の続きです。
このおばあさんははじめ、自分がお金を出すのがもたもたしていることで、周囲から暗に責められているように感じています。
それが、おばあさんが体験している「世界」です。
しかし、後ろに立っていた男性は、実は全くそんなことは思っていませんでした。
ということは、おばあさんが感じていた「世界」とは、実は、そのおばあさんの「心の中」のことだったわけです。
ここにこそ、奇跡講座でいう「ベール」があります。
これが、奇跡講座が言う「世界は幻想」ということの、最も下位のレベルでの話です。
「下位のレベル」と表現したのは、究極的には確かに、この物理的世界自体が幻想だという段階があるからですが、現段階ではそうではないからです。
そして、おばあさんが「世界」だと感じている、おばあさんの「心の中」は、しかしながら、そのおばあさんにとっては、まさにそれこそが、「リアルな世界」だとしか感じられないわけです。
言い換えると、自分から見えている世界は自分の「心の中」だということを、他者側から見ると、このようになっている、ということです。
おばあさんにとっての「世界」は、おばあさんにとっては確かに「リアル」なのですが、その、おばあさんにとっての「リアルな」世界は、他の人から見ると、実はどこにも存在していません。
しいて言えば、それはおばあさんの「心の中」での話だと感じられます。
しかし、おばあさんにとっては、他の人から捉えると存在していないとしか思えない世界、言い換えると、「心の中」こそが、まさに「リアルな」世界として体験されています。
空間には実はこういうからくりがあります。
ですから、例えば後ろに並んでいた、ちょっと怖そうなお兄さんは、自分は周囲から怖がられているという世界を体験しています。
ですから、他の人が彼に対して、ちょっとでも、彼の攻撃性を「前提」として彼に接すると、彼はそれに対して防衛的に反応します。
しかし、彼が「正当防衛」している様子を他者側から見ると、彼はとても攻撃的な人にしか見えない、というわけです。
つまり、怖そうなお兄さんの「攻撃性」は、実は架空のものであり、言い換えると、「あの人は攻撃的だ」という周囲の人の信念が本人に集積した結果、彼は、「自分は攻撃的な人だと思われている」という意識をまとうようになり、そしてそのシャドウである意識が絶えず彼を攻撃してくるために、それに対して「正当防衛」をしているだけであり、その結果として、実際にも彼が攻撃的な人のように見えているだけ、なのかもしれません。
つまりそれは、実際の彼とは実は何の関係もない、一種の「虚像」だというわけです。
これが、「救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである」(T-27.VIII.10:1)ということです。
つまり彼は、そのご自身の殻を打ち破って、そもそも愛でしかないご自身をダイレクトに表現した結果、奇跡が起きたわけです。
「奇跡は愛の表現として自然に起こる。真の奇跡とは、奇跡を喚起する愛そのものである。この意味において、愛から生じるものはすべて奇跡である」(T-1.I.3)
例えばこのように、空間に潜在する自己側と他者側の存在論的差異が見えてくると、奇跡講座に書かれていることもまた、すっきりと見えてきます。