奇跡講座の本質

神は、罪というものが根本的にわからないので、人間の価値判断の感覚で言うと、神は「究極のアホ」です。

人がただ、こんな自分では神に愛されないとして、ただ延々と自分を裁き続けているだけです。

しかし、人は裁く機能を神に投影して、神に裁かれていると知覚します。

つまり、本当はただ自分が裁いているのですが、それを、自分が神に裁かれているということにしています。

これもまた、自我による解釈の一つです。

ですから、早い話、罪悪感を日本語で言うと、「気が咎めている」ということです。

この言葉は慣用句になりすぎているために、元の意味がわからなくなっていますが、この言葉をよく吟味すると、わかってくるでしょう。

なので逆説的ですが、「真面目な学習者」としてのアイデンティティーをかなぐり捨てると、本当の意味で奇跡講座の学びが始まります。

真面目に、真摯に奇跡講座を学ぼうとしている間は、実際には、ただ「気の咎め」を強めることに終始しているだけ、ということが、往々にしてあります。

奇跡講座や、そして奇跡講座だけではなく、特定の教えや人物を自分自身より上位に置く、つまり絶対視することは、「先導者と追従者」(T-31.II.3-7)という、関係性に対する心の中の構図を、特定の人物や教えに対して投影することです。

書籍になった奇跡講座は、「普遍なるコースの特別な一形態」(M-1.4:1)であり、その主要な目的は、キリスト教の訂正であり、聖霊による再解釈です。

ですから、このまま日本人が学ぶと、人によっては、いわば「乳糖不耐症」のような弊害が起きます。

なので、奇跡講座という形態を通して「普遍なるコース」という内容を感じ取る、という姿勢が必要になります。

普遍なるコースの幾千もの形態はすべて「月を指し示す指」であり、普遍なるコースという内容は常に「ただ月を見よ」であり、形態の違いは「いかにして月を見るか」です。

それは、月の見方についての議論や「月を見ようとして頑張る」のでもなく、ただ実際に月を見ることなので、それは特別なことではありません。

問題は、実際に月を見た人は、他の人から「あの人は自分は特別だと言っている」と思われてしまうということです。

「普通に月が見えます」というのは、なんら特別なことではないのですが。

実は、「私たち、月が見えないよね」ということ、つまり、普段の状態こそが特別なことなのであり、その特別性に愛着を抱き、固執し続けることが、この世界では「なんら特別ではない」と思われています。

これぐらい、普段の感覚は、言葉の意味が実際とは真逆になってしまっています。

ですから、奇跡講座は「ただ月を見ようね、そしてこうすれば誰でも確実に月が見えるようになるからね」と言っているだけなのに、通常は、「月が見えないあんたはだめね。月に代わってお仕置きよ」と言っているように思われている、というようなもんですわ(笑)。

ただし、細かいことを言うと、「月を見る」ことが必要だった時代はもう終わっていて、今はもう、とっくの昔に、「自分の内なる太陽を思い出す」時代になっています。

ですが、「月への愛着」が捨てきれずにいたために、心の中に多大な「摩擦」が生じていました。

ですから、奇跡講座の内容(実は、「形態と内容」についての奇跡講座の定義からは、これもまた「形態」ですが)もまた、いわば「月の時代」の名残と「太陽の時代」の兆しとの間で、「表記の揺れ」が見られます。

こうした時代の要請から、「風の時代のコース」を個人的にアウトプットしていますが、ブログで書いていることはまだ、「構想のメモ」程度であり、いずれ、全面的に加筆修正して、まとまった形として公表する予定です。

ただし、ネタは完全無料公開ですので、これを膨らませてくださればそれで充分です。