テキストの難解さについて

例えば、ガールズトークについて全く知らない人に対して、ガールズトークの楽しさの霊的な側面に関して、できるかぎり誤解の余地がないような言葉を選んで説明しようとしたとしますと、人同士のやりとりに対するイエス的な「うぶ」さを加味すれば、例えばこのようになります。

自分と兄弟とが、互いに利害を共有しているという前提の元に心を開き、思うことにできる限り検閲を差し挟まずにただ話すとき、普段は心の中に隠し持たれていた刃が、もはや不要になったという安堵とともに脇に置かれ、そこには「秘密の花園」が開花して、一つであることを思い出した彼らの心は、キリストへの招待状である。

「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書、18.18-20)

とかなんとかです。

ま、実際のガールズトークが肉眼にはどのように映っているかは別として、心眼(ヴィジョン)だとこのように見えるのかもですね(笑)。

ただし、「二人または三人が私の名によって」云々でイエスが言いたいことは、要するに、日本語で言う「三人寄れば文殊の知恵」ということですけどね。

テキストの言葉の難解さは、例えばこのようなものではないか、というお話でした。