激怒の構造

激怒する人は、なぜ激怒するのかを考えてみましょう。

このイラストにおいて、右側に描かれている人が、激怒する人です。

ところが激怒する人の心の中では、この状況は、実はこのように知覚されているわけです。

おわかりでしょうか。

形の状況では、激怒する人は確かに激怒しています。

しかし実は、激怒する人の心の中では、むしろ、周囲の人が潜在的に自分を攻撃しているかのように感じられていて、そして本人はそのことで脅えきっています。

だからこそ、「正当防衛」として激怒するわけです。

ですから奇跡講座では、攻撃は「愛を求める呼び声」だと表現しているわけですね。

「あなたが恐れを守ろうとしなければ、聖霊は恐れを解釈し直してくれる。それが、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である」(T-12.I.8:9-10)

「愛こそが世界の実相であり、あなたがその愛を見たいと思うなら、愛に対抗する防衛の一つひとつの根底に、愛を求める懇請が潜んでいることを認識する以上に良い方法があるだろうか」(T-12.1.10:1)

たとえばこうしたことは、意識の構造面からも説明できるというわけです。

また、2つめの引用から分かることは、防衛や攻撃とは愛を求めているのだと認識する目的は、自分が、世界の実相である愛を見たいからだということです。

まあ、そんなもの、別に見たくもないというのであれば、奇跡講座はそもそもお呼びではありませんが(笑)。

ここに書かれていることは、「もしあなたが愛を見たいと思うなら、このように認識するといい」ということであり、「愛を見たいか見たくないかに関わらず、このように認識しなければいけない」と書かれているのではありません。

構造的に言うと、「もしあなたがこうしたいのであればこうするといい」と書かれています。

言い換えるとこれは、「もしあなたがこうしたいとは思っていないのであれば、必ずしもこうする必要はない」ということです。

つまり、別に愛など見たくもないと思うのであれば、必ずしもこのように認識する必要はありません。

こうしたことは論理的な話です。

ですが、こうした文からはどうしても、「このようにしなければならない」というニュアンスを潜在的に読み取ってしまいます。

例えばこうした、潜在的な読み取りに無自覚で、それに完全に振り回されていることもまた、奇跡講座の学習を困難にしている要因の一つではないかという気がしています。

さらに言うと、私のこうした話も、「言葉を文字通りに受け取らなければならない」ということではありません。

あえて言うならば、言葉を文字通りに受け取るということに自覚的になってみると、自分が実は言外のニュアンスをいろいろと感じていて、しかもそのことに無自覚だった、ということに気がついてくる、ということが、ここで私が言いたいことです。

そして、こうしたことが、例えばワプニック博士の解説だと、ワークブックを練習するときに、ワークブックに書かれていることに対する自分の抵抗に着目するといい、というようなアプローチの仕方と関連してくるのでしょう。

さらに言うと、「もしあなたが愛を見たいと思うのであれば」という表現にしても、すでにここに、「あなたは当然、愛を見たいと思っているはずだ」というニュアンスが感じられます。

言い換えると、「「実は愛など見たくもない」と内心で密かに思っているあなたは、なんて「いけない」存在なのか」というようなニュアンスもまた、さらに奥には潜んでいるわけです。

こうした暗黙のニュアンスは、すべて、内心の罪悪感が完全に抑圧され、否認されていることに端を発しています。

さらに言うと、ここでは、「愛を見たい自分でなければならない」ということでもありません。

むしろ逆に、「私は愛など見たくないし、知りたくもない」という自分をはっきりと自覚することの方が、実は、学習上は「近道」です。

例えば、私は愛など見たくもないし知りたくもない、という自覚を持って日常を暮らしてみると、「実は愛を見たいし知りたいと思っている自分」に、否応なく直面「させられてしまう」ので(笑)。

ですから、実のところ、自分は愛を見たいと思っているということなんですけどね。

ここには例外はないというわけです。

ですが、はじめから頭ごなしにそのように捉えてしまうと、「実は愛など見たくもない自分」は、ますます否認されていきます。

「愛など見たくもない」という感覚は罪悪感と「相性がいい」ので、こうした感覚を否認していると、例えば、「実は自分は愛を見たいと思っていた」ということに直面したときに、「自分はその「事実」に「屈服」しなければならない」、といった認識を生じます。

ですから、こういう認識もまた、実は「罪悪感のなせる技」なわけです。

つまり、自分の意志に関わらず、無理矢理に、強引に仕向けられている、強いられているという感覚から立ち上がる認識です。

こうしたことは、実は実際には全く起きていませんが、ただ自分の中では、自分はまさに、相手や周囲からいろいろと強いられているという暗黙の感覚を強く持っています。

問題は、現実の人間関係では、自分も相手も、ある感情的な意図を持って言葉を使っているのが普通である、ということです。

自分が自分のありように、常に一定の「裏の意図」を含み持たせているために、相手の振る舞いにも「何か裏があるに違いない」と感じるわけです。

そうした状況の中では、他者とのコミュニケーションはそもそも成立しません。

そして、これが人間においては割と普通の状況です。

だからこそ奇跡講座では、私たちが普段、コミュニケーションだと思っているものは、実は全くコミュニケーションではないと述べています(cf. T-14.VI.6、15.IX.2)。

さて、初めのイラストに戻りますと、人はこのように、外見と内心とが真逆だというぐらいのギャップを抱えているのが通例です。

そのギャップが、実は、物理学的に言うと一種の「位置エネルギー」を生じさせるために、人はそれこそが「生きる意欲」だと感じます。

それは言い換えると、自分の中に常にある、ある種の「落差」が「原動力」になっている、ということです。

そしてそれは例えばこの場合ですと、この人が激怒するのもまた、「落差」を「埋め合わせよう」とする「位置エネルギー」の作用による、ということができます。

あるいは場合によってはそれは、外界や他者に働きかける力となる場合もあるでしょう。

ですから、癒やしがある程度進んでくると、以前のように生き生きとした感じがなくなってくるのは、自分の中のギャップが「低く」なってくるために、いわば、この「位置エネルギー」があまり生じなくなってくるから、というのもあるのでしょう。

そして、この「落差」がほぼなくなると、自分はまるで死んでしまったかのような感じにすらなってきます。

ですが実は、ここからが本当の始まりです。

これまでの「落差」は、いわば、この世界的な意味での落差、言い換えると「水平的な落差」だったのですが、その方向性が水平から垂直へと転換する(cf. T-1.II.6:3)ことにより、これは、神と自分との「落差」、あるいは、神の子である自分とこの世界の個人としての自分との「落差」、つまり「存在論的落差」というように転換します。

そうすることにより、自分は、神からもたらされる「位置エネルギー」の無限の供給を受けるようになります。

ただし、ここで言う「垂直的な落差」というのは、この世界での、高いところから低いところということではありません。

これは、いわば「意識の位置」のようなことです。

ですが、そのように知覚が転換すると、自分の見ている世界にもそれが反映される、つまりこれは奇跡講座で言うと「延長」ですが、そのことにより、すべての物事や対人関係の中に、潜在化した神と自分との関係を見いだすようになります。

そうすると、先の激怒している人は、実は、「神とは激怒している存在である」という先入観を無意識に持っていて、そしてそれを他の人の内心として投影して、そしてそれに対して脅えきっていて、そしてそれに対する「正当防衛」として激怒していた、というメカニズムが浮かび上がってきます。

そうすると、自分は「位置エネルギー」の「されるがまま」になり続けるのか、そうではない選択をするのか、という、「選択の自由」の余地が自分の中に生じます。

つまりここで、激怒する人は自ら物理的法則を逆転させる可能性を自分の中に見いだすことができます。

これが、「この交換(奇跡)は物理的法則を逆転させる」(T-1.I.9:2)の一つの現れとなります。

ただしこの段階ではまだ、これは心理的側面に限られていますが、例えばイエスが行ったような、水をワインに変えるといった奇跡もまた同様の仕組みが働いているのでしょう。

しかも、この段階ではまだ、物理的法則のもたらしている、ある種の強力な力にあえて逆らうという選択をしているように感じるため、こうした選択をすると、さしあたってはとてつもない抵抗感などが自分の中に生じます。

仏教では、「暴流(ぼる・ぼうる)」という言葉があり、これは、修行者が感じる、ある意味で暴力的なほどの意識の流れにあえて逆らうような感覚のことですが、おそらくはそうしたことを指しているのではないかと思われます。

ですが、テキストではこう書かれています。

「神の計画を、自分が成就したい唯一の機能として受け入れたなら、あなたが努力せずとも聖霊が他のすべてを手配するだろう。聖霊があなたの前を進み、躓きの石やあなたの行く手を阻む障害を一つ残らず取り除き、あなたの道を整えるだろう。あなたは、何一つ必要なものを拒否されない。困難と見えるものもすべて、あなたがそこに至るまでの間に溶け去っているだろう」(T-20.IV.8:4-7)

だからこそ、奇跡講座は、いわば「現代版易行道(いぎょうどう)」だということができます。

ただしそれは、道の容易さ(たやすさ)を全力で拒むことを、少しずつでもやめる気になるかどうかによります。

で、私もまだかなり、道とは困難なものだという信念に凝り固まっていますけどね(笑)。

いちお、テキストではこう書かれているということです。

最後はなんだか奇跡講座の宣伝になってしまいましたが、ですから、ま、易行道を行くと偉業をなす、ということですね。

で、意外かもしれませんが、実はイエスもこう言っているわけです。

「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書、11.29-30)

ここで「軛」と訳されているのは、英語では「yoke」ですが、これはおそらくは、「ヨーガ」のことです。

「yoga」もまた、「軛を付ける」というところから来ていますし、「yoga」と「yoke」はおそらく、同じインド・ヨーロッパ語族として、語源的につながりがあるものと思われます。

ヨーガとは簡単に言うと、心に一定のルールを施すことによって、神とのつながりを保持することなわけです。

ただし、外部からの「お仕着せ」ではなく、自発的に選択することが必要ですが。

「荷」というのは、言ってみれば、「心の重荷」のことでしょう。

つまり、このときイエスは、心がとても軽やかだったのでしょうね。

ですから、「私の軛は負いやすい」というのは、「私のしているヨーガはたやすい」ということだったのかもしれません。

言い換えると、イエスもまた実は、当時の文脈による易行道を行っていた、のかもしれませんね。

というわけで、「お開き」といたします。