奇跡講座テキストの序文について

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

奇跡は、例えば今まで自分を苦しめているとしか思えなかったものや人が苦しみの源泉ではなくなった、というようなことも含んでいて、奇跡講座で扱う奇跡とは、どちらかというとこうした方面、とりわけ、対人認知に「奇跡的な」変容をもたらすことに重点が置かれています。

こうしたことは、意識覚醒に伴って必然的に学ぶ必要のあることを含んでいるために、奇跡講座は、遅かれ早かれ誰しもが何らかの形で学ぶことになる、ある何かについての講座です。

ですが、形としての奇跡講座を学ばなければならない、というわけではありません。

同様のことは無数の教えの中でも言われていますが、ただ、奇跡講座はその方法論において、他の教えにはないものがあります。

ですが、ものごとにはタイミングがあり、学ぶことが可能な段階に至るタイミングは人それぞれです。

ですから、奇跡講座を学ぼう、学びたいと自発的に思った、あるいは感じたときが「その時」です。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

通常、人は、何を学ぶのかを自分で決めています。

それは究極的には、自我の言うことは本当だったと「再確認」する「学び」です。

まさにここから脱出する方策をもたらしているものが奇跡講座です。

ですから学びとは、その時その時に、自我の言うことを再確認するのか、あるいは聖霊のレッスンを学ぼうという意欲をあらためて抱くのか、その2つに1つを毎瞬毎瞬選んでいる、というところにあり、ここに自由意志を行使した選択の自由があります。

余談ですが、奇跡講座でいう「学び」とは、通常の意味での学びとは異なるようです。

通常だと、例えば、「5+3=8」といったことを学ぶことを「学び」だとしているわけですが、奇跡講座の場合には、例えば、「5+3=8」ということについて、自我の学びとして受け取るのか、あるいはそこに神の意味を感じ取るか、といったことを学ぶ、というような感じです。

ですから、自我ではなく聖霊のレッスンを学ぶという点において、この世界での出来事や対人関係は、例外なく教材として活用できる、ということになります。

ある形は聖霊からのもので、別の形は自我からのものだ、ということではなく、どんな形であっても、そこには、自我による捉え方と聖霊による捉え方とが必ずある、というような感じです。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

「臨在」と訳した元の言葉は「presence」ですが、これは、註1をご覧くださるとわかるようにキリスト教用語ですが、聖書の中で直接用いられているわけではないようです。

しかし、おそらくここでは「臨在」という意味であろうと思われます。

というのは、ただ、「愛は存在する」とだけすると、どうしても、ある場所や状況でのみ愛は存在するが、その一方で、愛が欠落している状況や場所などがある、という裁きを解消することができません。

奇跡講座の特徴の一つに、「例外がない」ということがあり、ここでもまた、そのニュアンスが感じられます。

もう一つ大切なことは、奇跡講座は愛について直接教えているわけではない、ということです。

そうではなく、その次のところに書かれていますが、愛の臨在に気がつくことを妨げているものを取り去る、ということが、このコースの狙いです。

これはまた、「ベールを取り去る」ということでもあります。

ベールが取り去られたとき、結果として、愛の臨在に気がつくようになる、という方法です。

だからこそ、奇跡講座は、「愛ではない」ものごとに重点を置いて解説しているわけです。

こうしたアプローチは、例えば、「ネーティ・ネーテイ」(註2)と呼ばれるものや、否定神学などにも見られます。

(否定神学に関しては、引用すると長くなるので、ウィキペディアをご覧ください)

また、原始仏教も実は似たところがあります。

こうしたアプローチも、一見すると否定的なようですが、それは、非本質的、非本来的なものごとを徹底的に否定していった結果、どのようにしても否定できない本質が結果として際立つ、という方法論のようなものがあるからです。

数学の証明に「背理法」というものがあり、これは、証明する結論をまず否定して、しかる後に、それでは矛盾が生じるということを論証して、そして、はじめに証明したい事柄は正しかったと結論付ける方法ですが、世界というものもいわば、一種の「神に対する背理法」のようなものとして存在している、という捉え方も可能です。

奇跡講座の場合には、否定神学のような「神は~ではない」という否定表現の代わりに、例えば「自我は~である」というような表現を重ねることによって自我を取り消し、結果として神がわかってくる、というようなアプローチです。

ですから、単なる否定神学よりは、「1段階層が深い」という言い方が可能かもしれませんが、いずれにしても、一見否定的な言説を重ねることによって、言葉を超えたところに至ろうとする、というアプローチの仕方は共通性があります。

ですから、例えば「神在り」という、知る人ぞ知る表現があり、これは、ただ神のみが実在するという意味ですが、奇跡講座的なアプローチの結果をあえて言葉で表現すると、「……結局神しかなかったのかよ。。。」みたいな感じになります。

こうしたアプローチの仕方をとっているために、奇跡講座は自我や罪や闇などについて延々と述べてはいますが、実は、奇跡講座は「愛についてのコース」(※)だというわけです。

※「これは、あなたについてのコースであるがゆえに、愛についてのコース(a course on love)だからである」(T-13.IV.1:2)

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語があり得ない。

ここでは、前半は二元性の中での対比としての愛と恐怖、そして後半が、非二元的な「何か」についての言及になっています。

ちなみに、「包括者」というのはヤスパース哲学の用語ですが、ヤスパースははじめ、精神医学者として世に出て、「精神病理学原論」という本を書き、それは西洋的な精神医学の基礎をなしています。

その後ヤスパースは哲学に転じ、「哲学的信仰」と呼ばれる独自の哲学を打ち立てましたが、「包括者」というのは、その中に登場する用語です。

それは、主観と客観に分かれる以前の存在そのものを指す言葉で、その包括者が、例えば主観としての自分と客観としての世界とに分かれて、現象として現れているのであり、そして、存在の包括性をもたらしているところのものが「超越者」、つまり神、と捉えられているようです。

そして、ヘレンもまた心理学者として、おそらく、「精神病理学原論」は読んでいたのではないかと思われます。

こうしたことから、あえてヤスパース哲学の用語で訳しました。

また、「The all-encompassing」というのは、神学的に神を議論するときに、神の性質の一つとしての、「全てを包括する存在」という意味で用いられる表現であり、哲学的立場としては汎神論に該当します。

汎神論と言えば、スピノザの哲学が、一般的には汎神論として知られていますが、ただし、調べてみると、ヘーゲルがスピノザの哲学を評して「無宇宙論」と表現しているようです。

無宇宙論とは、コトバンクによると、こう説明されています。

「神にだけ実在性を認めて、宇宙および宇宙の諸事物の実在性を否定し、それらを神や自我の一時的、仮象的な現れとする哲学説。ウパニシャッド、禅、またスピノザなどの哲学の類。無世界説。」

「宇宙あるいは世界の実在性を認めず、それを神や自我の様態または仮象と見なす思想。エレア学派やスピノザ・バークリーなどに見られる。無世界論。」

なんか、まんまですね。

ウィキペディアの「汎神論」の説明も興味深いです。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

さて、これは奇跡講座の中でも、あまりにも有名な「三行」ですが、ここで注意したいことがあります。

最初の1行目は、例えば公認訳ですと、「実在するものは脅かされない」となっていますが、こうした言葉から、普通は次のようなニュアンスを感じ取っています。

つまり例えば、「では、私は絶えず周囲から脅威を感じているので、私は実在ではないんだな。なぜならば、実在するものは脅かされないはずなのに、現に脅かされていると感じているのだから」というような、無意識的な推測をしてしまっていることがよくあります。

これは実は、ニュアンスが正反対になります。

この言葉が言っていることは、「だからこそ、安心していいんだよ」、という意味なんです。

つまり、この三行を平易に言い換えると、こんな感じになるわけです。

「あなたはまさに実在そのものなんだから、そのあなたが脅かされるなんてことは、本来あり得ないんだよ。つまり、自分が絶えず脅かされているかのように感じているのは、本来の状態を忘れてしまい、存在しないものが実在しているかのように感じているからなわけ。で、実在しないものは存在しないからね。ないものはないの。今のあなたは、ないものをあることにしようとして必死になっているんだから、そりゃ苦しいよ。だから、そういう知覚の間違い、つまりそれが、愛の臨在に気が付くのを妨げているものなんだけど、それを丁寧に取り去っていこうね。そうすれば、いずれ必ず神の平安を味わうことができるからね」

というわけです。

もちろん、先に書いたような推測は、普段はほぼ無意識的に行われているため、自覚されることはまずありません。

しかし、それを自覚し、そして、ここに書かれている本来の意味に立ち返ってみると、まさにそれが、自我の言うことを真に受けたことによる結果だということが、なんとなくおわかりいただけるかもしれません。

つまり、自我の言うことを真に受けた結果、自分は自我の感覚を自分の感覚として感じるようになり、そのために、自分が自我であるかのように感じている、というような感じです。

で、例えばこのように、奇跡講座の文章は、何か「愛あるダメ出し」みたいなニュアンスではなく、実は、自分を限りなく励まし、勇気づけてくれる内容なわけです。

こうしたニュアンスの逆転がなぜ生じるかについては、意識とはそもそもそのようにして成り立っているものだから、という感じのようです。

少し補足しますと、例えば、自我はあるのかないのかということについても、以下のように整理することも可能かもしれません。

これはつまり、自我は本来はありませんが、現時点では、まさに自我が実在しているかのような状況を味わっている、という、2つの捉え方が両立しているのではないか、ということです。

このように、自我はあるのかないのかという議論もまた、依って立つ大前提が異なると正反対の結論が出る、ということで、とりあえず納得するしかないようです。

ですから、まさに自我が実在するとしか思えない現時点での状況に対して、いきなり「自我はない」という言葉を適用すると、それは現状否認になってしまうわけです。

そうではなく、「自我は本来は存在しない」という観点から、「まさに自我が実在しているとしか思えない」という現時点での状況を捉える、というような感じになります。

註1 : 臨在(presence)とは、キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

註2 : 「ネーティ・ネーティ」はインド哲学用語であり、「しからず」という意味。アートマン(本来の自我)の不可説であることを表現したウパニシャッドに出てくる言葉。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の4章5節で、ヤージニャバルキャ仙人は妻マイトレーイーとの対話で、不壊不滅のアートマンを説くが、一切を認識するアートマン自身は何によって認識されるかというと、それは否定的判断によって「しからず、しからず」としか説明できないという。

(出典 : コトバンク)