実相世界への橋の「実相」

実相世界への橋のたもとに、「このはしわたるべからず」と書かれているので、みんなそこで立ち往生し、右往左往している間に、日が暮れてきてしまっていたんです。

一休さんが、「これは端っこではなく真ん中を渡ればいい」と見抜いたようです。

というのは、その橋を渡って、帰ってきた人はいないどころか、途中で引き返してきた人は、みんな統合失調症と呼ばれる状態になっていたので、この橋はどうやら非常に危険な橋らしいということで、立て看板が立っていたんですね。

しかし実は、真に渡った人は市井に紛れて普通に暮らしていたようです。

それから、T-16.VI.7:4 に、「実際に方向性を失ったかのような感覚が起こるかも知れない」と書かれていますが、これは精神医学用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」のことです。

ですから、ここで怖気づいて、元いた世界に引き返すと、統合失調症と診断を受けるわけです。

ちなみに、『不死というあなたの現実』、p.162 では、正しく訳されていて、私はこの訳に助けられました。

「反奇跡講座」からの脱却のために

今の大半の奇跡講座学習者が学び、実践しているのは、形としては奇跡講座ではあるが、その本質においては奇跡講座とは何か「真逆」のもの、つまりは、「反奇跡講座」を奇跡講座として学んでいる、という印象がする。

ただしこれ自体が何か「大問題」だということではなく、つまりは、形は既にそこそこ学んでいるのだから、後は、その本質的なところで、ニュアンスが完全に反転する体験、が、必要になってくるというわけである。

だが、奇跡講座はもしかすると、そもそも学習の道のりはそのような成り行きになる、ということを、初めから想定していたのかも知れない、とすら感じることがある。

つまり、初めはただひたすら形を身につけていき、しかる後に、その形に中身が宿ることで、すべてが明らかになる、というものである。

テキストでは、この「形に中身が宿る」体験のことを、「根本的変化」(T-6.V.B.2 – T-6.V.C.3)と呼んでいる。

この言葉は、テキストの初めの方に出てきているわけだが、これがおそらく、後半になって、「実相世界への橋(T-16.VI.h)を渡る」という表現になっている、という印象がする。

で、こうした捉え方は、私の体験からの帰結であり、本当かどうかはもちろんわからない。

ただし、ここからの敷衍としては、多くの人はまだ、「仏作って魂入れず」の段階にとどまっているのかも知れない、という可能性を感じる。

まあ、ですから私の様子は、さながら、普通は動かないものと思っている仏像が、なぜかリアルに動いているので、他の人はぎょっとしていた、ということなのかもですね(笑)。

ですから、私に限らず、そうした人に対するバッシングとは、つまりは、「仏像をぶつぞう」だった、というわけです(笑)。

ああ、今の人は、そういうことは「罰当たり」だと、強く条件付けられていますから、表だってはバッシングせず、心の中でバッシングして「完全スルーする」、つまり、「なかったことにする」という形を取ります。

「なかったことにする」のと「水に流す」のとは、これまた異なるように思うんですけどね。

しかし今は、水質悪化が無視できなくなってきたため、うっかり水にも流せなくなりましたが(笑)。

「なかったことにする」というのは、つまりは、「臭いものに蓋をする」ということなのかもです。

これが、「罪悪感に蓋をする」というワプニック博士の表現と似通っているというのが、ね(笑)。

罪悪感に蓋をすると、それは投影されて、世界や他の人の姿の中に見受けられる「罪悪」として出現します。

「いくらおまえが「無罪のふり」をしていようが、おまえからは「罪悪感のかおり」がぷんぷん臭うんだよ」みたいな。

まあ、それはいいとして。

すでに旧来のやり方は、実質的には行き詰まっているので、これからはもう、「今までは全力で避けてきた選択肢」を選ぶしか、選択の余地はありません。

しかし、実はそれこそがまさに、実相世界への橋を渡るきっかけとなります。

こうしたこともすべて、私の体験談です。

では。