奇跡講座の翻訳の一例

「世界の終わりとは、世界が破壊されることではなく、世界が天国へと翻訳されることである。世界を再解釈するとは、すべての知覚が智識へと転移されることである」(T-11.VIII.1:8-9) (ふうが少し補う)

「この世界においてあなたは、創造主の聖性があなたのもとから辺り一面に輝きを放つような、一点の曇りもない鏡となることができる。あなたはここで天国を反映させることができる。だが、他の神々の姿を映し出す映像により、神を反映させるはずの鏡を曇らせてはならない。地は天を映し出すことも地獄を映し出すこともでき、神を映し出すことも、自我を映し出すこともできる」(T-14.IX.5:1-4)

「天国の平安をここに反映させ、世界を天国へと運びなさい」(T-14.X.1:6)

奇跡講座が実際に教えていることは、某博士の解説とは随分と趣が異なるような気がするのは、私だけでしょうか。

さらに「攻撃(笑)」を続けます。

例えば、公認訳のこの箇所を例に挙げます。

「あなたは、奪う世界を信じている。なぜなら、奪うことによって獲得できると信じているからである。そしてその知覚により、実相世界を見失った。あなたは自分が見ている通りのこの世界を恐れている。しかし、実相世界は、今でも求めさえすればあなたのものである」(T-11.VIII.7:2-4)(公認訳)

「あなたは、奪うことで得られると信じているために、世界が奪おうとしてくると信じている。そして、この知覚によって現実の世界を見失ってしまった。あなたは自分が世界を見るままに世界を恐れている。しかし現実の世界は、望みさえすれば今なおあなたのものである」(ふう試訳)

「You believe in a world that takes, because you believe that you can get by taking. And by that perception you have lost sight of the real world. You are afraid of the world as you see it, but the real world is still yours for the asking.」(原文)

例えばこの箇所は、何ら壮大なこととかこの世界を超越したようなことではなく、単に、今、現に自分の目の前で展開されている状況についての記述だと感じられます。

つまり、「何かを得るためには何かから奪わなければならない」という無意識の信念の存在が否認されていて、それが世界に対して投影され、世界が実際にも、自分から何かを奪おうとするものであるかのように見えています。

このことが、つまり、罪が実在するとしか知覚できないように、視覚が調整されてしまっている、ということの一つの実例であり、それが、現実の世界を覆い隠すベールとして作用して、そのことにより、幻想の世界を自分にもたらしています。

つまりこのことが、自分が今見ている世界は、現実の世界ではなく、幻想の世界だということです。

しかし、自分がその気になりさえすれば、現実の世界は決して失われたわけではなく、今なおそこにあったのだ、ということがわかるようになる、ということです。

ここで、上の私の訳では、「You believe in a world that takes」のところですが、これは文字通りには、「あなたは、「ある世界があり、そしてそれは奪うものである」ということを信じている」、ということです。

(単に「奪う世界を信じている」というだけでは、まるで「believe in a taking world」のようであり、「believe in a world that takes」のニュアンスの重畳がうまく訳出されていません。ここには実は、「believe in a world」ということと、「and the world takes」ということとがたたみ込まれているのですから)

しかし、このことを、「世界が奪おうとしてくると信じている」と、あえて自分中心に捉える描写にしたのは、この視点が気づきと学びにおいて必要だからです。

また、例えば、「世界とは奪おうとするものであると信じている」というように名詞的にすると、どうしても、「奪おうとする世界」が何か自分とは別の対象物であるかのような感覚が生じてしまい、そのことが今、自分が現に体験していることであるというニュアンスがなくなります。

そのために、英語とは異なって、動的に表現する必要がありました。

そのように、自分とはかけ離れたところで、「奪う世界」についていくら考察しても、それは知覚の訂正にとっては、直接の役には立ちません。

そうではなく、自分は今、現に、ありありと、自分が今にも何かを奪われそうだという感覚にさらされている、ということを自覚することが、知覚の訂正への「入り口」になります。

そして、世界が何かを自分から奪おうとしてくるように見えている、というように調整された知覚をそのままにしているために、自分は世界を恐れているわけですが、それは、言い換えると、自分が見ていると思っている世界が現実だと信じて疑わないからです。

ここでこそ、「このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である」(T-24.in.2:1)ということなわけです。

例えば、自分は世の光などではないと言い張ることが、通常は「謙遜」だと思われていますが、実はこれこそが「傲慢」なことなのである(cf. W-pI.61.1-2)ということも関連しています。

つまり、奇跡講座においては、例えば、「自分は世の光などではないと言い張ることが「謙遜」である」という価値観を疑うことが求められている、というわけです。

ここでは、自分は暗に絶えず何かを奪われそうに感じていて、しかもそれが「現実」だと信じて疑っていないが、こうしたことは果たして本当だろうか、と疑ってみる意欲が必要だということです。

さて、その、自分が見ていると思っている「現実の」世界は、実は幻想なのだ、ということが出発点なのですが、しかしそれは、この世界自体が幻想だということではないわけです。

あくまでも、調整された視覚によって捉えられた世界のニュアンスが幻想である、ということです。

こうしたことを踏まえて、私が試しに訳してみたものが、上のものになります。

ですから、自分が体験しているものは幻想だ、ということが救済であるのは、つまり、自分が絶えず何かを奪われそうだと感じている感覚は幻想だ、と実感できることが救済だからです。

ですから、ここでのニュアンスは、決して、例えば、「絶えず何かを奪われそうに感じているあなたは、幻想を現実にしようとする「いけない」存在である。だからその感覚に対処しなければならない。さもなければ神はあなたのことを決して認めないし、あなたもまた永遠に地獄の中にとどまるだろう」と脅されているわけではありません。

つまりは、このように感じてしまうこともまた、実は、罪悪感のなせる技だった、ということです。

ただし、こうした、かなり大胆な翻訳は、奇跡講座上巻の冒頭に掲載されている「この翻訳について」の中の、FIPの方針とは相容れないようです。

私は単に、その「この翻訳について」でも引用されている、テキストの中の文章に同意し、それに従っただけですけどね。

「ただし、良き翻訳者は翻訳するものの形を変更しなければならないとはいえ、翻訳者は決してその意味を変えることはしない。実のところ、翻訳者の目的のすべては、もとの意味を保持するために形を変えることにある」(T-7.II.4:3-4)

だとしたら、奇跡講座とは、文字通り「福音」、つまり、「よい知らせ(gospel = “good news”)」なのですから、その知らせの「よさ」が伝わるような翻訳にする必要がある、ということなのでは?

私はこのように感じて、試しに上のように訳してみました。