闇から脱出するためには二つの段階を要する。その第一は、闇は隠すことができない、と認めることである。
こう踏み出すと、通常、恐れが出てくる。
第二は、たとえ隠すことができたとしても、隠した方がいいものは何もない、と認めることである。
こう踏み出すことで、恐れからの脱出がもたらされる。
何も隠さずにいようという気になったとき、あなたは聖餐(せいさん)にあずかる(コミュニオンに参入する)ことにやぶさかではなくなるだけではなく、平安とか喜びとはどういうことなのかがわかってくるだろう。
T-1.IV.1(ふう訳)
「闇は隠すことができない」と訳されている元の英語は、「darkness cannot hide」ですが、これは、田中訳でも大内訳でも、「暗闇は隠すことはできない」と訳されています。
ところが公認訳では、ここは「闇による隠蔽は不可能だ」と訳されています。
私は翻訳自体がない頃に奇跡講座の原書を入手したので、この辺りは自分で訳読したためにはっきり覚えていたので、公認訳の翻訳に衝撃を受けました。
どういうことか。
文法的には、これは、「hide」を自動詞と受け取るか他動詞と受け取るかの判別が困難です。
つまり、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「隠れる」という意味なので、「darkness hide」は「闇が隠れる」とか「闇が隠れている」といった感じになります。
しかし、「hide」を他動詞として受け取ると、これは、「隠す」という意味になり、ここは、「闇が何かを隠す」ということになります。
ところが、日本語で「闇は隠すことはできない」としてしまうと、これ、「あなたが闇を隠すことはできない」という意味も含んでしまうんですよね。
つまり、「闇は隠れることができない」というニュアンスです。
そのために公認訳では、誤解の余地のないように、あえて堅く訳したのだろうと感じました。
ここまでは文法としての理解ですが、これは単なる文法的な話ではありません。
「hide」を自動詞として受け取る、つまり、「闇は隠れることができない」、あるいは、「あなたが闇を隠すことはできない」というようなニュアンスは、「割と普通」なんです。
例えば、相手の「問題」を「暴く」とか、「あなたはもっと自分の闇をさらけ出すべきだ」といったようなことも、まさに、「あなたが自分の闇を隠すことはできない」、言い換えると、「闇は隠れることができない」という路線に沿っていますから。
要するに、「あなたがいくら自分の闇を隠して、自分には闇などございませんというふりをしても、あなたの闇はバレバレなんだよ」という意味なんですね。
ところが、「闇による隠蔽は不可能」というのは、これとは真逆になります。
くだけた言い方をするならば、これは、「あなたがいくら、自分の本質は闇だと言い張っても、あなたが本当は光だということはバレバレなんだよ、それをいくら闇で隠しても無駄だし」みたいな意味になるわけです。
こういう「衝撃」を裏付けるものとして、テキストから3箇所引用します。
聖性が真に闇の中に隠されることはあり得ないが、あなたはそれがあり得ることだと自分を欺くことはできる。あなたは自分の胸(こころ)の中でこの欺瞞があなたを怯えさせる。そしてあなたは、その欺瞞を実相に仕立て上げようとして莫大な努力を傾ける。
T-1.IV.2:1-2
自我が提供し得る体験からはあまりにかけ離れた種類の体験というものがあり、ひとたびそれを経験するなら、あなたは二度と再びそれを覆い隠したいとは思わなくなる。闇と隠蔽へのあなたの信念こそが、光が入ってこられない理由だということを、ここで繰り返す必要がある。
T-4.III.5:1-2
あなたは神の意志を恐れているが、その理由は、それが自分の意志ではないと信じているからである。……これを信じて、あなたは闇の中に隠れ、光が自分の中にあることを否定する。
T-11.I.10:3;10:6
というように、「Darkness cannot hide」を、「闇による隠蔽は不可能だ」、つまり、「闇が何かを隠すことは不可能だ」と受け取ることにより、他の箇所との整合性がとれます。
もちろん、「闇は隠すことはできない」もこういう意味なんですが、先に書いたように、これだけだと微妙になってしまうわけです。
ここで闇が隠しているものが、光や聖性だということになります。
ここまではよかったんですが、この記事を書くに当たって改めて調べてみましたが、他動詞の場合に、目的語が省略されるケースは、もちろん日常的な使い方としてはあるんですが、通常は目的語が省略されることはない、という「壁」にぶち当たりました。
つまり、「darkness cannot hide」だけだと、「hide」が他動詞であるかどうかはわからないというわけです。
で、日常的な場合に、目的語が文脈から明らかな場合には省略されることがあるようですが、ちゃんとした文章の場合には、まず省略されないのではという気がしました。
というのは、省略されると文意が曖昧になるからです。
しかし、もう一つややこしいのは、テキストの場合には、闇が隠すものと言えば光だろうというぐらい、目的語が省略されていたとしても明らかなので、やっぱりどちらにも受け取れるということです。
さらに、もう一つは、これは自分の心の中で、自分本来の光を隠しているというだけではありません。
『天国から離れて』、p.546によると、元々、この言葉は、ヘレンさんが「一生を通じて、イエスの光に背を向け、自分の自我の不安と価値判断や裁きという闇を隠れ処にし続けることで、イエスから逃げようとしていた」ことに対する言及だったようです。
つまり、他の人の光を自分の目から覆い隠すものとしての闇、についての言及だったようです。
で、「何も隠さずにいようという気になる」(公認訳では「何も隠さなくてもよいと思うようになる」)というのは、必ずしも他の人に対してではなく、自分自身に対してです。
つまりこれが、以下のことに関わってきます。
あなたが聖霊の前に闇を顕わにすれば、聖霊は闇に光をもたらす。しかし、聖霊には、あなたが隠すものを見ることはできない。
T-14.VII.6:4-5
だからこそ、「何も隠さずにいようという気になる」ことで、聖餐にあずかる(コミュニオンに参入する)ことができるようになるというわけです。
で、では、闇を隠さないことなのか、光を隠さないことなのかということなんですが、今のところの私の探求では、これは、自分自身に対しては、自分の中の闇を隠さないこととなり、世界や他人などに対しては、それらに闇をかぶせて捉えないこと、つまり闇で光を隠さないこと、という感じのようです。
ですから、この箇所の受け取り方としては、どちらもありなんですね。
なのでこれは、どちらの意味も含まれている「闇は隠すことができない」という表現でオーケーだ、と感じることができました。
で、第一のステップとして、「闇は隠すことができない」と認めることが恐怖を伴うというのは、これは、新しく恐怖を作り出しているのではありません。
この恐怖は闇の原因となり、闇をもたらしているものであり、「闇は隠すことができない」と認めることで、抑圧が少し解除されるために、怖くなってくるわけです。
ただし直接的には、おそらくですが、この闇は「罪悪感の暗雲」と何か関係があるのかもしれません。
ただし、この恐怖にもまた段階があり、例えば、闇自体が恐怖によるものだということと、もう一つは、自分が実は何をしているか、つまり、闇によって光を覆い隠そうとしていた、ということの自覚は、とても「恐ろしい」ものです。
その両方の意味で、ここでは、そこはかとなく恐怖がじわじわと感じられてきたり、場合によってはパニック的になったりします。
なので、奇跡講座の実践は、慎重に慎重を重ねてちょうどいい、というぐらいのこともあります。
実際、それぐらい、人が心の中に抑圧否認してきた闇は、人によっては、質・量ともに、とんでもないものになっている場合があります。
こうしたことは個人差がとても大きいので、一般論めいたことは言えません。
さて、第二段階あるいは第2ステップは、「隠すことは百害あって一利なし」ということを踏まえる、ということです。
ここで、原文では「you want」が入っていますが、実は、このフレーズは、「あなたは~したい」という文字通りの意味ではなく用いられることが多いようです。
詳しいことは、こうしたことに関して解説しているサイトに譲りますが、それを踏まえて私は、最初のように訳してみました。
ですが、何もかもをさらけ出さなければならない、ということではありません。
しかし、いずれはそうした状況になるのかもしれませんが、それは今のところの私にはわかりません。
ですが覚醒していくということは、いずれ、自分の内にも外にも全く隔たりがない状態になるのだろうという気はしています。
「聖餐にあずかる」とは、一つにはそういうことなのではないかという気がしています。
それから、「聖餐」と訳されている元の英語は「communion」ですが、wikiによると、これは、日本語訳聖書では二通りに訳されているそうです。
すなわち、「聖餐」や「聖体拝領」として訳されている場合と、「交わり」として訳されている場合とです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3
で、日本聖書協会のサイトから、聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳に関して、「聖餐」で検索をかけたところ、ヒットしませんでした。
つまり、「聖餐」という言葉は、少なくとも上の3つの翻訳の中では用いられていない、ということなのでしょう。
「聖餐」という言葉は、おそらく神学用語で、聖書読解や解釈の時に用いられる、のかもしれません。
キング・ジェームス版聖書には、「communion」という言葉は3回登場していて、そのどれもが、聖書協会共同訳では「交わり」と訳されています。
以下は、聖書協会共同訳から、当該箇所です。
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。
コリントの信徒への手紙1 10.16
あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。
コリントの信徒への手紙2 6:14
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
コリントの信徒への手紙2 13:14 (聖書協会共同訳では、13:13)
この3箇所です。
ちなみに、公認訳のこの箇所で「聖餐」と訳されている「communion」は、田中訳では「霊的交わり」、大内訳では「「神」と心を通わせる」と訳されています。
ですから、これらの異なる表現は、元はすべて同じ「communion」です。
さらに言うと、スピ系でも「コミュニオン」という表現は使われていて、例えば、バーバラ・ブレナンの本のどこかにも登場しています。
で、バーバラ・ブレナンはもちろん、これをこの世界の中で起きていることとして描写していますが、これは、ブレナンは、当人同士にコミュニオンが起きている状況を、それら全体を観察している「第三者」の立場から、言い換えるとその状況を「外部」から見ているためであり、当人同士にとっては、そのコミュニオンは心のレベルで起きていることとして体験されているわけです。
さて、コミュニオンが起きているときの様子を、別の箇所から引用します。
二人の兄弟がつながり合うということが、真に何を意味しているか、考えてみなさい。そしてそれから、世界を忘れ、世界の小さな勝利や死の夢のすべてを忘れてしまいなさい。同じ者たちはひとつのものである。だから今では、罪悪の世界について何も思い出すことはできない。部屋は神殿となり、街路は、病んだ夢のすべてを軽くなぞりながら通り過ぎていく星々の流れとなる。
P-2.VII.8:1-4
ですから、奇跡講座で言う「世界」とは、「私たちが世界だと思っているもの」のことであり、目の前に具体的に展開している現実のことではありません。
しかし、目の前に具体的に展開している現実(実相)に、今のところは、罪悪というフィルターがかぶせられています。
これが、テキストのこの箇所では「闇」と表現されています。
私たちの目からその闇が取り払われたとき、「部屋は神殿となり、街路は、……星々の流れとなる」わけです。
このように、「ベールを取り去る」(T-19.IV.D.i.h)ということが、奇跡講座全体を通していろいろな形で現れている変化のことであり、「闇からの脱出」もまた、「ベールを取り去る」ことのバリエーションの一つだと捉えることができます。
「闇から脱出する」のと「ベールを取り去る」のとでは、ずいぶんニュアンスが違って感じられますが、これは、イエスさんは、その時その時のヘレンさんに最も伝わる表現を選んでいるからなのだと思います。
構造的に表現すると、本人が体験する同じプロセスに関して、前者は他者側から、後者は自己側から、それぞれ表現したものだということができます。
これだけでは何のことやらなので、もう少し平たく言うと、自分がすべてのものにベールをかぶせて捉えている状況を「他人の立場」から捉えると、本人の周囲が闇に覆われていたり、本人に何か心の闇があるように感じる、という感じです。
ただし、自分の心の闇は通常、むしろ相手の心の闇や「自我」として感じるので、こうしたことは多層的な構造になっています。
では、今回はこの辺で。
ではでは~。
あと、追記しておきますが、自分の中に闇があると認識している自分は闇ではありませんよ、念のため。