「由来」
「由来」に書かれていることは概ね、このコース(奇跡講座のこと)がどのようにしてもたらされたかについての概説ですが、この中で一つ、注意点があります。
このコースは、ビル(ウィリアム・セットフォード)がヘレン(ヘレン・シャックマン)に、「何か別の道があるはずだ」と結論し、ヘレンが、その道を見つけるのを手伝いましょうと言ったことによって始まったとされています。
奇跡講座関係では半ば「伝説」のようになっていることですが、ヘレンとビルの関係は非常にまずく、この「まえがき」の表現によると、「二人の仲は難しく、時に緊張をはらみ、」と書かれていて、また、ビルは、「私たちの態度に表れている怒りや攻撃の感情にはうんざりした」と発言したと書かれています。
そして、「何か別の道があるはずだ」というビルの、あの有名な「鶴の一声」に連なるわけです。
では、ここでビルが言った「何か別の道」とは、具体的にはどのようなことを指していたのでしょうか。
明らかに、奇跡講座はこの、「何か別の道」を見いだすためのガイダンスのようなものとして下りてきていますし、「まえがき」でも、「どうやら、このコースがその別の道だったようです」と書かれています。
これに関しては、言うまでもなく、まずはヘレンとビルの関係のありようには「別の道がある」ということだと思います。
そして、彼らが実際にそれらを体感することにより、そのことが彼らのありようを通して広がっていく、という流れがあったのではないかと思われます。
だからこそ、ワプニック博士は『天国から離れて』の第13章で、このように書いています。
「ヘレンもビルも、『講座(コース)』と一体感をもてなかったことはもとより、お互いを赦すことができなかったことにより、そういった指導的役割を担うことは不可能となった。しかも、イエスからは、『講座(コース)』を書き取った後にさらに重要な役割を彼らのどちらもが果たすことになる、と繰り返し保証されていたにもかかわらずである。(中略)すでに示唆したとおり、この当時およびそれ以前のいくつものメッセージは、彼らふたりのさらに大きな役割を暗示していた。間違いなくそれは教えるという機能(はたらき)に関連しており、彼ら自身が指導的立場につくことをほのめかしていた」
また、同じ章ですが、アイリーン・ギャレットという霊能者がヘレンに、次のように言ったと書かれています。
「もしあなたが、自らの書き取ったものとともに進むなら、あなたはこの地上でもっとも幸せな人となるでしょう。しかし、もしあなたがそれに抗うとしたら、あなたは病気になり、残りの人生は不幸なものとなるでしょう」
そして、『神の使者』のアーテンとパーサが二人で登場したことの意味は、なぜかあまり着目されてきませんでしたが、このことが示唆していることは、つまり、現代においては、アセンションには双対性の自覚が必要だということです。
こうしたことと、後述する、特別な関係に内在する可能性もまた、おそらく密接に関連しています。
話を戻します。
さて、ここで一つ、とても大切なことが示唆されています。
それは、ヘレンとビルの関係は非常に困難なもの(difficult)であり、しばしば緊張をはらんでいたということです。
(奇跡講座の用語では、こうした関係のことを「特別な関係」と表現しているので、以下、「特別な関係」と表記します)
こうしたことから分かることは、まず、奇跡講座がもたらされたのは、ヘレンとビルの特別な関係が発端だったということです。
ここまではいいと思います。
さて、では、自分が現に体験している特別な関係に関しては、どうなのでしょうか。
彼らの特別な関係だけが、それこそ何か特殊な可能性を秘めていたのであり、今、自分が現に体験している特別な関係は「例外」なのでしょうか。
(※余談ですが、英語の「special」は、日本語では「特別」の他に、文脈によっては「特殊」とも訳されます)
「特別な関係」という関係の構図自体は、ある種の普遍性があるので、実は、何ら特別なものではありません。
その具体的な形は千差万別ですが、関係認知が特別性に根ざしているということ自体は、どんな特別な関係であろうが同じです。
では、ヘレンとビルの特別な関係では可能だったけど自分の陥っている特別な関係では不可能だ、ということが、果たしてあるのでしょうか。
言い換えると、特別な関係を、ただ自分を害するものとしてのみ受け取ることは、同時に、何か重大な可能性をも切り捨てているのではないでしょうか。
さて、話を続けます。
特別な関係に関して、まえがきの中の「教義」には、次のようなことが書かれています。
「この世界の「特別な関係」は、破壊的で利己的、そして幼稚なほど自我中心的である。しかし聖霊にゆだねられたとき、そうした関係は、地上で最も神聖なものとなり、天国へ戻る道を指し示す奇跡となる」
また、テキストにはこう書かれています。
「地上における最も神聖な場所とは、往古の憎悪が現在の愛となった場所である」(T-26.IX.6:1)
これらの記述が連関していることが感じられます。
そしてまた、奇跡講座では、特別な関係を神聖な関係へと変容させる、ということが、かなり大きなテーマになっています。
ものすごく簡単に言うと、特別な関係には、「これは特別な関係である」という知覚のベールがかぶせられているのですが、そのベールが取り去られたとき、それまで特別な関係だと知覚されていたものは、実は神聖な関係だったということが分かる、ということです。
もちろん、神聖さとは「例外がない」ことですから、これは、特定の個人と個人とだけのことではありません。
例えば、目の前のスマホとの間に、今、自分は「特別な関係」を持っていますが、それを神聖な関係に変容させることもまた、奇跡講座の狙いの一つです。
さて、テキストには、こういう記述があります。
「あなた方は二人で一緒に、自分たちの関係の中に聖霊を招き入れた。そうでなければ、聖霊は中に入ることはできなかった」(T-17.V.11:1)
もちろん、こうした描写は特定の誰かと誰かのことではないと捉える、というのが、奇跡講座を理解するときの「お約束」ですが、しかしそれと同時に、奇跡講座は、ヘレンとビルとの関係に降りてきた、ということも事実です。
そのことを踏まえると、上の記述にはある一定の「具体的な背景」が感じられますし、また、これは、具体的・個別的な体験から、そこに内在する普遍性が「立ち上がって」きたものではないか、ということが感じられます。
ですから例えば、テキストのこの辺りの記述も、もちろん万人向けではあるものの、それと同時に、イエスがヘレンに個人的に語りかけているという側面も、確実にあったと思われますし、また、そのような背景を踏まえて読むと、このくだりの「リアリティ」が、桁違いにはっきりしてきます。
ですから例えば、同じ段落の中で、「あなたも同じように、兄弟に対して感謝の気持ちを抱いてきただろうか。善意ある努力に一貫して感謝し、間違いを見過ごしてきただろうか。あるいは、実在する間違いのように見えたものを前にして、あなたの感謝は揺らいで、霞んでいっただろうか」(T-17.V.11:6-8)といった箇所もまた、実は極めて具体的な状況に関するアドバイスであることが感じられます。
だからこそ、以下のような記述もまた、そのままの意味であることが感じられます。
「これは極めて実用的なコースであり、述べられている通りのことを意味していると、あなたにもすでにわかり始めているはずである」(T-8.Ix.8:1)
「このコースはあなたが理解して使用するに充分なほど具体的でないと、あなたは苦情を言うかもしれない。だが、そう言うあなたは、おそらくこのコースが具体的に提唱していることを実行してこなかったに違いない」(T-11.VIII.5:1-2)
で、ヘレンとビルが、果たして彼らの特別な関係を神聖な関係に変容させることができたのか、に関しては、私が言うのは野暮というものでしょう。
言い換えると、それはそれ以降の全ての人の手に託された、ということも感じられます。
つまり、このことを、時空を超えた贖罪の「バトンリレー」のようなものとして捉えると、いわば、「私はここまで達した。次はあなたの番だ」として、バトンを託されたようなものなのかもしれません。
「構成」
「構成」には、まず、奇跡講座がテキスト、ワークブック、マニュアルで構成されている(正確には、この他に小冊子として、『精神療法』と『祈りの歌』がある)ことが書かれていますが、そこには同時に、こう書かれてもいます。
(※「小冊子」と訳されている元の英語は「supplement」であり、これは「補足」「補編」といった意味です)
「これらの教材を使う順序や学習方法は、受講生各自の必要や好みに任される」
ですから、どのように取り組むかに関しては、自分に合ったやり方でよい、ということになります。
ただし、例えば、ワークブックのレッスンは、一日に行うレッスンは1つである、といった簡単なルールは決められていて、それは最低限遵守する必要があるのでしょう。
マニュアルにはこう書かれています。
「場合によっては、生徒にとって、この「マニュアル」を最初に読むことが役に立つかもしれない。あるいは、「ワークブック」から始めたほうがよい者たちもいるだろう。さらに他の者たちは、「テキスト」で、もっと抽象的なレベルから始める必要があるかもしれない」(M-29.1:5-7)
また、ワークブックの序文には、こう書かれています。
「「テキスト」が提示しているような理論的基盤は、この「ワークブック」の演習に意義をもたせる枠組みとして必要なものである。しかしこのコースの目標の達成は、演習を行うことで可能となる。訓練されていない心には、何も達成できない。「テキスト」が教えている通りの考え方ができるように心を訓練することが、この「ワークブック」の目的である」(W-in.1:1-4)
それから、これはテキスト自体を学ぶときの注意事項ですが、意外に見落とされている印象があるので、列挙しておきます。
「このコースの後半には、最初の数章に深く根ざしている部分があるため、これらの章の注意深い学習を義務づけないわけにはいかない。また、あなたには準備のためにもそれが必要である。この準備なしでは、後に続く内容があまりにも恐ろしく思えてきて、それを建設的に用いられなくなるかもしれない」(T-1.VII.4:2-5)
「(前略)このコースの後半のいくつかのステップは、神ご自身への直接的なアプローチを伴う。こうした後半のステップを周到な準備なしで始めることは賢明ではない。そのようなことをすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷(トラウマ)をもたらすようなものとなってしまう」(T-1.VII.5:7-8)
こうしたことから言える、私の体験も交えての「学習のコツ」を一つ述べます。
例えば先に、テキスト第17章から、あなたは兄弟に感謝しているだろうかという意味の文章を抜粋しましたが、これは実は、テキストの後半に属しています。
これが意味していることは、兄弟に感謝する前に取り組むべきことがある、ということです。
つまり、例えば、恐怖や罪悪感などがリアルだと感じている状態で兄弟に感謝するというのは、他の霊的な教えでも割と一般的なことなのですが、奇跡講座ではそうではなく、まずは聖なる瞬間を練習して、罪悪感や恐怖などのない状態がある、ということを感じ取り、次に、実相世界への橋を渡って実相世界に到達し、そうしてはじめて、兄弟に感謝するとはどういうことなのかが体感的にわかる、という流れになっています。
実は、テキストの後半は、実際に実践はこのような順序をたどる、という流れがあります。
これも、一通り実践してみると分かります。
ですから、テキストの後半に述べられていることを、その段階までの実践が積み重なっていない状態で実践しようとすることは、ごく簡単に言うと、その実践がトラウマ体験となるようなことを招きかねません。
これが、先に引用した箇所に書かれていることです。
脅すような言い方になっていたら申し訳ありませんが、しかし、コツコツと実践した果ての実りは、文字通り計り知りない、ということだけは述べておきます。
神の無条件の愛というものがどういうものかがわかり、知覚が恐怖ベースから愛ベースに移行し、ワプニック博士の言う存在論的罪悪感が癒やされると、実際に、今まで自分が世界だと思って体験していたものは幻想であり、本来の世界とは何もかもが逆転していた、ということが、次第に分かってきます。
さて、「構成」の、以下の記述もまた大切です。
「キリスト教の言葉が使われてはいるが、扱っているのは普遍的な霊性に関するテーマである。こうした普遍的なカリキュラムはほかにもいくつもあり、このコースはその一つにすぎず、異なるのは形だけであることが強調されている。そうしたカリキュラムはすべて、最終的には神に行き着く」
これは、マニュアルの以下のことと関連しています。
「本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす」(M-1.4:1-2)
奇跡講座は、普遍なるコースの特別な形態の一つである、ということです。
ですから、奇跡講座だけが唯一絶対の教えだというわけではありません。
こうしたことは、実はワプニック博士も述べています。
ワプニック博士は何ら、奇跡講座は唯一絶対の教えだとは言っていないどころか、こう述べています。
「私たちが『奇跡講座』と呼ぶ特別な霊性の道として、このコースは、単に、全世界的な適用性をもつことを意図されてはいないのです。他の文化や宗教的伝統においては、それらに独自の霊性の道がいくつもありますし、あり続けるでしょう」
「本書において私たちが繰り返し指摘してきたように、「すべての人々との普遍的なつながり合い」が、普遍的なコースの教える内容ですが、人々がそのレッスンを学ぶときには、学びの具体的な方法が、前述の「特別なカリキュラム」の様々な形態を構成します。そして、『奇跡講座』は単にその諸形態の一例なのです」
(いずれも、ワプニック博士の著作である『赦しのカリキュラム』の、質問67より)
ちなみにここで、「普遍的なコース」と訳されているのは、マニュアルの中での「普遍なるコース」と同じです。
ここでワプニック博士は、「すべての人々との普遍的なつながり合い」が、普遍的なコースの「内容」だと明言しています。
ですから、自分のみの救済に専心するというのは、実は、ワプニック博士の教えとは異なる、ということです。
ですが、それと同時に、実践面においては、ただ自分の知覚の訂正のみが求められていることである、というのもまた事実です。
「これは哲学的思弁に関するコースではなく、厳密な語義にこだわるものでもない。贖罪のみに、すなわち、知覚の訂正のみに関するものである」(C-in.1:1)
つまり、自分の知覚が訂正された結果として、すべての人々との普遍的なつながり合いがもたらされる、ということであり、だからこそワプニック博士は、ただ一人一人の知覚の訂正のみにフォーカスして教えていた、というわけです。
つまり、例えば仏教には、小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教という大きな派閥があり、前者は自分の救済に、後者は人々の救済に、それぞれフォーカスしていますが、奇跡講座は、ただ自分に専心することが、結果として人々とのつながりをも回復させる、というスタンスを取っている、というわけです。
こうしたところから、仏教と奇跡講座との連関もまた見えてきます。
例えば、以下のようなことがあります。
「聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄、結文より)
「阿弥陀仏の、きわめて長期間にわたって思惟された願いは、よくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためなのであった。そう思うと、多くの悪業に縛られたわが身であったのに、その身を助けようと思い立ってくださった本願のなんとありがたいことか」(現代語訳:阿満利麿)
「神の法則はただあなたの益となるように働き、神の法則の他に法則はない」(T-10.IV.4:4)
「神から「わが子を解放せよ!」と言われているあなたが、神が解放を求めているのはあなたのためだと学んだときに、それに耳を傾けたくないという誘惑に負けたりするだろうか」(T-31.VII.15:5)
「真理はただあなたに幸せを与えたいだけである。それが真理の目的である」(W-pI.136.12:4)
つまり、神はただ「わたし」を救いたいだけです。
しかし、全ての人の中の「わたし」に、同様に働きかけているというわけです。
もちろん、こうした言葉の背景や詳細は、この世界で信じられているものとはことごとく逆転しています。
こうしたことは、実践を積み重ねていくことにより、はじめて実感されます。
また、ワークブックの序文に関して、「構成」では以下のような指摘がされています。
「序文においては以下の通り、「ワークブック」の実用性が強調され、最初から霊的な目標に専心することよりも、実践による体験を重視している」
このように、奇跡講座は実は、「霊的な目標に専心する」ものではありません。
「実践による体験」を目指しています。
「普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか、必要である。このコースは、その体験へと向かうものである」(C-in.2:5-6)
奇跡講座が目標としているのは、実は、天国に帰ることではありません。
厳密に言うと、それを直接目指すものではありません。
そうではなく、どうやら、自分が完全に、幻想の世界という知覚をもたらしていた思考、すなわち自我による思考体系、から解放されること、のようです。
その思考体系から解放されたとき、世界は天国を反映したものとして、ありのままに知覚されるようになります。
ですから、かつて自分が世界や他者の姿にかぶせていた、自我による解釈というベールが完全に取り去られること、が、さしあたっては奇跡講座が目指していること、だったようです。
そうしたことについて、「構成」では次のように述べています。
「『奇跡講座』はこのコースが終着地点であるとは主張せず、「ワークブック」のレッスンも受講生の学びを完結させるところまでは意図していない。最後には各人が自らの内なる教師にゆだねられ、その後の学びはすべて、内なる教師により各人に最もふさわしい形で導かれることになる」
そうして、ワークブックの「エピローグ」から、やや長い引用がされています。
つまり、奇跡講座がゴールとしているのは、各人がただ、神と聖霊のみを頼りとすることができるようになる、というところまでだということです。
ただし、ロードマップは示されています。
「そうして彼は贖われる。目の前に天国の門が開かれているのを見て、彼はその中に入り、神の胸(こころ)の中へと消えていくだろう」(W-pII.14.5:4-5)
この直前には、兄弟を救済することについて述べられていますが、これは何か社会的な形や、あるいは何らかの活動や運動をすることではありません。
しかし例えば、「自分は苦しんでいると考えていた神の子に、私たちは嬉しい知らせを運ぶ」(W-pII.14.5:3)というとき、私たちがまだ苦痛という信念を保っていたら、私たちは嬉しい知らせではなく苦痛に満ちた知らせを運ぶことになります。
これは、言葉として「真理の言葉」を話すかどうかではありません。
自分のありようそのものが、ただ「嬉しい知らせ」となっていることです。
で、この「嬉しい知らせ」と訳されている元の言葉は、「glad tiding」ですが、これは、単語は異なるものの、要するに「good news」つまり「よい知らせ」であり、早い話、「福音」のことです。
つまり、自らのありようがただ福音そのものであること、だというわけです。
これを、分離がリアルであるという前提の元で、ただ形だけ成し遂げようとすると、それがおそらくは、ワプニック博士の言う「能天気な極楽トンボ」(ケネス・ワプニック インタビュー、第11回「階梯の初段階」に登場します)となるのでしょう。
さて、「教義」に関しては、ここでは触れません。
いずれにしても、私はまだ充分に到達しているわけではありません。
私はまだ、この世界の根源的な逆転性がありのままに見えてきて、正直、いささか参っているところです。
個人的には、以前とは全く変わり、基本的にはただ喜びと平安のみがあるんですけどね。
ただし、この喜びは、楽しくはしゃぐ感じではなく、平和で静かなものです。