「無条件」ということ

昔、自分は悪そのものだとしか思えない感覚で苦しんでいたときでも、例えば幾何学のようなものは好きで、そうした情報には接したりしていました。

個人的な好みというものがおおよそ認められず、極端に言うと、私の人生を生きているのが私ではなく、誰か他の人が私の人生を生きたとしても、この人生ならば同じように生きることができるようにする、というようなものとして、自分の好みを選んだりしているという、今思うと、ちょっとよく分からないんですけど、みたいな状態でした。

当時私は、一人称単数形の代名詞を話すことができない、という「症状」がありました。

つまり、「私」「僕」「俺」といった言葉を話すことができませんでした。

その理由は簡単で、意図的に表面意識から自分という自覚を抹殺していたからでした。

その状態で、カウンセラーになることを目指して大学院でなんとか履修していたという、普通に考えてよくわからない状態でしたが。

まあ、結局、大学院は中退しましたが、そんな状態で修士課程を終えようとすること自体が、普通に「正気の沙汰ではない」というやつでしたけどね。

病識がないというのは怖いです(笑)。

ただし、ここまでの文章を読まれるとなんとなくおわかりだと思いますが、日本語だと、主語を表す言葉をほとんど用いなくても、かなり文章が書けるんですよね。

というより、主語をわざわざ書かないのがむしろ普通というか。

ですから、国籍が日本かどうかではなく、日本語を母語として生きている人は、生きていく中で、ほとんどのことは、とりたてて主語を意識しなくてもこなせるわけです。

そのように、言語としての主体意識をほぼ完全になくした状態でも、生活の基本的なことはできるというのが、日本語の特徴です。

ただし、他の人と自分との違いを際立たせなければならない状況においては、そういうわけにはいきませんが。

さて、そのようなときでも、例えば幾何学は、私がどんな人間であるかに関わりなく成立している、ということが、私にとって安心感をもたらしていました。

つまり、例えば、幾何学の定理には、「三角形の内角の和は2直角である」というものがありますが、この定理は、私が善人であろうが悪人であろうが、男性とか女性とか、あるいは白人とか黒人とか、聖人君子であろうが犯罪者であろうが、そうしたこととは無関係に成立しています。

つまり、この定理は個人としての私の属性とは無関係に成立している、だから、私の人となりがこの定理に「悪影響」をもたらすことはない、ということが、当時の私にとっては安心感をもたらしてくれました。

ですから、振り返ってみると、あの時代に私は、普遍的な認識の仕方を実は徹底的に鍛えていた、のかもしれません。

さて、いきさつはもうかなり忘れましたが、実はこれが、「無条件」ということの一つの現れだったようでした。

これはどういうことか。

「無条件」とは文字通り、「条件がない」ということです。

ですから、「無条件の愛」というのは、例えば、愛する対象がどんな状態であろうが、変わりなく愛する、といようなことです。

ただし。

例えばここで、人に対する無条件の愛というと、「その相手がどんなに「悪い」人であろうが愛する」、というようなことになります。

これは、感覚としてはそんな感じになるのかもしれませんが、結局、「どうしても愛したくない相手」というものは、やはりあるわけです。

だから、この感覚をぎりぎりまで広げて、それこそ、例えば全人類を愛することができたとしても、これだけではどうしても愛することができないのは、例えば自分だったりします。

あるいは、自分の心の中でも、99.999….%の部分は愛せたとしても、残りの0.0000….1%はどうしても無理、だったりします。

「どんな「悪」「闇」でも分け隔てなく愛する」という無条件さが、普通の感覚ではとてつもなく高度で困難なことのように感じるのは、例えばこうしたことが理由です。

これは、『神の使者』の中で言えば、非二元論の一つ目の段階に相当します。

「無条件」ということを徹底しようとしている状態、です。

そうすると確かに、一見、とても「慈悲深く」なることはできるでしょうし、神もまたそのようなものだとして、かすかに想像することはできます。

そうしたところから、例えば、神秘主義だったと思いますが、「神の無限の忍耐」というような表現も出てくるのだと思います。

つまり、神は、人間のどんな悪であろうが、その人が「改心」するのを「信頼」して、ただ「忍耐」して見守っている、というような感覚ですね。

めっちゃプレッシャーですよね(笑)。

さて、ですが、真に無条件であることというのは、実は、これとは次元が異なります。

真に無条件であるというのは、もはやはじめから条件には左右されていないわけです。

つまり、この意味で「無条件に愛する」というときには、「相手がどんなに「悪人」でも愛する」、のではありません。

そうではなく、愛するときに、相手が悪人であるとか善人であるとか、といったことは、無条件の愛にとっては「無関係」である、ということです。

善人とか悪人とかというのは、根本的に「無意味」だ、というわけです。

だからこそ、「無条件」なんですね。

親鸞の言う「悪人正機」が成立する根拠は、つまり、こういうことです。

つまり、「相手がどんなに「悪人」でも愛する」というのは、まだ、「条件付きの愛」の延長線上であり、ただし、その条件において、「例外」を極限まで否定した状態です。

ですから、どれだけすべてを愛したり、また赦そうが、「例外がある」という感覚だけは、どうしても残ります。

しかし、「無条件である」というのは、条件というものがはじめから存在しない、ということです。

だからこそ、「例外がない」わけです。

つまり、「例外」というもの自体を想定する必要がない感覚、というわけです。

それはなぜかというと、条件や属性というもの自体に対して無関係だからです。

この感覚において、「すべてははじめから全く赦されている」ということがかわります。

はじめから全く赦されているからこそ、もはや赦す必要はないわけです。

これが、「神は一度も咎めたことがないので、赦すことはしない」(W-pI.46.I.1、およびW-pI.60.1.2:1)と奇跡講座で言われていることの意味です。

この、「神は赦さない」というのは、言葉だけをとると、なんかめっちゃ厳しくて怖いですよね。

本当に、神の「お眼鏡にかなう」人は、もう本当に一握りの、「特別に選ばれた人」だけなのではないか、というぐらい、怖いですね。

自分なんかは絶対無理、どんなに努力をしても、血のにじむような修行をしても無理だわ、とか思いますね。

違うわけです。

神が赦さないのは、神は咎めたことがないからです。

咎めとはひとえに、ただ自分が自分を咎めているわけです。

つまり、日本語で言う「気が咎めている」というやつです。

ね。

「神は赦さない」というのは、実は、「無条件の愛」ということを論理的に表現した言葉だった、というわけです。

このことを、先の私の話の文脈で表現すると、次のようになります。

つまり、神の愛は、自分が善人だとか悪人だとか、男性とか女性とか、白人とか黒人とか、聖人君子とか犯罪者とか、といったこととは、はじめから無関係だ、ということなわけです。

だからこそ、「すべてははじめからすっすかり赦されている」ということなわけです。

自分がどれだけ「罪深い」かということも、つまり、神の面前においてはそんなものははじめから何の関係もなかった、というわけです。

ただし、自分が自分を罪人だとして、徹底的な「自己断罪」をしていると、その、自分への無意識の裁きを神に投影して、神がとてつもなく自分を裁く存在であるかのように感じる、というのは、確かにあります。

そうすると、当然ながら、神がいろいろな人を厳しく裁く存在であるかのように感じます。

どんな被造物もまた、「神の裁き」を免れることはできません。

こうしたことですらも、実は、自我が神の子をだまして、自我の属性を、あたかも神に属するものであるかのように見せているわけです。

(ここで言う「自我」というのは、奇跡講座の説明における「自我」のことであり、日常語で言う「自我」というのは、これが個人的なレベルに反映されたものです)

つまり、こんなにもとことん深いところにまで、自我の策略は徹底的に「浸透」しているわけです。

ですから、自分の知覚はもう、根底から自我に基づいて成立している、ということが、かすかにではありますが、おわかりいただけるかと思います。

そして、奇跡講座が言及しているのはもちろん、こうした究極のところなのですが、しかしそれと同時に、このことは、ごく日常的な場面においても、フラクタル的に再現されています。

ですから、今、出所を探すことができませんでしたが、生きている毎瞬毎瞬が、神からの分離が実際に起きたという、その瞬間の再現であるというのは、つまりこういうことです。

現実とはフラクタル構造をしているために、目の前のありきたりの光景にも、分離が生じた「結果」が投影されている、というわけです。

だからこそ、日常のありきたりの瞬間において、分離ではなく赦しを選ぶことは、実は神からの分離は起きていなかったということを、知覚の「表舞台」において思い出すための「第一歩」だ、ということなわけです。

ただし、神からの分離と、世界や他者との分離とは、実は、性質が異なります。

神からの分離は、「水平の知覚」ではなく「垂直の知覚」においてのことであり、世界や他者との分離は、「水平の知覚」においてのことです。

この、水平の知覚と垂直の知覚というのは、ヤスパースの哲学の中での用語ですが、いずれ、項をあらためて説明します。

(私はたまたま、大学時代に、ヤスパースの哲学で卒論を書いたために、この用語を知っていたので、理解していました。

もちろん、その当時は、奇跡講座なんて全然知りませんでした。

つまり、例えばこんなふうに、すべては必然なんですね)

このことが書かれているのが、テキスト第1章第II節第6段落です。

すべて引用するのはしんどいので、核になる部分だけを引用しますと、「けれども、奇跡には水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行が伴う」(T-1.II.6:3)と書かれているのは、つまり、奇跡には、水平的な知覚、つまり、兄弟との分離という知覚が、垂直的な知覚、つまり、神との分離という知覚へと、突然に移行する、ということが伴っている、というなわけです。

これをヌーソロジーの言葉で言うと、ノスの方向性からノウス(ヌース)の方向性への転換、あるいは、ノウス(ヌース)の方向性の顕在化、というような表現になるかと思います。

というわけで、こうしたことを、これから少しずつ書いていく予定です。

これを読んだ方が、「無条件」ということについて、たとえ知的にでも、かすかにうかがうことができれば、幸いです。

このことを、単なる知的理解にとどまらず、現に生きたリアルな体感として実感できるようになるところまで自分を導いてくれるのが、つまり、奇跡講座であり、その構造的な根拠をもたらしているのがヌーソロジーだ、というわけです。