いましたが、一般的に言う「あるがまま」の状態とは、実はまだ、「一次情報」に対して、すべてを真逆に捉えるようなフィルターをかけていない二次情報、が見えるようになった段階です。

つまりはおそらく、奇跡講座で言う「実相世界」とは、このことなのかもしれません。

問題は、この一次情報自体もまた、「それ」そのものではない、ということです。

ですが、例えばよく言う「世界は幻想」というのは、この一次情報自体もまた幻想である、というところに言及している印象があります。

そうではなく、二次情報のニュアンスが逆転していることが、「世界は幻想」ということの、とりあえずの意味です。

ですから、この「逆転現象」が根本的に回復するときに、自分から見ていると、あたかも何もかもが狂ったかのように見えますが、それこそが、知覚の転倒が根底から訂正されていく、まさにその渦中であるために、一時的に何もかもがわからなくなるわけであり、このことをテキストでは、「実際に方向性を失ったような感覚」(T-16.VI.7:4)と書かれていますが、これは、元の言葉は精神医学の用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」と訳される言葉であり、私の体験からは、この方がより的確に表現されています。

例えば、自分が誰なのか、今が「いつ」なのか、「ここ」はどこなのか、とか、そういった、基本的な現実感覚ですらも、一時的には不安定になります。

場合によっては、世界が今にも滅亡していくのではないかとか、他の人が自分を陥れようとしているとか、世界が自分を抹殺しようとしているとか、とにかく、自我が必死になって隠蔽しようとしてきた、ありとあらゆる「心の闇」が洗いざらい出てきます。

ですが、そうしたことは一切合切、ただ通り過ぎていくことです。

しかし、例えばこの前に、他の人とものすごい敵対関係にあったりとか、そうした問題を抱えていると、ここで体験される感覚が現実のものだとしか思えなくなります。

例えば、極端に言うと、「あの人が自分を失脚させようとしている」とかの「証拠」を、世界の至る所に感じたりもします。

あるいは、他の人の心の中に、「悪意」や「敵意」などをリアルに感じたりもします。

にもかかわらず、他の人から見ると、そんなことは何一つ起きていません。

ですから、「あの人は何かおかしなことを言っている」としか見えません。

テキストでは割とさらりと書かれていますが、実際にはこうしたとんでもない内的混乱を通過します。

もちろんこれは個人差がありますから、必要以上におびえる必要はありません。

ただ、全く何もないということは、おそらくありません。

なぜならば、それまで転倒していた知覚が根底からひっくり返るということは、自分にとっては、現実そのものが根底から揺らぐ体験として感じられるからです。

この、「ぐれんとひっくり返る」時期自体は、実はそれほど長くはなく、「急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定化された状態から解き放つことのみである」(T-16.VI.8:3)という局面において、上に述べたようなことが起こります。

ここでようやく、「自我があなたに差し出した救済の真似事」(T-16.VI.10:1)から、脱出できるわけです。

そして、橋を渡る前には、「それ(天国)はあなたの外にあって、橋の向こう側にあるように見える」(T-16.VI.11:2)わけですが、「天国につながる」(T-16.VI.11:3)ために橋を渡ると、「天国があなたにつながって、あなたとひとつになる」(T-16.VI.11:3)わけです。

これは、どこか遠いところで起きるのではありませんから、あたかもこれが、どこか遠いところで起きるものであり、自分にはとても手の届かないものであるかのような捉え方とは、つまりは、まだ橋を渡っていないのに、橋を渡ることについて述べているということです。

そして、橋を渡るために必要なことが、まずは、「聖霊の視座を共有しようというあなたの意欲」(T-16.VI.12:2)と、もう一つは、「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識すること」(T-16.VI.12:5)であり、そのことによって、「聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる」(ibid.)というわけです。

そして、「無は無でしかないのだから無を手放そうという単純な意欲」(T-16.VI.10:7)というのが、つまりは、自我をつなぎ止めている自分の中の「引っかかり」を手放すことになり、ここで自我から自由になることができます。

で、ちょっと「ちくっ」(笑)とすることを書き添えますと、「神は橋の向こう側にいて、こちら側にはまったく何も無い」(T-16.V.17:2)のですから、「神はこの世界には介入しない」というのは、つまりは、単に自我の枠組みの中には神は入ってこないということであり、実相世界自体のことではない、ということです。

もちろん、自我の機能は神を締め出すことですから、これは当然ですが、それは、上で言う仮想現実の中、つまり、先ほど引用した表現で言う「橋のこちら側」には神は不在だ、ということです。

しかし、橋を渡る前は、その仮想現実こそが現実だと見えています。

さて、こうして、ただひたすら「通り過ぎていく」ことにより、やがて「赦された世界」(T-17.II.h)が見えてきます。

ここに至って、実相世界は確固たる現実として感じられるようになります。

橋を渡り終えると、この世界は実際にこのように感じられてきます。

「この麗しさは空想ではない。これは実相世界であり、広々とした青空の下ですべてが光り輝く、明るくすがすがしい新しい世界である」(T-17.II.2:1-2)

これは、実際にそう感じられますから、某ワプニック博士の大好きな「暗喩」ではありません(笑)。

(博士、茶化してすみませんm(_ _)m)

さて、まあ確かに、橋を渡り終えた直後は、まだ、こうした表現は「文学的な比喩」程度ですが、いずれはやがて、これは肉眼でもリアルに感じられるようになる、つまりは、実際にすべてが光り輝いているのが見える、というような段階があるのだろうと、私は予想しています。

ただしもちろんですが、こうしたことは、「世界は幻想」とまではとてもまだ遠いように感じられるかも知れません。

ですから私は、こうした自分の体験からの理解が絶対的なものだとは思いません。

単に私には、このような「回りくどい」道しかたどることができなかった、というだけのことかも知れませんから。

ただ、まあ一応ですが、T-16.VII のタイトルは、「幻想の終わり」となっています。

で、T-17.II.2:4 には、この橋は実は、とても小さくて楽々と渡れると書かれていますし、実際に、この橋にたどり着くまでの労苦を思うと、ごくわずかな努力しか要しません。

しかし、「この小さな橋は、この世界に少しでも触れているものの中で最強のもの」(T-17.II.2:5)であり、まさにここに至って、この世界はそれまでは、大変「いい」ところに思えていたとしても、ここですべてが「暗転」して、いきなり、橋のたもとには、ありとあらゆる「脅し文句」が書かれているのが目に入り始めます。

というのは、この橋を渡って無事に帰ってきた人は誰もいないのと、途中で引き返してきた人は、みな一様に、気が狂ってしまっていたので、この橋は何かとても恐ろしいものに違いないという「伝説」ができあがってしまっているからです。

実は、橋を渡り終えた人は意外にいる、ということが、橋を渡り終えるとわかってきますが、そうした人は、市井の中で普通に暮らしていて、たぶん、本人は自分が橋を渡り終えたことすらも無自覚の場合がほとんどでしょう。

そして、「最も小さな木の葉でさえも感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる」(T-17.II.6:3)というのは、橋を渡る前だと、この幻想世界の中にも、神の創造の片鱗は見られる、というように捉えられますが、橋を渡ると、これこそがまさに神の創造であると感じられるようになります。

で、ここまで来て、はじめて、奇跡講座に書かれていることが本当の意味でわかり始めます。

おそらくは、この文章は、学習者によっては、ものすごく反感を感じたり、あるいは際限のない疑いの気持ちや、場合によっては激しい憎悪や激怒をもたらすかも知れません。

抑圧されている感情のすさまじさは、私も身をもって嫌と言うほど体験してきました。

ですが、橋を渡ることに関するガイダンスが、あまりにも少ないという現状から、私は書きました。

でないと、すでに橋を渡るところまで来ているにもかかわらず、その手前で立ち往生している方があまりにも多いと感じられるからです。

それはとてももったいないことです。

さらに言うと、世界はそろそろ、総体としても、この、実相世界への橋を渡る段階に来ています。

ここを渡り終えると、この世界はそのまま、天国を反映したものになります。

正確に言うと、そうしたものとして知覚されるようになります。

そして、これは例えば、禅で言うならば「魔境」であり、また、巫病やシャーマンの病と呼ばれるものもこれに酷似していることから、おそらくは、この橋に関する知識は、全世界に見られるのではないかという気がします。

ただし、今までは、この橋を渡った人はごく限られていましたが、これからの時代は、おそらくは、橋を渡る人と渡らない人とに、どうしても大きく二分されてしまうのではないかと思われます。

これは別に私が特定の人にダメ出しをするとかではなく、橋を渡るかどうかは、ひとえに一人一人の自発的な意欲と選択にのみかかっているからです。

でも、こうした私の発言もまた、先ほどの「仮想現実」の中では、例えば、「この人は、自分こそがすべてを裁くと言っているぞ」とか「私は絶対に正しいから、私の言うことを聞きなさいとは、なんて偉そうな」といったように感じるわけです。

ま、そういうわけですんで、異論・反論はもちろんありますから。

私は別に、自分こそが絶対に正しいとは思っていませんが、読む人によってはそう感じるでしょうし。

なので、そうした場合にはもう、ただ「無」を手放してくださいとしか言いようがありません。

本当に、それぐらい人は、文字通り「幻想の世界」の中を生きています。

そこからの脱出がいかに容易ではないか、しかしその一方で、脱出してみると、どうしてこんなにたやすいことが今までできなかったのだろうと感じるのもまた、事実です。

なんか、初めは、「1+1=2」に関する気づきをシェアするだけのつもりでしたが、途中から、何かとんでもない方向に話が展開してしまいましたが(^_^;)

で、ここに書いた、「一次情報」と「二次情報」とかの区別は、まだ思いつきの段階ですので、これから、いろいろと細部に関しては変化があるかも知れないので、あまり厳密に受け取らないでいただけるとありがたいです。

奇跡講座の翻訳の一例

「世界の終わりとは、世界が破壊されることではなく、世界が天国へと翻訳されることである。世界を再解釈するとは、すべての知覚が智識へと転移されることである」(T-11.VIII.1:8-9) (ふうが少し補う)

「この世界においてあなたは、創造主の聖性があなたのもとから辺り一面に輝きを放つような、一点の曇りもない鏡となることができる。あなたはここで天国を反映させることができる。だが、他の神々の姿を映し出す映像により、神を反映させるはずの鏡を曇らせてはならない。地は天を映し出すことも地獄を映し出すこともでき、神を映し出すことも、自我を映し出すこともできる」(T-14.IX.5:1-4)

「天国の平安をここに反映させ、世界を天国へと運びなさい」(T-14.X.1:6)

奇跡講座が実際に教えていることは、某博士の解説とは随分と趣が異なるような気がするのは、私だけでしょうか。

さらに「攻撃(笑)」を続けます。

例えば、公認訳のこの箇所を例に挙げます。

「あなたは、奪う世界を信じている。なぜなら、奪うことによって獲得できると信じているからである。そしてその知覚により、実相世界を見失った。あなたは自分が見ている通りのこの世界を恐れている。しかし、実相世界は、今でも求めさえすればあなたのものである」(T-11.VIII.7:2-4)(公認訳)

「あなたは、奪うことで得られると信じているために、世界が奪おうとしてくると信じている。そして、この知覚によって現実の世界を見失ってしまった。あなたは自分が世界を見るままに世界を恐れている。しかし現実の世界は、望みさえすれば今なおあなたのものである」(ふう試訳)

「You believe in a world that takes, because you believe that you can get by taking. And by that perception you have lost sight of the real world. You are afraid of the world as you see it, but the real world is still yours for the asking.」(原文)

例えばこの箇所は、何ら壮大なこととかこの世界を超越したようなことではなく、単に、今、現に自分の目の前で展開されている状況についての記述だと感じられます。

つまり、「何かを得るためには何かから奪わなければならない」という無意識の信念の存在が否認されていて、それが世界に対して投影され、世界が実際にも、自分から何かを奪おうとするものであるかのように見えています。

このことが、つまり、罪が実在するとしか知覚できないように、視覚が調整されてしまっている、ということの一つの実例であり、それが、現実の世界を覆い隠すベールとして作用して、そのことにより、幻想の世界を自分にもたらしています。

つまりこのことが、自分が今見ている世界は、現実の世界ではなく、幻想の世界だということです。

しかし、自分がその気になりさえすれば、現実の世界は決して失われたわけではなく、今なおそこにあったのだ、ということがわかるようになる、ということです。

ここで、上の私の訳では、「You believe in a world that takes」のところですが、これは文字通りには、「あなたは、「ある世界があり、そしてそれは奪うものである」ということを信じている」、ということです。

(単に「奪う世界を信じている」というだけでは、まるで「believe in a taking world」のようであり、「believe in a world that takes」のニュアンスの重畳がうまく訳出されていません。ここには実は、「believe in a world」ということと、「and the world takes」ということとがたたみ込まれているのですから)

しかし、このことを、「世界が奪おうとしてくると信じている」と、あえて自分中心に捉える描写にしたのは、この視点が気づきと学びにおいて必要だからです。

また、例えば、「世界とは奪おうとするものであると信じている」というように名詞的にすると、どうしても、「奪おうとする世界」が何か自分とは別の対象物であるかのような感覚が生じてしまい、そのことが今、自分が現に体験していることであるというニュアンスがなくなります。

そのために、英語とは異なって、動的に表現する必要がありました。

そのように、自分とはかけ離れたところで、「奪う世界」についていくら考察しても、それは知覚の訂正にとっては、直接の役には立ちません。

そうではなく、自分は今、現に、ありありと、自分が今にも何かを奪われそうだという感覚にさらされている、ということを自覚することが、知覚の訂正への「入り口」になります。

そして、世界が何かを自分から奪おうとしてくるように見えている、というように調整された知覚をそのままにしているために、自分は世界を恐れているわけですが、それは、言い換えると、自分が見ていると思っている世界が現実だと信じて疑わないからです。

ここでこそ、「このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である」(T-24.in.2:1)ということなわけです。

例えば、自分は世の光などではないと言い張ることが、通常は「謙遜」だと思われていますが、実はこれこそが「傲慢」なことなのである(cf. W-pI.61.1-2)ということも関連しています。

つまり、奇跡講座においては、例えば、「自分は世の光などではないと言い張ることが「謙遜」である」という価値観を疑うことが求められている、というわけです。

ここでは、自分は暗に絶えず何かを奪われそうに感じていて、しかもそれが「現実」だと信じて疑っていないが、こうしたことは果たして本当だろうか、と疑ってみる意欲が必要だということです。

さて、その、自分が見ていると思っている「現実の」世界は、実は幻想なのだ、ということが出発点なのですが、しかしそれは、この世界自体が幻想だということではないわけです。

あくまでも、調整された視覚によって捉えられた世界のニュアンスが幻想である、ということです。

こうしたことを踏まえて、私が試しに訳してみたものが、上のものになります。

ですから、自分が体験しているものは幻想だ、ということが救済であるのは、つまり、自分が絶えず何かを奪われそうだと感じている感覚は幻想だ、と実感できることが救済だからです。

ですから、ここでのニュアンスは、決して、例えば、「絶えず何かを奪われそうに感じているあなたは、幻想を現実にしようとする「いけない」存在である。だからその感覚に対処しなければならない。さもなければ神はあなたのことを決して認めないし、あなたもまた永遠に地獄の中にとどまるだろう」と脅されているわけではありません。

つまりは、このように感じてしまうこともまた、実は、罪悪感のなせる技だった、ということです。

ただし、こうした、かなり大胆な翻訳は、奇跡講座上巻の冒頭に掲載されている「この翻訳について」の中の、FIPの方針とは相容れないようです。

私は単に、その「この翻訳について」でも引用されている、テキストの中の文章に同意し、それに従っただけですけどね。

「ただし、良き翻訳者は翻訳するものの形を変更しなければならないとはいえ、翻訳者は決してその意味を変えることはしない。実のところ、翻訳者の目的のすべては、もとの意味を保持するために形を変えることにある」(T-7.II.4:3-4)

だとしたら、奇跡講座とは、文字通り「福音」、つまり、「よい知らせ(gospel = “good news”)」なのですから、その知らせの「よさ」が伝わるような翻訳にする必要がある、ということなのでは?

私はこのように感じて、試しに上のように訳してみました。

実相世界への橋の「実相」

実相世界への橋のたもとに、「このはしわたるべからず」と書かれているので、みんなそこで立ち往生し、右往左往している間に、日が暮れてきてしまっていたんです。

一休さんが、「これは端っこではなく真ん中を渡ればいい」と見抜いたようです。

というのは、その橋を渡って、帰ってきた人はいないどころか、途中で引き返してきた人は、みんな統合失調症と呼ばれる状態になっていたので、この橋はどうやら非常に危険な橋らしいということで、立て看板が立っていたんですね。

しかし実は、真に渡った人は市井に紛れて普通に暮らしていたようです。

それから、T-16.VI.7:4 に、「実際に方向性を失ったかのような感覚が起こるかも知れない」と書かれていますが、これは精神医学用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」のことです。

ですから、ここで怖気づいて、元いた世界に引き返すと、統合失調症と診断を受けるわけです。

ちなみに、『不死というあなたの現実』、p.162 では、正しく訳されていて、私はこの訳に助けられました。

「反奇跡講座」からの脱却のために

今の大半の奇跡講座学習者が学び、実践しているのは、形としては奇跡講座ではあるが、その本質においては奇跡講座とは何か「真逆」のもの、つまりは、「反奇跡講座」を奇跡講座として学んでいる、という印象がする。

ただしこれ自体が何か「大問題」だということではなく、つまりは、形は既にそこそこ学んでいるのだから、後は、その本質的なところで、ニュアンスが完全に反転する体験、が、必要になってくるというわけである。

だが、奇跡講座はもしかすると、そもそも学習の道のりはそのような成り行きになる、ということを、初めから想定していたのかも知れない、とすら感じることがある。

つまり、初めはただひたすら形を身につけていき、しかる後に、その形に中身が宿ることで、すべてが明らかになる、というものである。

テキストでは、この「形に中身が宿る」体験のことを、「根本的変化」(T-6.V.B.2 – T-6.V.C.3)と呼んでいる。

この言葉は、テキストの初めの方に出てきているわけだが、これがおそらく、後半になって、「実相世界への橋(T-16.VI.h)を渡る」という表現になっている、という印象がする。

で、こうした捉え方は、私の体験からの帰結であり、本当かどうかはもちろんわからない。

ただし、ここからの敷衍としては、多くの人はまだ、「仏作って魂入れず」の段階にとどまっているのかも知れない、という可能性を感じる。

まあ、ですから私の様子は、さながら、普通は動かないものと思っている仏像が、なぜかリアルに動いているので、他の人はぎょっとしていた、ということなのかもですね(笑)。

ですから、私に限らず、そうした人に対するバッシングとは、つまりは、「仏像をぶつぞう」だった、というわけです(笑)。

ああ、今の人は、そういうことは「罰当たり」だと、強く条件付けられていますから、表だってはバッシングせず、心の中でバッシングして「完全スルーする」、つまり、「なかったことにする」という形を取ります。

「なかったことにする」のと「水に流す」のとは、これまた異なるように思うんですけどね。

しかし今は、水質悪化が無視できなくなってきたため、うっかり水にも流せなくなりましたが(笑)。

「なかったことにする」というのは、つまりは、「臭いものに蓋をする」ということなのかもです。

これが、「罪悪感に蓋をする」というワプニック博士の表現と似通っているというのが、ね(笑)。

罪悪感に蓋をすると、それは投影されて、世界や他の人の姿の中に見受けられる「罪悪」として出現します。

「いくらおまえが「無罪のふり」をしていようが、おまえからは「罪悪感のかおり」がぷんぷん臭うんだよ」みたいな。

まあ、それはいいとして。

すでに旧来のやり方は、実質的には行き詰まっているので、これからはもう、「今までは全力で避けてきた選択肢」を選ぶしか、選択の余地はありません。

しかし、実はそれこそがまさに、実相世界への橋を渡るきっかけとなります。

こうしたこともすべて、私の体験談です。

では。

めっけもの

http://kanisokuhou.doorblog.jp/archives/51123874.html

というまとめサイトがあり、ここの、この記事は、昔よく読んだものです。

で、改めてこの記事を探してみて、なんとなくコメント欄を見ていたのですが、その中に、目を見張るコメントがあったので、ご紹介します。

—–

  • 467. にこ 
  • 2018年08月03日 15:04
  • 昔、ここのコメントに長々と書き込みした者です。
    私は間違いを書き込んでいました。
    特定の救世主がいるかのように書き込んだこと反省してます。
    名前が明らかにされていなかったのに、聞こえる声と教えの内容が似ていたからと自己判断しました。本当に申し訳ない。
    新しく分かったことがあるので訂正させてください。
    たしかに、今の時代振るいにかけられています。ですが、善悪の振るいにかけられるのではなく、本物の愛を知っているか、知らないかにです。本物の愛を見つける為の振るいです。
    神が全ての人間に永遠の幸せを知ってもらいたいがために、課題を出しています。
    このたった一つの課題を解ければ、全ての難問が解けると。
    以前、他人中心にと書きましたが、これは自分のコンプレックスや辛い過去を癒し愛せていることが土台にあってです。この土台がないと他人を真に愛すことができません。その土台がないと条件付きの愛、偽善の愛です。
    たった一つの課題、それは自分自身を癒し愛すること。それができれば先祖の怨みや苦しみを解き、現在の自分を救い、未来の子孫を愛することに繋がると言っています。
    過去現在未来を同時に、しかもブレることなく永遠に愛すことができるのです。
  • 468. にこ 
  • 2018年08月03日 15:05
  • 自分を救うヒントは善いも悪いも誰かから与えられます。ですが、救ってくれるのは誰かでありません。最終的に自分を救うのは自分自身ということを神は気づかせようとしています。
  • 罪人であろうとも全ての人間の心には神を宿しています。
  • それは良心です。良心は他人の為だけにあるのではなく、自分の為でもあります。
  • なので、崇拝される特定の救世主など必要ないのです。誰かに指示され動くことを神は望んでいません。神は人間の自立を望んでいます。
  • 自分を傷つける人がいても恨んではいけません。自分自身を愛せない可哀想な人なのです。自分を癒し愛するように他人も癒し愛することができたら、家庭から組織、世界へと永遠の幸せが広がっていきます。
  • 将来、みな同じ神、良心と共に生きる時代がやってきます。人々が救世主になっていく時代にはいったと言っても過言ではないかもしれません。

——

というわけです。

これ、私が散々苦闘した果てに見いだしたことと、ほぼ同じことなんです。

で、ここにこそ、奇跡講座では十分に言及されていなかったことが、ズバリと書かれています。

この方の書かれている「良心」というのが、ほぼ、奇跡講座で言う「正しい心」に相当しています。

ですから、「聖霊」とも連なっています。

私も自分なりに訳語を探していたときに、同じ言葉に行き当たりました。

で、私が苦闘からつかみ取ってきたのは、人は、なぜか自分だけは絶対に愛するまいとしている、ということです。

自分以外のすべての人を無条件に赦し、愛そうとしている人ですらも、自分だけは「例外扱い」しています。

一見、自分が大好きと言っている人でも、よく見ると、特定の何かだけは「例外扱い」しています。

つまり、その部分に相当する自分だけは「例外扱い」しているわけです。

このことにより、すべてのこれまでの成果が、まるで発揮されない状態にとどまっているわけです。

というのは、裏を返せば、「根本的変化」(T-6.V.B.2:1 や T-6.V.C.3:1 など)が起きるために必要な条件が、これだからです。

T-6.V.Cでは、「神と神の国を守るためだけに、警戒していなさい」とあります。

また、「神の国とはあなたのことである」(T-4.III.1:4)とも書かれています。

では、「神と神の国を守るためだけに、警戒していなさい」というのは、とどのつまり、こういうことではないのでしょうか。

「神とあなたを守るためだけに警戒していなさい」

これ以上説明を付け加えるのは、野暮というものかもしれませんね。

奇跡講座の本質

神は、罪というものが根本的にわからないので、人間の価値判断の感覚で言うと、神は「究極のアホ」です。

人がただ、こんな自分では神に愛されないとして、ただ延々と自分を裁き続けているだけです。

しかし、人は裁く機能を神に投影して、神に裁かれていると知覚します。

つまり、本当はただ自分が裁いているのですが、それを、自分が神に裁かれているということにしています。

これもまた、自我による解釈の一つです。

ですから、早い話、罪悪感を日本語で言うと、「気が咎めている」ということです。

この言葉は慣用句になりすぎているために、元の意味がわからなくなっていますが、この言葉をよく吟味すると、わかってくるでしょう。

なので逆説的ですが、「真面目な学習者」としてのアイデンティティーをかなぐり捨てると、本当の意味で奇跡講座の学びが始まります。

真面目に、真摯に奇跡講座を学ぼうとしている間は、実際には、ただ「気の咎め」を強めることに終始しているだけ、ということが、往々にしてあります。

奇跡講座や、そして奇跡講座だけではなく、特定の教えや人物を自分自身より上位に置く、つまり絶対視することは、「先導者と追従者」(T-31.II.3-7)という、関係性に対する心の中の構図を、特定の人物や教えに対して投影することです。

書籍になった奇跡講座は、「普遍なるコースの特別な一形態」(M-1.4:1)であり、その主要な目的は、キリスト教の訂正であり、聖霊による再解釈です。

ですから、このまま日本人が学ぶと、人によっては、いわば「乳糖不耐症」のような弊害が起きます。

なので、奇跡講座という形態を通して「普遍なるコース」という内容を感じ取る、という姿勢が必要になります。

普遍なるコースの幾千もの形態はすべて「月を指し示す指」であり、普遍なるコースという内容は常に「ただ月を見よ」であり、形態の違いは「いかにして月を見るか」です。

それは、月の見方についての議論や「月を見ようとして頑張る」のでもなく、ただ実際に月を見ることなので、それは特別なことではありません。

問題は、実際に月を見た人は、他の人から「あの人は自分は特別だと言っている」と思われてしまうということです。

「普通に月が見えます」というのは、なんら特別なことではないのですが。

実は、「私たち、月が見えないよね」ということ、つまり、普段の状態こそが特別なことなのであり、その特別性に愛着を抱き、固執し続けることが、この世界では「なんら特別ではない」と思われています。

これぐらい、普段の感覚は、言葉の意味が実際とは真逆になってしまっています。

ですから、奇跡講座は「ただ月を見ようね、そしてこうすれば誰でも確実に月が見えるようになるからね」と言っているだけなのに、通常は、「月が見えないあんたはだめね。月に代わってお仕置きよ」と言っているように思われている、というようなもんですわ(笑)。

ただし、細かいことを言うと、「月を見る」ことが必要だった時代はもう終わっていて、今はもう、とっくの昔に、「自分の内なる太陽を思い出す」時代になっています。

ですが、「月への愛着」が捨てきれずにいたために、心の中に多大な「摩擦」が生じていました。

ですから、奇跡講座の内容(実は、「形態と内容」についての奇跡講座の定義からは、これもまた「形態」ですが)もまた、いわば「月の時代」の名残と「太陽の時代」の兆しとの間で、「表記の揺れ」が見られます。

こうした時代の要請から、「風の時代のコース」を個人的にアウトプットしていますが、ブログで書いていることはまだ、「構想のメモ」程度であり、いずれ、全面的に加筆修正して、まとまった形として公表する予定です。

ただし、ネタは完全無料公開ですので、これを膨らませてくださればそれで充分です。

奇跡講座の赦しのメモ

いろいろと、内的に波乱が続いているが、マジでもう何もかもわからない(いい意味で)。

ただ、手放すと楽になる、というのは事実。

そしてこれは奇跡講座では、「赦しが幸せへの鍵である」(レッスン121)、およびレッスン132-134に対応している。

ここで、赦す対象はあくまでも、自分の心の中のイメージや先入観などである、ということが大切である。

おそらく、奇跡講座の実践における困難さの一つは、ここで、赦す必要があるのは、実際の事物や人物だとしてしまうことではないか。

そうするとそれは、従来の意味での「許し」になってしまう。

奇跡講座はあくまでも、自分の心の中のことに関しての言及である。

そうすると、現実の世界(実相世界)、つまり、「ありのままの世界」が見えてくる。

ただしもちろん、実際の実践は、もっと複雑な様相を呈する。

2ツイートで言う奇跡講座の神髄

もちろん私も含めてですが、人って、相手と関わっているようでありながら、実際には、ただ自分の信念に反応しているだけなんですね。

まさにそこのそころを、奇跡講座では延々と解説していて、さらに、赦すことで自分の信念の地獄から逃れられる、と脱出の仕方まで説明しているわけですが。

たぶんそこで、実際の相手を赦さなければならない、としてしまうために、困難になるのかもです。

直視する必要があるのは、相手の姿や言動に対して投影している、自分の側の自我による解釈なんですが、この解釈を普通は、実際の相手だと信じているので、だからそれは幻想だというわけです。

※ ちなみにこれは、私の数十年にわたる血のにじむような努力の果てにわかってきたことをコンパクトにまとめた「机上の空論」です(笑)。

神の意志の到来(テキスト引用)

神の意志は、手を取り合った者たちの中に永遠に存在する。

互いにつながり合うまでは、彼らは神が敵であると思っていた。

しかし、彼らがつながり合って、一つの目的を共有したとき、彼らは自分たちの意志が一つであることを学ぶ自由を得たのである。

そのようにして必ず神の意志は彼らの自覚に到達することになる。

また彼らは、それが自分の意志だということを長い間忘れたままでいることはできない。

(T-30.V.11)