普遍なるコースの特別な形態

奇跡講座、マニュアル編の冒頭に、こう書かれています。

M-1.4:1-3

1 本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。2 他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす。3 どれもみな、ただ時間を省くだけである。

ここで、私は以前、「普遍なるコース」というのが奇跡講座のことであり、「特別な形態の一つ」というのが、それぞれの神の教師のこなす個人的な学習課題のようなものなのではないか、というように思っていました。

しかし、自分の覚醒体験を振り返っていて、どうもそうではないのではないかという気がしてきて、もう一度ここを読んだら、ここに書かれていたことは、私の記憶とは全く違っていました。

つまり、ここに書かれていることは、奇跡講座とは、「普遍なるコースの特別な形態の一つ」であり、「他にも幾千もの形態があり」、「それらすべてが同じ結果をもたらす」ということです。

言い換えると、奇跡講座とは、「一つの特別な(特殊な)カリキュラム」だということです。

これが、ここに書かれていることです。

なので、奇跡講座だけが他の教えと異なっていて、特別に優れているかのような捉え方は、残念ながら、事の本質を見失う捉え方だと思われます。

ただし、形態という点では、確かに、「普遍なるコースの特別な一形態」なので、その認識自体が間違っているということではありませんが。

で、だからこそ、この教えは、「「A」 course in miracles」、つまり、「奇跡に関する、ある一つの講座」だというわけです。

だからこそ、ワプニック博士は、このコースの教えが自分には合わないと感じたら、罪悪感を持たずにこのコースから離れてください、と、繰り返し述べている、というわけだったんですね。

つまり、このコースを学ば「なければいけない」とか、このコースを学ばなければ「神に罰される」といったようなことは全くない、だから、自分に合わないと感じたら、もっと自分に合うものを探すことは全然構わない、ということだったんですね。

私もそうでしたが、ある種の魔法にかかっていると、なぜか、そう言われれば言われるほど、ワプニック博士がそう言うのは、実はこのコースが何かとてつもない特別な価値があり、魅力的だからこそなのではないか、というように、なんだかとてつもなく知覚がゆがんでしまうわけです。

で、そんなことは全くないようなんですね。

「他にも幾千もの形態がある」という言葉をそのまま受け取ると、実際に、奇跡講座以外にも無数の方法があるという意味のことを、奇跡講座自体が言っていることになりますから。

だからこそ、思い切って奇跡講座を手放したら一気に覚醒した、なんて皮肉なことも、実際に起きたりするわけです。

また、ある別の教えでも、長年学んでもらちがあかないので、思い切って手放したら、逆にその教えの神髄が分かった、という意味の体験もあるようです。

なので、長年奇跡講座を学んでも一向に学習や実践が進んだ気がしない場合には、いったん奇跡講座を離れてみるというのもいいのではないか、と個人的には思います。

それまでに学んだことが無駄になることは決してありませんから。

むしろ、学んだことを整理して、次の学びに生かすためには、定期的に離れてみる必要がある、のかもしれないとすら思います。

言ってみれば、簡単な断食をすると、胃腸の調子がリセットされるようなものです。

まあ、例えばこんな感じで、奇跡講座が理解できてくると、それまでの自分が奇跡講座に抱いていた感覚が、いかに、ただの先入観でしかなかったか、というようなことがだんだん見えてきました。

これから、そうしたことをシェアしていきたいと思っています。