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「ベールを取り去る」ことに関して

実際に奇跡講座に書かれていることについて、例えば、テキストの以下の部分を採り上げて、詳細に見てみたいと思います。

T-19.IV.D 「i. ベールを取り去る」というところをご覧ください。

ここでは、誰か兄弟に関して、その兄弟に対する知覚が具体的にどのように変容するか、について、ある整然とした流れ、あるいはプロセスとして、きわめて詳細に書かれています。

それを順番に見ていきましょう。

まず、第8段落から第11段落までは、一種の「心の準備」、あるいは「心構え」のようなことについて書かれています。

そして、第12段落では、兄弟は、「依然として異邦人のように見えている」(T-19.IV.D.12:1)存在として描かれています。

出発点においては、自分は相手に恐怖や罪悪感などに根ざす知覚を投影して、相手を攻撃していますが、「しかし、彼の手の中にあなたの救済がある」(12:4)として、ここから、相手の中にキリストを見るというプロセスが始まります。

そのために、「彼についてのあなたの解釈」(12:2)を心の中で手放すこと、つまり「赦す」(12:7)ことが必要となります。

これはまた、相手に対する先入観を「脇に置く」ことである、とも言うことができます。

要するに、相手の姿に自分が投影している先入観、ないしは解釈、を、自分の視界からどける、ということです。

これが、「自分の目から梁を取り除く」(マタイによる福音書、7.3-5。新共同訳では「梁」は「丸太」となっている)として、福音書でイエスが言っていることに相当します。

さて、第13段落において、兄弟は、「あなたに贖罪の聖杯を差し出している者」(13:1)として描かれています。

この段階において、相手は、「異邦人」から、「贖罪の聖杯を差し出している者」へと、知覚が少し変容しています。

ここでは、相手は、今まで自分が思い込んでいたような存在ではなかったのかもしれない、という可能性に対して、少し心が開かれた様子について描写されています。

だからこそ、攻撃の手は止んでいます。

そして、「あなたは彼の罪を理由に彼を咎めたいだろうか。それとも、彼からあなたへの贈り物を受け入れたいだろうか。救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか」(13:2-3)として、ここに、知覚における二者択一性が提示されています。

そして、その上で、「自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになることを思い出して、彼がそのどちらであるかを選択しなさい」(13:4)とイエスは言っています。

つまり、選択するのはあくまでも自分である、ということです。

ここでは、聖霊か自我かという選択が、具体的にどのようになされるのかについての描写の一つになっています。

そして、「あなたに彼の罪を赦す力があるのと同様に、彼の中にもあなたの罪を赦す力がある。あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない」(13:5-6)という箇所では、赦しとは、実は対関係において成されるものである、ということが示唆されています。

例えばこれ、つまり、赦しは実は対関係において成されるものだということが、今までの奇跡講座の理解および実践に欠落していた観点の一つではないかと思われます。

また、先と重複しますが、「あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない。だが、あなたの救済者はどちらの傍らにも立っている」(13:6-7)というのは、「だが」と訳されているのは「and yet」であり、これは、「それでもなお」「それにもかかわらず」というような意味があります。

ですからここでは、「あなたの救済者」とは、どうやら兄弟のことではないか、という可能性が思われてきます。

つまり、「自分で自分を赦すことはできないが、「相手こそが自分の救済者である」という事実は、実は双方に当てはまる」ということです。

また、ここで「傍らに立つ」と訳されているのは、「stand beside」という英語ですが、調べてみると、この表現には「味方である」という意味もあるようです。

ですからこれは、「あなた方はお互いにお互いの味方なんだよ」ということも暗に意味していることになります。

さて、ここで注意する必要があるのは、相手を「異邦人」として知覚したままの段階では、その知覚は自分の選択によるものであるということが、まだ見えていないので、このように、選び直すことはそもそも不可能である、ということです。

ですからここでは、自分の知覚自体に対して、心の中で「距離を置く」、という表現も、不可能ではありません。

いずれにしても、自分が知覚しているものは、自分が為した選択の結果であり、まずは、それらに対して距離を置く、つまり、「離れて見る」という心の姿勢が必要であり、これはまた、「戦場を超えたところ」(T-23.IV)ということとも関連しています。

このように見ていくと、ここでの選択とは、つまり、よくあるたとえで言う「映写機のフィルムを交換する」ことに相当しているのかもしれません。

では、先に進みます。

第14段落において、兄弟は、キリストとして描かれています。

「傍らに立つ」というのは、横とか隣というだけではなく、漠然と「そばにいる」という意味でもあるので、「傍ら」というにとどまらないことを思うと、相手のことを指していると受け取っても差し支えはないと思われます。

また、先に述べたように、「stand beside」には「味方である」という含みもあるので、ここの冒頭の、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリスト」(14:1)というのは、また、「あなたの味方であるあなたの友、キリスト」というニュアンスも持っています。

ですから、これはことわざで言う、「渡る世間に鬼はない」ということでもあるわけです。

ですが、ここで相手を「異邦人」、言い換えると「鬼」だとしたままでは、キリストに対して心を開くことができません。

無理にそんなことをしようとしたら、例えば、「鬼こそが自分の救い主である」というような、ややこしいことになりますから。

しかし、相手は鬼だというのは、幻想であるはずなのに現実だとしか見えず、それはもう、確信的なものがあるので、そうした場合には、まずは物理的に距離を置くことが先決です。

例えば、親との確執がこじれすぎてどうしようもなくなっている場合には、まずは距離を置くことが先決です。

その確信、つまり、どう見ても幻想が現実だとしか思えない、という状況の中で、こうしたことを行うのは、あまりにもハードルが高すぎます。

こうした、実際的な対処は、ときに極めて有用です。

さて、もしかすると、相手は自分の友、キリストだったのかもしれない、ということに対して少しずつ心が開かれてくると、知覚も次第に変容してきて、「この「敵」、この「異邦人」は、キリストの友であるあなたに今でも救済を差し出している」(14:5)ということが、次第に見えてきます。

ここは、翻訳だと少しわかりにくいですが、原文ですと、「キリスト」とは、この「敵」、この「異邦人」のことを指していることが分かります。

そして、「キリストの「敵」、罪の崇拝者たちは、自分が誰を攻撃しているのかを知らない」(14:6)というのは、三人称的な表現によってそれとなく伝えているわけです。

つまり、「あなたがしていることは、客観的に言うとこういうことだからね。「人の振り見て我が振り直せ」と言うよね」というようなことです。

もちろんこれは、私の「独自解釈」ですよ(笑)。

実際のところは分かりません。

さて、そうすると第15章では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)ということになります。

次に書かれている、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか。彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:2-3)とありますが、ここも、さりげなく重要です。

余談ですが、こうした私の理解は、実は、構造的な認識によっているのですが、「用語の解説」では、「「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である」(C-in.1:4)と書かれているんですよね。

なのでやっぱり、私のこうした理解は、「独自解釈」の域を出ていないのだと思います。

さて、そうした構造的な理解によると、ここに書かれていることは、まず、自分に赦しを差し出すことができるのは、ただ相手だけである、ということが書かれています。

そして、では、「あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」というのは、つまり、前半を受けていて、この2つで次のようになっています。

「相手が自分を赦すことができるために、自分は相手を赦す」

だからこそ、相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである、ということになります。

そして、自分が相手を赦すということを相手の側から見ると、相手にとっては、まずは自分が相手から赦されたという体験になっています。

そうすると、ここにおいてはもはや、特別な関係を維持する必要自体がなくなっているので、赦しを差し出すことが可能になる、というわけです。

そうすると、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:3)というのは、構造的には、先の、「相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである」ということを、他者側から見た様子であることが分かります。

つまり、ここで自分が率先して相手を赦すというのは、相手に、自分を赦す機会を差し出しているわけです。

で、さらに、これが実は日本語ならではの特徴なんですが、ここで、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」というときに、実は、この「自分」というのは、すでに、分離した兄弟の双方に当てはまっているわけです。

つまり、ここではすでにもう、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」ときに、相手が赦す「自分」というのは、こちら側のことであると同時に、相手自身のことでもある、という段階に、自動的に到達することになります。

これは、通常のコミュニケーションだと、誰のことを指しているのかが分からなくなってしばしば混乱する原因になりますが、キリスト意識にとっては、自他の分離を超えたところの主体性を簡潔明瞭端的に表現できる、実に便利な表現なんですね。

そして、面白いことに、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」というのは、実は、今から自分が行おうとしていること、つまり、自ら率先して相手に赦しを差し出すということ、を相手の側から見たとしても、全く同様の表現になる、ということです。

このように、このセクションでの記述は、構造的には、自分と相手の立場を入れ替えても、同様に成立することであることが分かります。

ただし、相手が自分を赦してくれるのを待っていると、何も始まらないわけです。

というのは、そのときに、相手もまた全く同様に、相手が自分を赦してくれるのを待っているからです。

つまりここでは、完全に自他対称的な状況があるわけで、このままだと、全く動きがないのですが、どちらかが率先して選択するときに、こうした一連の流れが始まるわけです。

ですからこれは、物理学で言う「自発的対称性の破れ」に相当しています。

または、「負けるが勝ち」とも言います。

この膠着状態を維持し続けることに対して「折れる」、つまり、「負けを認める」ことで、相手に赦しを差し出すことが始まり、そしてそのことによって自分に赦しが返ってくる、という流れが始まる、つまり、負けることによって勝つ、というわけです。

ですから、「あなたが兄弟に天国の恩寵を差し出せば、あなたは必ずそれを至聖なる友から受け取ることになる」(15:5)というのは、つまり、相手に赦しを差し出すというのは、天国の恩寵を相手に差し出すことだからでもあるからですが、そうすることによって、相手の姿を通して、至聖なる友、つまりキリストが、自分にも天国の恩寵を差し出してくれる、というわけです。

ですからここではもう、キリストがキリストを赦し、互いに天国の恩寵を差し出し合うという、「良循環」が生じることを意味しています。

その良循環について、「兄弟に、それ(天国の恩寵)を与えずにおかせてはならない。なぜなら、あなたはそれを受け取ることにより、それを彼に差し出すからである。そして彼は、あなたが彼から受け取ったものを、あなたから受け取るだろう。救いは、あなたがそれを兄弟に与えることにより受け取るようにと、あなたに与えられている」(15:6-8)というくだりで描写されています。

かくして、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る」(16:1)というところにたどり着くことができる、というわけです。

これ以降の記述は、もう、実質的には、ベールが取り去られた後のことですから、ここでは触れません。

このように、テキストのこのくだりには、実は、知覚の変容に関する漸進的な流れがあったということが、おわかりいただけるかと思います。

そして、テキストには、実は、こうした流れが至る所に見受けられます。

例えば、T-26.IX.1-3 を例に挙げてみます。

ごく簡単にしか触れませんが、第1段落では、自分の神聖さ、および、兄弟の神聖さについて、よく考えてみるようにと書かれていたり、ちょっと諭されている感じもあります。

そして第2段落において、兄弟を信頼することについての言及があります。

そうすると第3段落において、ある種の「奇跡」が起きた様子が描かれています。

ここにも、ちゃんとした流れがあるわけです。

例えばこのように、「現状 – 選び直す-変容する」というような流れで書かれているわけです。

ですから、こうした観点を持って奇跡講座を読んでみると、また新しい発見があるかもしれません。

ただし、念のために申し上げますと、ここで例に出した「ベールを取り去る」ことは、まずは実相世界に到達しないと、実質的には無理です。

というのは、知覚が根本的に逆転したままでは、これは、ものすごい困難や苦痛や、などを伴う、極めて困難で達成不可能なことを求められているように感じられるからです。

今まで、奇跡講座の実践がはなはだしく困難だった背景には、おそらくは、こうしたことがあるのではないかと思われます。

ですから、テキストは、第15章以降は、実践は具体的にこのような順序で展開していく、という流れがあるようです。

なので例えば、第30章に書かれている「決断のためのルール」を、それまでの実践の積み重ねなしに実行しようとしても、今ひとつうまくいきません。

というのは、第30章までに書かれていることが、実践的・体験的に理解されていないと、赦しとか平安とか愛とかに関して、実のところ何も分かっていない状態のままで第30章の実践に取り組むことになりますが、それは、ほとんど何も準備せずにいきなり高い山の登山をしようとしているというぐらい、無謀なことだからです。

つまり、第30章のタイトルが「新たなる始まり」となっているのは、ここまでに書かれていることが一通り実践できているからこそ、これは「新たなる始まり」だというわけです。
ですから、テキストの前半と後半で、いろいろな記述や描写が微妙に異なる理由として考えられるのは、テキストの前半は、主として純粋に理論的な話であるのに対して、後半は、実際に実践することに関しての話である、ということが関連しているのかもしれません。

さて、例えばこのように、奇跡講座に関して概観する趣旨の本を書こうと思っていて、この記事は将来的には、その本の一部となると思われます。