創世記第1,2章を素直に読むと

創世記、第1,2章を読んでみます。

(引用は、特に断りがなければ聖書協会共同訳です。

また、GNB は Good News Bible 、KJV は King James Version です)

まず、神が6日間かかって天地を創造したことが書かれています。

そして、7日目に休みました。

ここまでは割と知られているかと思います。

問題は、創世記2.4からです。

まず、2.4の前半である「これが天と地が創造された次第である」というところは、それまでの天地創造の話の末尾です。

そして、2.4の後半からは、このように書かれています。

では、2.4から2.7までを詳細に見ていきましょう。

「神である主が地と天を造られたとき、(5)地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。(6)しかし、水が地下から湧き上がり、土の面(おもて)をすべて潤した。(7)神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」

ここで、土の塵から形づくられたのが、アダムです。

新共同訳では、2.7は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」となっています。

で、今、引用していてややこしいことに気がつきましたが、聖書協会共同訳では、この箇所では「神である主」と訳されているところが、新共同訳では、「主なる神」と訳されているんですね。

GNBでもKJVでも、ここは「LORD GOD」であり、どちらにも受け取ることができそうな印象です。

さて、問題はここからです。

創世記2.4の前半までで、天地創造の話は一段落したはずです。

ですが、2.4の後半では、「神である主」が、「地と天」を「造られた」と書かれています。

旧約聖書の時代の言葉は、単語の選択や語順にも意味があったと思われます。

「創造する」は「create」の訳語ですが、「造る」は、「make」です。

奇跡講座学習者なら、これは「はっ?!」と思うでしょう。

ワプニック博士は、「創造する(create)」と「作出する(make)」との区別について解説しているからです。

1.1では、「初めに神は天と地を創造された」と書かれています。

2.4の後半では、「神である主が地と天を造られたとき」と書かれています。

おわかりですか?

さらに、日本語訳だとわかりませんが、英語だと、1.1の方の「天と地」は「the heaven and the earth」なんですが、2.4の後半の「地と天」は、「the earth and the heavens」です。

つまり、後者の「天」は複数形です。

ここまでを整理します。

神が創造したのは天(単数)と地ですが、神である主が造ったのは、地と天(複数)である、ということが、創世記の冒頭に書かれていることです。

さて、語順にも意味があるとしますと、ここで、「天(単数)と地」と、「地と天(複数)」というように、順番が逆に書かれていることからは、前者の天地と後者の天地(あるいは「地天」というべきかもですが)とは、互いに、天と地の関係が逆になっている、ということがうかがえます。

さて、先に引用した、2.4-2.7の箇所を、もう少し詳細に見てみましょう。

2.5では、こう書かれています。

「地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。」

で、1.1-2.4の前半を振り返りますと、そこでは、神が動植物のすべてを創造し、また、「神は見て良しとされた」という言葉が何カ所か書かれているところからすると、それらは実際に創造されていると思われます。

というか、一般的には、これが天地創造の物語だとされています。

では、「まだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった」のは、どこなんでしょう?

すでに、動植物も家畜も創造されているはずですが?

さらに言えば、1.1-2.4の前半でも、「創造する」と「造る」とが混在しています。

この区別にもすべて意味があるとしたら、どうなるのでしょうか。

ここまででもすでに「おなかいっぱい」かもですが、まだまだ続きます。

2.7では、こう書かれています。

「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」

ここでは、「形づくる」という言葉が登場し、英語では「form」です。

で、これが、アダムが作られた話です。

では、1.26-27を引用します。

「神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された」

さて、何かおかしいことに気がつきますか。

先の、アダムが作られた話(2.7)は、この、神が男と女を創造した話(1.27)よりも後に登場します。

そして、イブが作られた話は、もっと後の、2.21-23に登場します。

では、アダムよりも前に、男と女が創造されたということなのでしょうか。

では、この男と女は、どうなっちゃったんでしょうか。

創世記には、この男と女に関しては、その後は記述がないようです。

また、アダムと、この男と女には、何か関係があるのでしょうか?

それとも、特に何も関係はないのでしょうか。

聖書の記述からわかることは、アダムが作られ、次にイブが作られたのは、神である主が造った天地においてですが、男と女が創造されたのは、神が創造した天地においてである、ということです。

さて、神である主が造った方の地と天では、「まだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった」(2.5)わけですが、それは、「神である主が地上に雨を降らせず、地を耕す人もいなかったからである」(同)と書かれています。

ところが次に、「しかし、水が地下から湧き上がり、土の面(おもて)をすべて潤した」(2.6)と書かれています。

ということは、ここでは、地面が潤ったのは、雨ではなく地下から湧き上がった水によってである、ということがわかります。

気候としては、これは何か砂漠を思わせる記述です。

それから、神が天地を創造した話の中では、雨に関する記述はないようです。

ですがこれは、雨は降らせなかったのか、雨は降らせたけど記述されていないのか、はわかりません。

天地創造の話の方では、「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ」(1.6)と神は言い、そして、「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった」(1.7)ということからは、水は大空によって、大空の下の水と大空の上の水とに分けられた、ということがわかります。

さらに、「神は大空を天と呼ばれた」(1.8)と書かれているので、この時点までは、天はまだ存在していなかったことになります。

確かに、1.2では、地と闇と水は登場しますが、光が登場するのはその次の、1.3です。

さて、「地は混沌として」(1.2)と訳されている箇所ですが、ここはKJVでは、「And the earth was without form,and void;」となっていて、GNBでは、「the earth was formless and desolate.」となっています。

つまり、混沌としていたというのは、「形を持たなかった」ということです。

また、「void」あるいは「desolate」に相当する訳語は、どうやら見当たらないようです。

で、話がそれましたが、先のところで、「大空の上の水」と書かれているものが、もしかすると雲や雨などにあたるのかもしれませんが、そうとはっきり書かれている記述はありませんでした。

いずれにせよここでは、水は大空(天)の下と上とに分かれて存在していることになります。

さて、水を分けることに関してここで用いられている表現は、英語では、「divide A from B」という形です。

日本語ではこれは、「AとBを分ける」と訳されますが、文字通りに厳密に受け取ると、これは「BからAを分ける」という感じになります。

で、「水と水を分けるようになれ」(1.6)というところは、KJVでは「let it divide the waters from the waters」となっていますが、「大空の下の水と、大空の上の水とを
分けられた」(1.7)は、「divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament」です。

つまり、「大空の上の水から、大空の下の水を分けた」という表現になっています。

なお、ここで water が複数形になっていますが、 water が複数形になるのは、海、湖、河などの大きな水域を指している場合や、ペットボトル入りの水などを指す場合のようです。

言い換えると、あるまとまりを持つものとして捉えられる水のことなのでしょう。

なので、ここで water が複数形なのは、あるまとまりや領域として捉えているのでしょう。

そして、「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ」(1.9)ということで、「乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼」ぶ(1.10)ことになり、こうして、地と海が生じたわけです。

さらに、太陽と月、星々は、この次の日に造られたとされています。

フラットアース説を推すわけではありませんが、こうした記述は、フラットアース理論ととても相性がいいのを感じます。

そして、核心中の核心です。

1.26で神はこう言っています。

「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」

翻訳でもちゃんと反映されていますね。

はい、神はここでは複数形なんです。

これは他に、創世記3.22でも、「神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」」と書かれているように、ここでも、神、ないしは神である主は複数形です。

ですから、創世記に登場する神は一神教の神ではない、ということになるのかもしれません。

あるいは、そうした複数の神のうち、いずれか一つが突出して信仰されるようになったのかもしれませんし、あるいは、そうした神の属性をひとまとめにして、一神教の神として形作られたのかもしれません。

いずれにしても、創世記第4章の、カインとアベルの話から後は、神は唯一神のように描かれ、また、「神」と「主」とはあまり区別されなくなったようです。

それから、1.27で神が創造した人は、「男と女」と訳されていますが、これは元の英語では、「male and female」です。

そして、2.22-23にイブがアダムのあばら骨から造り上げた話がありますが、ここでの「女」は、英語では「woman」であり、これは、「男(man)から取られたから」(2.23)と書かれています。

ということで、男女のありようには、male and female として創造されたというものと、アダムのあばら骨からイブが造り上げられたというものと、2種類があることになります。

さらに、イブが造り上げられた話の直前に、「神である主は人を深い眠りに落とされた」(2.21)と書かれていますが、ここで、奇跡講座のテキストは意味深なことを言っています。

夢の中に見えているものは非常に実在性があるように思える。しかし聖書は、アダムの上に深い眠りが訪れたと言っており、彼が目覚めたことに関してはどこにも言及がない。この世界はまだ、いかなる包括的目覚めも再生も経験してはいない。このような再生は、あなたが投影すなわち誤った創造を続けている限り不可能である。

T-2.I.3:5-8

アダムは、深い眠りが訪れた後にはじめて悪夢を経験するようになった。誰かが恐ろしい夢を見ているときに突然明かりをつけられたなら、その人は最初はその光自体を自分の夢の一部と解釈して、それを恐れるかもしれない。しかし、彼が目覚めれば、その光は夢からの解放であると正しく知覚され、もはやその夢に実在性が付与されることはなくなる。この解放は幻想に依存するものではない。

T-2.I.4:5-8

ということは、この世界とは「アダムの悪夢」である、と言うことも不可能ではありません。

ですから、目覚めるとは、「アダムの悪夢」から目覚めることだ、と言うことも可能なのかもしれません。

では、テキストで他に、「アダム」が登場する箇所を引用します。

この種の誤りが、神がアダムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関連する多数の誤りの原因となっている。

T-3.I.3:9

ここで、「この種の誤り」とは何かが気になるかと思いますが、気になった方は直接テキストに当たられてみて下さい(笑)。

というのは意地悪なので、こうしたことに関しては記事にしますね。

結論だけを簡単に言うと、神がアダムを追放したという「事実」は存在しなかった、ということです。

それはアダムの、自分は神を裏切った、神に背いたという罪悪感、そしてそこから派生して、自分は必ず神から罰せられるという恐怖のために、知覚がゆがんだ結果としてもたらされた幻想だったというわけです。

さて、もう一カ所あります。

アダムが自分を楽園から追放したのは父だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰に影響することもなかっただろう。

T-13.in.3:6

ですから、自分の罪悪感を解消していくことは、同時にアダムの罪悪感を解消していることでもあり、そのことによって、自分だけではなく世界の目覚めもまた、加速することになります。

ですから、自分の癒やしに取り組むことは、ただ自分だけにとどまらず、究極的には万物の目覚めへと連なっています。

逆に言うと、世界を救いたければ自分の癒やしに取り組むことこそが必要であり、そして、ただそれだけでよかったのだということが、いずれわかってきます。

これは例えば、ワークブックのレッスン132、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」ということに連なっています。

ここで、「これまで「世界」だと思ってきたもの」というものが、悪夢であり幻想の世界のことです。

言い換えると、これが「ベール」と呼ばれているものです。

また、自分がすべてにベールをかぶせて知覚している状態は「闇」と表現されています。

例えば、ヨーロッパだったと思いますが、未亡人が一定期間、顔の周りに薄いベールをかけて顔を覆う習慣がありますが、自分はちょうどあのように、本当の自分自身、ひいては神、を喪失したという喪失感のただ中を、いわば「喪中」の状態で生きている、というわけです。

ですから、自分はこの喪失感を、他人や世界に投影して捉えている、ということです。

というのは、自分の周りにベールをかけている人からは、すべてはそのベールを通してしか見えませんから、ベールと実在との区別が付かないと、そのベールはむしろ、他人や世界の上に覆い被さっているとしか思えないわけです。

このことを、「人はみな色眼鏡をかけて世界を見ている」という言い方もしますが、他の人のことをそのように捉えている人もまた色眼鏡をかけている、というところがややこしいわけです。

このような事情に対してイエスは、こう言っています。

「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる」

マタイによる福音書、7.3-5

ただし、この「梁」は、ドゥルーズが「襞」と呼ぶように、多層的・重層的に折り重なっているので、それを取り除くのは一筋縄ではいきません。

奇跡講座ではさらに一歩進んで、「きょうだいの目の中におが屑がある」という知覚自体が、「自分の目にある梁」によって知覚がゆがめられた結果なのであり、自分の目にある梁が、あたかもきょうだいの目におが屑として存在しているかのような知覚を作り出している、というように捉えています。

言い換えると、自分の自我は自分には感じられず、むしろ他人の中に感じられるということです。

(cf. 兄弟の自我の誤りを指摘するなら、あなたは自分の自我を通して見ているに違いない。(T-9.III.3:1))

これは、自分は梁を通してすべてを見ているために、梁自体は決して梁として知覚されることはなく、むしろ、他人の内心や世界の「背後」に、潜在的にその「梁」が隠れているかのように知覚されている、ということです。

言い換えると、自分にとっての梁は、自分の側ではなく他人や世界などの側に属しているかのように見える、ということです。

そして、究極的には、この「梁」こそが、自分がアダムから受け継いでいる「悪夢」だというわけです。

ただし問題は、自己他者関係においては、これは相互交通的というか双方向的な投影なので、それもまたややこしさを倍加させていた、というわけです。

この自己他者関係に端的に集約されている「もつれ」「ねじれ」とでもいうべき構造をほどくことが、すべての肝心要のことになっています。

ですが、それはまず、神と自分との関係が回復する、あるいは「回復途上」にあることが先なので、奇跡講座の実践はまず、「聖なる瞬間」を練習することからになっています。

聖なる瞬間とは今この瞬間であり、あらゆる瞬間でもある。あなたが聖なる瞬間であってほしいと思うその瞬間が、聖なる瞬間である。

T-15.IV.1:3-4

ただし、「聖なる瞬間」という表現に近い日本語があり、それは、「我に返る」ということです。

これは、神とのつながりが回復した様子を、日本語では「我に返る」と表現しているからですが、ここで「我」という言葉に引きずられて、「これは自我と同一化することではないか」とか、

あ、これは私もかなりそう感じるからですが。

なので、こうしたことに関しても、少しずつ書いていく予定です。

これはもう、書くことによって自分を整理するようなものですから。

長くなりすぎたので、この辺で。

ではでは~