自我がしていることの実例の一つ

「自我が神に成り代わろうとする実例」を見てしまった。

聖霊によると、あれが真の二極化、なのだそうです。

「自称覚者」あるいは「私には自我がない」という人の自我はマジで危ないので、文字通り「触らぬ神にたたりなし」ですわ。

どういうふうに怖いのかを構造的に説明すると、「私には自我がない」という人は、実は、自我を他者側に「完全投影」することに成功しただけだからです。

ただしこれもまた、誰もが一度は通る道です。

それはいわば「踊り場」なので、それを「究極の境地」や「探求の終焉」などととせず、ただ「その先」に歩き続けることです。

もっと具体的にその「怖さ」を説明すると、うかつにそうした人と関わり続けると、場合によっては自分が精神病になっていきます。

そうした人に怒りを表明したら、「だから怒りは正当化できないんだよね」となります。

(あ、これは奇跡講座の言葉を非難しているのではなく、奇跡講座の言葉を自我防衛の目的で使っているということです)

あるいは、「あなたにとって「図星」だからこそ腹が立つんだよね」とか。

投影という自我防衛機制が本当にしていることは、例えばこういうことです。

自分にとっては、実際にそうだとしか見えないというのは、まさにそれこそが「自我の催眠術にかかっている」ということだからです。

だからこそ、「肉眼があなたに見せるものを信じるな」と奇跡講座で繰り返し言われているわけです。

ここでいう「肉眼で見る」というのは、つまり、いわゆる「心の目で見る」「行間を読む」ということも含んでいるわけです。

(余談ですが、なので、奇跡講座の「vision」を「心眼」と訳すのは、実はまずいんですよね。

「眼」という言葉を使いたければ、あれは「霊眼」とする必要があります。

「心眼」とはほぼ、「真の知覚」に相当するので。

そもそも、「知覚(perception)」とは、霊ではなく心の機能ですからね)

さて、表面意識から怒りを「消し去った」人がいると、その周囲の人が、なぜだかわからないけど無性に腹が立つ、という経験をします。

そのようにして意識は常に全体としてバランスを取ろうとするからです。

ですが、こうした一連の文章もまた、そうした人にとっては、「間接的な個人攻撃」になりますし、「本物の自我による発言」でしょうし、また、もしかすると実際にそうなのかも知れません。

ですから私はもう、何も言えません。

なぜなら、形態から内容を推測することは、レベルの混同だからです。

形態から内容を推測するというのは、例えばこの場合で言えば、相手の立ち居振る舞いや言動などから相手の「真意」がわかる、とかですね。

もし、神に根ざさない「真意」を感じたとしたら、それがすなわち自我の言うことを真に受けることです。

こうしたことは、従来の世界においては、とてつもなく厳しいことのように感じられますが、実相世界に到達したら、こうしたことがわかることはただ喜びであり、どんどん解放されていくことが実感できます。