めっけもの

http://kanisokuhou.doorblog.jp/archives/51123874.html

というまとめサイトがあり、ここの、この記事は、昔よく読んだものです。

で、改めてこの記事を探してみて、なんとなくコメント欄を見ていたのですが、その中に、目を見張るコメントがあったので、ご紹介します。

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  • 467. にこ 
  • 2018年08月03日 15:04
  • 昔、ここのコメントに長々と書き込みした者です。
    私は間違いを書き込んでいました。
    特定の救世主がいるかのように書き込んだこと反省してます。
    名前が明らかにされていなかったのに、聞こえる声と教えの内容が似ていたからと自己判断しました。本当に申し訳ない。
    新しく分かったことがあるので訂正させてください。
    たしかに、今の時代振るいにかけられています。ですが、善悪の振るいにかけられるのではなく、本物の愛を知っているか、知らないかにです。本物の愛を見つける為の振るいです。
    神が全ての人間に永遠の幸せを知ってもらいたいがために、課題を出しています。
    このたった一つの課題を解ければ、全ての難問が解けると。
    以前、他人中心にと書きましたが、これは自分のコンプレックスや辛い過去を癒し愛せていることが土台にあってです。この土台がないと他人を真に愛すことができません。その土台がないと条件付きの愛、偽善の愛です。
    たった一つの課題、それは自分自身を癒し愛すること。それができれば先祖の怨みや苦しみを解き、現在の自分を救い、未来の子孫を愛することに繋がると言っています。
    過去現在未来を同時に、しかもブレることなく永遠に愛すことができるのです。
  • 468. にこ 
  • 2018年08月03日 15:05
  • 自分を救うヒントは善いも悪いも誰かから与えられます。ですが、救ってくれるのは誰かでありません。最終的に自分を救うのは自分自身ということを神は気づかせようとしています。
  • 罪人であろうとも全ての人間の心には神を宿しています。
  • それは良心です。良心は他人の為だけにあるのではなく、自分の為でもあります。
  • なので、崇拝される特定の救世主など必要ないのです。誰かに指示され動くことを神は望んでいません。神は人間の自立を望んでいます。
  • 自分を傷つける人がいても恨んではいけません。自分自身を愛せない可哀想な人なのです。自分を癒し愛するように他人も癒し愛することができたら、家庭から組織、世界へと永遠の幸せが広がっていきます。
  • 将来、みな同じ神、良心と共に生きる時代がやってきます。人々が救世主になっていく時代にはいったと言っても過言ではないかもしれません。

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というわけです。

これ、私が散々苦闘した果てに見いだしたことと、ほぼ同じことなんです。

で、ここにこそ、奇跡講座では十分に言及されていなかったことが、ズバリと書かれています。

この方の書かれている「良心」というのが、ほぼ、奇跡講座で言う「正しい心」に相当しています。

ですから、「聖霊」とも連なっています。

私も自分なりに訳語を探していたときに、同じ言葉に行き当たりました。

で、私が苦闘からつかみ取ってきたのは、人は、なぜか自分だけは絶対に愛するまいとしている、ということです。

自分以外のすべての人を無条件に赦し、愛そうとしている人ですらも、自分だけは「例外扱い」しています。

一見、自分が大好きと言っている人でも、よく見ると、特定の何かだけは「例外扱い」しています。

つまり、その部分に相当する自分だけは「例外扱い」しているわけです。

このことにより、すべてのこれまでの成果が、まるで発揮されない状態にとどまっているわけです。

というのは、裏を返せば、「根本的変化」(T-6.V.B.2:1 や T-6.V.C.3:1 など)が起きるために必要な条件が、これだからです。

T-6.V.Cでは、「神と神の国を守るためだけに、警戒していなさい」とあります。

また、「神の国とはあなたのことである」(T-4.III.1:4)とも書かれています。

では、「神と神の国を守るためだけに、警戒していなさい」というのは、とどのつまり、こういうことではないのでしょうか。

「神とあなたを守るためだけに警戒していなさい」

これ以上説明を付け加えるのは、野暮というものかもしれませんね。

奇跡講座の本質

神は、罪というものが根本的にわからないので、人間の価値判断の感覚で言うと、神は「究極のアホ」です。

人がただ、こんな自分では神に愛されないとして、ただ延々と自分を裁き続けているだけです。

しかし、人は裁く機能を神に投影して、神に裁かれていると知覚します。

つまり、本当はただ自分が裁いているのですが、それを、自分が神に裁かれているということにしています。

これもまた、自我による解釈の一つです。

ですから、早い話、罪悪感を日本語で言うと、「気が咎めている」ということです。

この言葉は慣用句になりすぎているために、元の意味がわからなくなっていますが、この言葉をよく吟味すると、わかってくるでしょう。

なので逆説的ですが、「真面目な学習者」としてのアイデンティティーをかなぐり捨てると、本当の意味で奇跡講座の学びが始まります。

真面目に、真摯に奇跡講座を学ぼうとしている間は、実際には、ただ「気の咎め」を強めることに終始しているだけ、ということが、往々にしてあります。

奇跡講座や、そして奇跡講座だけではなく、特定の教えや人物を自分自身より上位に置く、つまり絶対視することは、「先導者と追従者」(T-31.II.3-7)という、関係性に対する心の中の構図を、特定の人物や教えに対して投影することです。

書籍になった奇跡講座は、「普遍なるコースの特別な一形態」(M-1.4:1)であり、その主要な目的は、キリスト教の訂正であり、聖霊による再解釈です。

ですから、このまま日本人が学ぶと、人によっては、いわば「乳糖不耐症」のような弊害が起きます。

なので、奇跡講座という形態を通して「普遍なるコース」という内容を感じ取る、という姿勢が必要になります。

普遍なるコースの幾千もの形態はすべて「月を指し示す指」であり、普遍なるコースという内容は常に「ただ月を見よ」であり、形態の違いは「いかにして月を見るか」です。

それは、月の見方についての議論や「月を見ようとして頑張る」のでもなく、ただ実際に月を見ることなので、それは特別なことではありません。

問題は、実際に月を見た人は、他の人から「あの人は自分は特別だと言っている」と思われてしまうということです。

「普通に月が見えます」というのは、なんら特別なことではないのですが。

実は、「私たち、月が見えないよね」ということ、つまり、普段の状態こそが特別なことなのであり、その特別性に愛着を抱き、固執し続けることが、この世界では「なんら特別ではない」と思われています。

これぐらい、普段の感覚は、言葉の意味が実際とは真逆になってしまっています。

ですから、奇跡講座は「ただ月を見ようね、そしてこうすれば誰でも確実に月が見えるようになるからね」と言っているだけなのに、通常は、「月が見えないあんたはだめね。月に代わってお仕置きよ」と言っているように思われている、というようなもんですわ(笑)。

ただし、細かいことを言うと、「月を見る」ことが必要だった時代はもう終わっていて、今はもう、とっくの昔に、「自分の内なる太陽を思い出す」時代になっています。

ですが、「月への愛着」が捨てきれずにいたために、心の中に多大な「摩擦」が生じていました。

ですから、奇跡講座の内容(実は、「形態と内容」についての奇跡講座の定義からは、これもまた「形態」ですが)もまた、いわば「月の時代」の名残と「太陽の時代」の兆しとの間で、「表記の揺れ」が見られます。

こうした時代の要請から、「風の時代のコース」を個人的にアウトプットしていますが、ブログで書いていることはまだ、「構想のメモ」程度であり、いずれ、全面的に加筆修正して、まとまった形として公表する予定です。

ただし、ネタは完全無料公開ですので、これを膨らませてくださればそれで充分です。

奇跡講座の赦しのメモ

いろいろと、内的に波乱が続いているが、マジでもう何もかもわからない(いい意味で)。

ただ、手放すと楽になる、というのは事実。

そしてこれは奇跡講座では、「赦しが幸せへの鍵である」(レッスン121)、およびレッスン132-134に対応している。

ここで、赦す対象はあくまでも、自分の心の中のイメージや先入観などである、ということが大切である。

おそらく、奇跡講座の実践における困難さの一つは、ここで、赦す必要があるのは、実際の事物や人物だとしてしまうことではないか。

そうするとそれは、従来の意味での「許し」になってしまう。

奇跡講座はあくまでも、自分の心の中のことに関しての言及である。

そうすると、現実の世界(実相世界)、つまり、「ありのままの世界」が見えてくる。

ただしもちろん、実際の実践は、もっと複雑な様相を呈する。