奇跡講座には、知覚の移行に関して極めて具体的に書かれている箇所がいくつもあり、例えば、以下の記事でも言及したように、T-19.IV.D.i 「ベールを取り去る」という箇所が典型的です。
ここでは、兄弟に対する知覚が、異邦人から(第12段落)、贖罪の聖杯を差し出している者(第13段落)、キリスト(第14段落)へと移行します。
そして、キリストである兄弟は、「罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っている」(T-19.IV.D.15:1)んですが、そこから、両者の中に見ている罪をすべて赦し(15:10)ます。
そうすると、聖なる復活の場所がそこにあり(16:1)、第16段落の後半は、十字架刑という夢が赦される様子についての描写になっています。
そして、17段落では、兄弟と一緒に自由になりなさいと、そして、第18段落では、兄弟と一緒に自由になるためには、自ら率先して兄弟を自由にすること、が説かれています。
これが、兄弟の姿からベールを取り去る、ということに関しての一連の流れになっています。
ただしこれは、意識が罪ベースの状態の段階では、とてつもない無理難題を言いつけられているようにしか感じられません。
それは、実相世界への橋を渡るまでは、救済を与える者は罪悪感を与える者としてしか知覚できない(cf. T-19.IV.D.20:2)からです。
ここで引き合いに出した箇所を正確に引用すると、「彼が罪悪感を与える者と見なされるか、救済を与える者と見なされるかによって、彼の差し出すものもそれに応じたものとして見られ、受け取られる」となっています。
しかしこれは、単なる知的な解釈ではないのはもちろん、あえて好意的に受け取るといったことでもありません。
相手の姿をどのように知覚するのかは、もっと深い無意識のところで、その質が決定されています。
自分が知覚している相手の姿は、その、無意識の決定によってニュアンスの質が決まってしまった「後の祭り」を知覚しているわけですから、その中でいくら解釈を変えようとしても、どだい無理な話なわけです。
こうしたことは、例えば、「『奇跡講座』まえがき」の「教義」の中では、「私たちの見ている世界は、自らの内なる判断基準を映し出しているにすぎない」で始まる段落でも、そのメカニズムに関して詳細に描写されています。
こうしたことが、実際にどれほど知覚をゆがめているかに関しては、例えば、T-25.VIII.6-7 辺りがとてもわかりやすいです。
「正義に対する彼ら自身の信念」(T-25.VIII.6:2)とは、例えば、罪は必ずそれに見合う罰を与えられるとか、神は自分の「お眼鏡」にかなう人だけを「よし」として、その他の人には「神の怒り」を下す、といった信念のことでしょう。
そうした信念があると、聖霊の中には「神の「怒り」」が知覚されたりするようです(同 6:3)。
そして、ここがわかりやすいですが、「そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする」(同 7:2)というのが、先の、「彼が罪悪感を与える者と見なされるか、救済を与える者と見なされるかによって、彼の差し出すものもそれに応じたものとして見られ、受け取られる」(T-19.IV.D.20:2)と、見事に対応していることが分かります。
つまり、知覚は実際にこれぐらい変わるということです。
個人的には、例えばこうしたことが、奇跡講座以外の教えにはこれほどはっきりと書かれていなかったと感じることの一つです。
ここで断言的に表現しなかった理由は、こうした体験を経て、実際に知覚が移行すると、このことに関して言及していた教えや話は、実は到る処にあったということもまた、同時に分かってくるので、実はこれですらも、別に奇跡講座の「専売特許」というわけではなかった、ということもまた、分かるからです。
例えば、アーサー王の物語の中の、「ガウェインの結婚」という物語。
これは、私はそれまで知らず、たまたまネットで見つけたものですが、これもまた、ベールを取り去った実例の一つです。
http://timeway.vivian.jp/kougi-1.html
もちろん、これは「完全に一致」というわけではないんでしょうけど。
ですから、これはもう、地獄の業火で延々と焼かれているとしか感じられなかったものが、知覚が変容したら、自分は実はずっと、天国のお花畑で寝そべっていたと分かった、というぐらいの変容なので。
「地獄の業火」とは、実はなんと、自分から吹き出ていた「聖霊の愛の炎」だったというわけです。
ただし、自我の実在性を信じている間は、それは実際に、ブッダの言う「すべては燃えている」的な状態にとどまってはいますが。
ま、ですから、「賽の河原」というのも、実のところは、クライエントが、自分は「罪人」であるという「証拠」を必死で延々と積み上げているものを、セラピストが笑いながら、「そんなの不要ですから」と、あっさりはねのける様子が、あたかも、それまでの自分が積み重ねてきた努力が鬼によってすべて「無に帰され」たかのように感じる、みたいなことだったりもするわけです、はいm(_ _)m
あ、ですから、賽の河原で父母の供養のために積み重ねる石ころは、「人間の証明」ならぬ「罪人の証明」だったりするわけですから、そら、鬼でなくても、「そんなもん、積み重ねんでもええやんけ」とか、普通に言いたくなりますしね。
脱線しました。
今回書こうと思ったのは、T-17.V 「癒された関係」についてでした。
ここもまた、先にご紹介した「ベールを取り去る」というセクションと同様、知覚の移行に関して具体的に描かれています。
さて、特別な関係は、テキストのこの段階まで実践する間に、「非神聖な関係」へと、知覚が少しだけ変化しています。
これは例えば、「それは罪ではなく誤りだったに違いない」(T-25.III.8:10)というように、自分が「罪」として見ているものは、実は「ただの間違い」であり、だからこそ訂正が可能なのである、と、T-19.II.1:1-3 に書かれていますが、そのように、特別な関係もまた、それは特別なのではなく「非神聖」なだけである、と見なされることにより、一種の膠着状態に対して、いい意味で「亀裂が入る」わけですね。
「それ(神聖な関係)は、古くからの非神聖な関係が変容し、新たな見方で見られたものである」(T-17.V.2:2)とあるように、これは端的に、関係の質の変容のことです。
ここでは例えば、「(非神聖な関係の逆転の)最初の段階で、その関係のゴールが、突然それまでとは正反対のものに転換させられる」(同 2:6)などもまた重要ですが、この記事では、知覚の移行ないしは変容に関する奇跡講座の記述はどのようなものであるかを見るために、細かいところははしょります。
なので、この記事だけを読んでも、この関係の質の変容に関しては、ごく概略的なことしかつかめません。
また、この段階の実践には、テキストでここまで書かれていることが一通り身についていて、かつ実践できていることが必要になってきます。
そうでなければ、ここに書かれていることは、とんでもなく荒唐無稽なことか、あるいは、場合によっては、これは意図的な精神的破綻を強要されている、というぐらいに感じることもあります。
ですから、まずはエゴイスティックなぐらいに自分を大切にして、ある意味で「あえて分離する」というぐらいのことが必要になる場合もあります。
実際に、病気からの回復のためには、「健全な分離」とでもいうものは、実はとても有用です。
それは、人類が集合的に陥っている、ある種の「霊的共依存」の状態から脱出することが必要だからです。
そしてこれは実のところ、本当は「分離」ではありませんから。
話が脱線しました。
例えば、「聖霊のゴールは即刻あなたのゴールと入れ替わる」(T-17.V.3:2)といったことでも、これが実際に起きたときには、自分が自分ではなくなったような、あやふやな感じがしたりすることがあります。
それは、これはアイデンティティの変容でもあるので、一時的に心が不安定になったり、自分があやふやになったり、あるいは心許ない感じになったりするからです。
それが関係の認知に関しては、「その関係には動揺や不和やかなりの苦悩さえ伴うかに見えてくる」(同 3:3)となります。
これはただし、新しくこういう動揺などが作り出されたのではなく、それまでは、関係の特別さによって、こうした感覚に蓋がされていたものが、いわば蓋が外れたために、一気に自覚に上ってきたものです。
これは、東洋医学的には、一種の、広い意味での好転反応として捉えることが可能です。
ただし、例えばこうしたことからも、奇跡講座は、対人関係をぶち壊しにすることを説いているかのように見えるわけですし、また、実際にそれぐらい危機的な状況に陥っている場合もかなり多いのですから、こうしたことはむやみに適用しないこと、です。
さて、その次の第4段落では、自我が全力で「引き留め工作」にかかる様子が描かれています。
ここでも、「それはひどく張り詰めた関係のように見えることがある」(同 4:6)といったように、見かけにだまされて道に迷ってしまわないようにと、親切な「注意書き」が書かれているわけです。
焦点はその次の段落からです。
「目的の急激な転換によってのみ、その関係全体が何のためのものなのかについて、心の完全な変化を引き起こすことが可能となる」(同 5:2)
この、目的の急激な転換の「渦中」での描写が、この段落の後半に書かれています。
このように、関係は極めて不安定になったり、自分の「本心」にぞっとしたり、など、それはもう、心の中で「天変地異」が起きたというレベルですから。
ただし、実相世界への橋を渡るときにも、いわば一種の「心の天変地異」を潜り抜けるわけですが、ここでは、対人関係において、いわば「関係の天変地異」を通過するわけです。
さて、「今こそ信が求められる時である」(同 6:1)と、イエスの、心からの力づけが書かれていますが、これもまた、心の基本が癒やされていない状態では、とんでもなくプレッシャーをかけられているかのように感じたりします。
この段階では、もう本当に、ある意味で、それまでの自分の何もかもが信じられなくなったりとか、相手のことも何一つ信じられないとか、まして聖霊なんてくそでも食らえ、神も仏もあるものか、というぐらい、本当に何もかもがあやふやになり、信じられなくなったりとかもします。
言ってみれば、幼虫から成虫になる間の、さなぎの段階の時には、幼虫の体はいったんドロドロに溶けるわけですが、そのようことが生じているのだと思うと、多少はわかりやすくなるかもしれません。
ですから、こうした頑強な思考体系をしっかりと踏まえておくことは、いわば、さなぎが拠り所とする枝に体をしっかりと固定するようなものです。
この段階では、極端に言うと、奇跡講座の言葉ぐらいしか頼りになるものが何一つない、というぐらい、極端なことになる場合もあります。
だからこそ、「今こそ信が求められる時である」というのは、決して大げさな表現ではありません。
いよいよ心の中は不安定になり、自我の差し出す「解決策」の「有効性」もまた、ますますはっきりと知覚されるからです。
「しかしあなたの正気を保つためには、あなたは空想の主な領域をこの兄弟から除外しなければならない」(同 7:4)
これ、実は、いわば「自我語」で話されている、ということに注意が必要です。
一見すると、この言葉は「正しい」ように思えますね。
自分の正気を保つためには、兄弟から空想の主な領域を除外しなければならない、というのは、言葉上はとても「まとも」です。
なぜなら、空想の主な領域を除外すれば、自分は兄弟をありのまに知覚することができますからね。
そうすれば、自分の正気を保つことが可能になりますね。
さて。
これが「自我語」だと申し上げたのは、これは、自我による知覚によれば、この関係の現状はこのように見えている、ということだからです。
では、自我にとっての「空想」とは。
はい、ここでは聖霊のゴールのことなんですね。
あなたの「正気」は、今は聖霊のゴールによって根底から脅かされ続けているけど、聖霊のゴールなどは空想の産物でしかないのだ。だから、それを事実上、兄弟に対する知覚から取り去ってしまえば、自我とともにあった「正気」をまた安泰に保つことができる、ということなわけですが。
このように「翻訳」してみると、実にやばいですよね。
だからこそ、「今このようなことに耳を傾けてはならない!」(同 7:5)わけです。
ただし、この一言が書かれていなければ、さっきの言葉は非常に分かりにくいですね。
もう、後ほんのもう少しで、自我の言うことをまた真に受けるところでしたが、すんでのところで、イエスが「喝!」を入れてくれたわけです。
自我の巧妙さはここまで徹底している、つまり、言葉の意味を完全にすり替える程度のことぐらいは、実は割と普通に行っているので。
それがいよいよはっきりとしてくると、その「実態」は、例えばこのようなものだというわけです。
ですからこれは、自我の「忠告」が激しくなっているとも見えますが、それと同時に、むしろ逆に、自我が実際には何をしていたかが、いよいよはっきりと見えてくる段階でもある、というわけです。
それが、「神聖な関係が始まり、進展し、達成される際のすべての局面は、非神聖な関係の逆転に相当している」(同 2:4)ということの、一つの具体例です。
そして、先の強いイエスの言葉を信じて、この重大な局面を潜り抜けたことにより、「今ではあなたは完全に狂ってはいない」(同 7:9)となり、「今、聖霊は、あなたがたとえ当惑しつつも、もう少しの間、信を抱き続けるようあなたに求める」(同 7:11)となります。
これは、最も大変な局面を通過した直後の段階です。
このようにして、「この関係は、神聖なものとして生まれ変わったのである」(同 7:14)となり、ここからは少しずつ、祝福の段階に入ります。
ここでも、この関係は「失敗」したとしか感じられない状況が何度も生じるからこそ、イエスはわざわざ、「その関係の「失敗」を兄弟のせいにして責めたくなる機会をあなたは何度も見いだすだろう」(同 8:2)から、この段落の末尾まで、いわば一種の「アフターフォロー」としての説明が続いています。
ですから、「目的がなくなったような感覚があなたにつきまとい、自分がかつて満足を追求し、満足を見出したと思ったときのことをすべて思い出させるだろう」(同 8:3)というのも、関係の質が変容したのですから、以前のように、自分なりのゴールを追求していたときのような目的意識感覚は、すっかり失われてしまっているので、いわば「失われし過去の栄光」が繰り返しぶり返すわけです。
なのでここで、「そのときにあなたが見つけたのは本当は惨めさだったことを、今になって、忘れてはいけない」(同 8:4)というのは、かつて見いだしたと思っていた満足が、実際に自分にもたらしたものは、実は惨めさだった、ということを忘れないように、ということです。
そうすれば、一時的にぶれたとしても、またすぐ正気に戻れるからです。
ですが往々にして、このことを絶対に認められないので、その惨めさをさらに隠蔽しようとして、別の形で、「「満足」という名の惨めさ」を延々と求め続ける、というのが、自我による満足の追求だったということが、ここではもう疑いようもなくなりつつあります。
ですから、たとえ以前のような満足を追求しようとしても、その「実態」が見えてしまっているため、まるで満足を見いだせません。
ですから、「やっぱり、この関係は失敗だった」とかも思いたくなるわけです。
このように、ぶり返しはかなり執拗に襲いかかり続けることもあるので、「衰えつつある自我に生気を吹き込んではならない」(同 8:4)ということなわけです。
さっきのような後悔にどっぷりとはまることは、言ってみれば、せっかく衰えつつある自我に、むざむざまた息を吹き返してもらおうとするようなものだ、ということなわけです。
この期に及んでもなお、自我の「蘇生術」を行うことに、どうしてもとてつもなく惹かれるものですから。
ですが実は、ここで逆説的に、あえてどっぷりとはまってみる、という方法もあります。
そうすることにより、場合によっては、はまらないようにと気をつけるよりも確実に脱けることができる場合もあります。
こうした応用的なことはケースバイケースであり、一概にこうだということはできません。
さて、次の第9段落では、おずおずとですが、新しい道を歩き始める様子になっています。
「初心者として覚えておくべきことは、あなたと兄弟は、共に、再び出発したということである。だから彼の手を取り、今あなたが信じているよりも本当はずっとよく歩き慣れている道を共に歩んでいきなさい」(同 9:3-4)となっています。
これでめでたく、非神聖な関係は神聖な関係へと変容し、新しい道を踏み出し始めた、というわけです。
ここから先はもう、ただ祝福が広がるのみなので、書くまでもないでしょう。
ま、後は、第14段落まで行くと、例えば、「受け入れられた目的と現状における手段との食い違いがあなたを苦しませているかに見えるが、その食い違いは天国を喜ばせている」(同 14:4)とか、こんなの言われたら、「もう、イエスのいぢわるぅ~」とか言いたくなる感じですが。
で、こうしたことはすべて、「あなたが兄弟に惜しみなく与えた贈り物」(同 15:1)だということが、実はとても重要なことです。
これらはもはや、ただ自分のためにだけ行ったのではなく、自分のためであるようでありながら、実はそれは同時に兄弟への贈り物だ、ということだからです。
ですから、利害の対立は自然消滅に向かいます。
ここでも、自分が与えることにより、実はどれほど自分もまた受け取っているかが、少しずつ分かり始めることでしょう。
それまでは、いわば「得るために与える」という形でしたが、ここからは、「与えると与えられる」というように、いわば関係の順序が逆転するわけです。
「得るために与える」というのは、「地獄の習慣」ですしね。
癒やされた関係は、この悪循環が、根本が逆転して良循環へと変容することです。
もちろん、最初はまだまだ不安定ですが、ここでようやく、奇跡講座学習者なら「耳たこ」である、「受けるよりも与えること」みたいなことが、本当の意味で機能し始めるというわけです。
そして、次のセクションであるT-17.VI は「ゴールの設定」となっていますが、先のセクションでは、自分なりのゴールが聖霊のゴールに入れ替わるという段階がありましたが、そうするとこれは、ゴールを設定するとはどういうことか、ということへとスムーズに連なっているように感じます。
ま、この先にはここでは言及しませんが、例えばこのように、このセクションには一連の流れがあることが、おわかりいただけたら幸いです。
ではでは。