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霊的ゲスの勘繰り

言葉遣いがだんだんお下品になってきましたが、学習者であればきっと赦してくださると信じて(笑)、このタイトルで行きます。

ただしこのタイトルは、「霊的「ゲスの勘繰り」」なのか「「霊的ゲス」の勘繰り」なのかによって、意味が微妙に異なってきますが。

それはともかく、たまたま開いたテキストの個所を編集前のテキストと見比べていて、代名詞などが微妙に変更されていることが気になり、これはどうかと思ったんですね。

ただしこれは別に恣意的な改変ではなく、変更後の文章、つまりFIP版ですが、この方が文章の流れとしてはすっきりしたものになっています。

言い換えると、編集前のテキストだと、そうした代名詞の使い方は、微妙に違和感を感じさせるものなので、変更されたのはもちろん、それはそれで気持ちはわからなくもありませんが、しかし、もしもこの編集前の代名詞の使い方でよかったとすると、ちょっと気になる可能性が浮かび上がってきました。

先に結論を言うと、これは、もしかするとヘレンさんは、ビルさんもまた神の子であり神聖な存在である、ということを認めることに、何かとてつもない抵抗があったのですが、しかしそのことを決して自覚することができずじまいだったことによるのではないか、という可能性が感じられます。

というのは、これらの個所は、変更前は、兄弟とともに実践する、あるいは兄弟に対する見方に関して実践するような描写になっている可能性があったところが、現行のテキストでは、ただ自分の中だけで実践が完結するものであるかのように、代名詞が変更されているからです。

ただしこれは、ダブルミーニングであった可能性がある、つまり、対人関係における実践とも、自己内完結型の実践とも、どちらとも受け取れるため、代名詞を変更したとしても、それは致命的な間違いということではない、ということは念を押しておきます。

というのは、自分が知覚する兄弟の姿は自分の心の中にある、というワンクッションを挟むことで、ここのずれは解消されるからです。

ただし、こうした事実からは、このずれを持ち込むことにより、奇跡講座によってイエスさんが伝えようとしたことのうち、対人関係的な側面が抜け落ちてしまったということも、同時に示唆されていますし、このことはまた、私がテキストとワプニック博士の解説とを照らし合わせていて感じた違和感とも合致します。

では、具体的にみていきますね。

T-14.VII.6:10 なんですが、ここで公認訳のテキストでは「あなたたちの両方が一緒に」というところの「あなたたち」が太字になっています。

つまりFIP版ではここは、「both of You together」と大文字になっていますが、この箇所は編集前のテキストでは小文字の「you」でした。

これはどういうことかというと、つまり、FIP版ではこれはおそらく、聖霊と自分とのことを指していると捉えたのでしょう。

そのため、ここには聖霊が含まれているということと、自分は神の子であるということから、「You」としたのではないかと推測されます。

しかし、編集前のテキストではここが「you」となっていたことから示唆されるのは、これは、自分と相手のことを指していた可能性があるわけです。

つまり、編集前の場合にはここは、「兄弟と一緒に、聖霊の光と自分の暗い秘密(cf. T-14.VII.6:8)を見てみよう」ということなわけですが、FIP版ではこれは徹頭徹尾、ただ聖霊と自分とのことであると捉えられる表現になっている、というわけです。

ただし、繰り返しますがこれは、「You」とした方が話の流れとしては「自然」になります。

というのは、この辺りの話は聖霊は登場していますが、ここだけいきなり兄弟が顔をのぞかせるのは、いかにも唐突すぎる印象があるからです。

なので、「you」ではなく「You」とした方が「心理的に自然」な感じがする、というのは実際あります。

しかしここで、兄弟との対人関係ではなく、あたかも自分の中だけのことであるかのようなことになったというのもまた事実です。

要するにこうしたところでは、兄弟と聖霊とが重なって表現されているために、どちらとも受け取れるような言葉遣いになっている、という可能性が考えられるからです。

では、もう一か所挙げてみます。

T-11.II.3:2-7; 4:1-2 ですが、ここは公認訳と、それを基に、編集前のものを仮に訳したものとを並列させますね。

(公認訳)

あなたは自分の一部だけを否定することはできない。そうするなら、残りの部分は分離していて意味がないかに見えるからである。そして自分にとっては意味なきものとなったそれを、あなたは理解しない。意味を否定するとは、理解できなくなるということである。あなたに癒せるのは自分自身だけである。なぜなら、神の子だけに癒しが必要だからである。あなたにそれが必要である理由は、あなたが自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、あなたには自分が本当は何を望んでいるのかがわからない。

癒すということは、全一にしたいとあなたが望んでいるしるしである。そして、この意欲により、あなたの耳は、全一性のメッセージを伝える聖霊の声を聞こうとするようになる。

(編集前)

自分の一部を否定する、ということはできない。というのはそうすると単に、残りの部分が、未統合であるがゆえに意味がない、というように見えるからである。そして自分にとって意味がないので、それを理解することができなくなる。意味を否定することは、理解しないようにするということである。

あなたにできるのは自分自身を癒すことだけである。神の子だけが癒しを必要としているからである。彼にそれが必要である理由は、彼は自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、彼は自分が何を望んでいるのかがわからない。癒しとは、彼は全一にしたいと望んでいる、と告げることである。そしてこの意欲が、彼自身の耳を聖霊の声に対して開く。聖霊のメッセージは全一性である。

以上です。

編集前のテキストでは、段落の区切りが異なっています。

というわけで、現行のテキストではここは、自分に対してのことであるとされていますが、編集前のテキストではここは、「彼」のことであるとされています。

これは、『神の使者』のこの言葉を連想させます。

「内側を赦すための唯一の方法は外側にあると思えるものを赦すことだ」(p.226)

これはゲイリーさんが感じた以下の疑問に対するアーテンの答えです。

「ちょっと待って。憎悪や罪悪感を含めたぼくの心の中身は象徴的にぼくの周囲に存在するのだとしたら、外部だけを認識する身体と脳にしばりつけられているぼくがほんとうに自分の内側を見ることなんて、どうしたらできるんだろう?」(ibid、p.226)

だからこそ、内側を赦すために相手の姿を見る、というのは、方法としてまさにそのまんまだというわけです。

なぜなら、自分が、相手の姿だと見ているものは、自分の心の中の投影だからだ、というわけですね。

なので先の箇所は、「あなた」ではなく「彼」だとすると、極めて実践的なことが書かれていたことになる、と私は感じたというわけです。

ただしここで、「彼」ではなく「あなた」だとすることは、相手は実際はどうなのか、ということにアプローチすることを回避することになりかねません。

つまり、自分の知覚は本当に幻想だったということを検証する機会を自ら閉ざすことになりかねません。

そうすると、果たして訂正がうまくいっているのか、それとも間違いをさらに隠蔽してしまっただけなのかを知ることができなくなります。

これは例えば、ワークブックのレッスン52の次の記述とも絡んできます。

「実相は決して恐ろしいものではない」(W-pI.52.1:2)

つまり、実践が自己内完結しているとき、それは同時に、実相は果たしてどうなのかを知ることを回避しているということです。

で、以下は私なりの理解であるということをお断りした上で述べます。

例えば、W-pI.53.1:3-4 ですが、「この世界を生み出しているものは狂気であり、この世界が生み出すものも同様である。実相は狂ってはいないし、私には狂気の考えだけでなく、真の想念もある」と書かれています。

ここで通常のコース解釈では、世界とは狂気の産物であると捉えるわけですが、これ、おそらくですが、自分が世界だと思っているものが狂気の産物だ、という意味のようです。

例えば、W-pI.54.1:5 ですが、「私に見えている世界が私の思考の誤りから現れているのと同じように、私が自分の誤りを訂正してもらうときには、私の目前に実相世界が立ち現れる」とあります。

で、もちろんこれは通常、物理的な世界自体が消えることだと捉えるわけですが、ではなぜ、例えばW-pI.54.3:5-7 辺りで、あたかも、真の想念を他の人々と共有するかのようなことが書かれているのでしょう。

もし物理的世界自体も消え失せるのであれば、真の想念を他の人々と共有することもあり得ないことになります。

さらに言うと、W-pI.55.3:4 では、「赦しにより愛が私の自覚に戻ってこられるようになるとき、私は平安と安全と喜びの世界を見るようになる」とありますが、ここで言う「世界」とはなんなんですかね。

極めつけ(笑)はこちらになります。

「私は世界を、神の子の牢獄として見ている。それならば、世界は本当は神の子が解放される場所であるに違いない。私は世界をあるがままに眺めて、それを、神の子が自らの自由を見つけ出す場所として見たい」(W-pI.57.3:4-6)

つまり、こうした一連の流れは、物理的世界自体の幻想性ではなく、世界についての知覚の変容について、漸進的な記述になっているということです。

「私がこの世界を自由の場所として見るとき、世界が映し出すのは、私が世界に従わせようとして作り出した規則ではなく、神の法則であることがわかる。私は、戦いではなく平安が世界の中に宿っていることを理解するようになるだろう」(W-pI.57.4:2-3)

こうしたことはどうやら、実践のプロセスにおける、いわば「中間段階」に関することのようです。

例えば、ワークブックのレッスンは60までをこなせばよい、みたいな言説がまとこしやかにささやかれたりしているようですが、では、レッスン61から後のレッスンは、そもそも何のためにあるんですかね?

これは、不要なレッスンがこの後、だらだらと続いているということですかね?

イエスさんは、そんな無駄話を延々とヘレンさんに言って聞かせたんですかね?

とりわけ、レッスン132は、たまたまですが、ここで私が話した、世界に対する知覚の変容に関して、いわば「肝心要」の段階についての記述になっていますが?

レッスン132 は、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」とありますが、これ、「これまで「世界」だと思ってきたもの」というのを思っているのは自分であるということは、英語の原文だと明らかです。

要するに、自分の思い込みの世界イメージをこれ以上世界に投影し続けるのをやめる、というのが、このレッスンで学ぶことだというわけですが。

つまりこれは、実相世界への「入り口」となるレッスンですが。

ある意味で「転換点」となっているというぐらいのものがありますけど?

レッスンは60まででいいというのは、こうしたことすべて、学ばなくてもいいといっているようなものですが?

で、もちろんですが、レッスンは60まででいいと言っている人というのは、実は私の中にしか存在していません。

私自身がかつてそう感じたことがあるので、ということでした。

ですから私はただ自分のシャドウに向かって、文字通り「シャドウボクシング」を延々とやり続けていたというわけです、はい。

ちゃんちゃん。

さて、話がとんでもなく脱線しましたが、たとえばこうしたことを踏まえた上で先のことに戻ってみると、やはりこれは、「あなた」ではなく「彼」の方が、より実践的なことに関する記述だと受け取ることができる、と感じた、というわけです。

ですから、こうしたことが散見されることから推測されるのは、実相を見ることへの恐れがこうしたところに微妙に混入している可能性であり、それはまず、私が先に「中間段階」と仮に表現したことが、どうも曖昧なままになっていることによるということと、もう一つは、ヘレンさん自身が、ビルさんの神聖さを認めることがどうしてもできなかったという「背景」があるのではないかという気がした、というわけです。

なぜならば、もしヘレンさんが、ビルさんもまた神聖な存在であると認めようとしたらどうなるか。

今までに自分が積み重ねてきた無数の「悪事」、つまり、例えば自分は神の子を延々と攻撃し続けてきたという「実感」などですが、自分に無理強いしてでも真理に「屈服」しようとすると、こうした自分の「罪悪」にいきなり圧倒されてしまいかねません。

ですから、そんなことは到底認めることはできませんし、もしこんなことを強要されている感覚があったとしたら、それは抵抗感があって当たり前です。

ですから、実践はあくまでも自分の中でのことだとすることで、そうした「脅威」を「免れる」ことができる、ということになってしまいます。

ま、これは痛切な皮肉になってしまいますが。

というのは、まさにこうした感覚が幻想だということを体験から学ぶ、ということもまた、奇跡講座が教えていることの一つだからです。

ただし、こうした感覚がもたらす抵抗感は否認しない方がいい、というのは、自分の感覚を差し置いて真理を絶対視することは、一見するととても「真理に忠実な」ことのようですが、この感覚の「やばさ」をわかりやすく表現すると、これは事実上、真理の名を借りて自分で自分を霊的にレイプしようとする、あるいは自分が自分にレイプされかねない、という脅威を自分が自分に強引にもたらそうとしているような感覚だ、と言えば、その「やばさ」が少しは伝わるかもしれません。

ですからこの「脅威」は、直視されない限りは回避することが賢明でしょう。

さて、それはともかく、もちろんですが、こうしたことはあくまでも私の「推測」であり、実際はどうだったのかはもう分かりません。

なのでこれは「霊的ゲスの勘繰り」だというわけです、はい(笑)。

ではではー。

p.s.

画像は、「あくまでも天使」と名付けました。

これに関しては、以下を参照のこと。

「したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考える。そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする。彼らにとって、精霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならない。そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもない」(T-25.VIII.7)

ま、これはつまり、せっかく聖霊が自分を解放しようとして手を差し伸べているのに、彼らはというと、知覚が完全に狂っているために、まるで聖霊(天使)が悪魔であるかのように見えているため、聖霊が彼らに差し伸べる援助の手は、彼らを地獄へ引きずり込もうとして血の池地獄からぬうっと伸ばされた血まみれの手としか見えなくなっている、みたいなことですね。

ですから、一見すると天使のようだけど実は悪魔である、みたいな知覚とは裏腹に、どう見ても悪魔なんだけど実は天使だった、というのが「実情」だったというわけで、「あくまでも天使」というわけです、はいm(_ _)m

余談ですが、これはいらすとやの、天使と悪魔のそれぞれの画像を、ペイントで重ね合わせたんですが、はじめ、悪魔の画像に天使を重ね合わせたら、画像の天使の衣服は白ではなく透明だったため、衣服は輪郭だけになり、悪魔が透けて見えてしまったんですよね。

なので、天使の画像の上に悪魔を重ねたらうまくいきました。

ですから、自分の本性は悪だという信念の上に、いくら「善行」を塗り重ねても、所詮は自分の「悪魔性」は「透けて見える」わけですが、自分の本性は天使性だという実感があれば、それまで自分の本性だと思っていた「悪」とは、単にそこにかぶせられていたもの、つまり「仮性(けしょう)」でしかなかったとわかる、みたいなことも示唆していますね。

これがつまり、「闇による隠蔽は不可能である」(T-1.IV.1:1)ということでもある、つまり、自分がどれだけ、自分の本性は悪とか罪とか闇だかと「確信」し、また言い張っても、それが自分の本性である神の子や光を隠蔽することはできない、という意味なわけです。

ただしここは、「闇が隠れることは不可能である」、つまり、「あなたがどれだけ自分の闇を隠しても、所詮は「ばればれ」だからね」、という訳もまた成立しますが。

これは、元の英語は「darkness cannot hide.」だけなので、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「闇は隠れることはできない」という意味になり、「hide」を他動詞として受け取ると、「闇が(何かを)隠すことはできない」という意味になるからです。

テキストの序文

「テキスト」序文

1:1 これから奇跡を学ぼう。

1:2 これは必ず学ぶことになる。

1:3 学ぶ気になったときが学ぶ時だ。

1:4 意志の自由とは、何から何まで一から作ることではない。

1:5 それは、その都度何を学ぶかを選ぶことは可能だ、ということである。

1:6 このコースでは、愛がいかに有意義か、などと教えるつもりはない。

それはそもそも教わるものではない。

1:7 しかし、必ずや障害を取り除いて愛の「臨在」に気付いてもらうつもりだ。

愛の臨在こそが、あなたの「自然的遺伝」なのだから。

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語はあり得ない。

2:1 ゆえに、このコースは総括すると、たったこれだけのことだ。

 2:2 あるものはあるに決まってるし。

 2:3 ないものはやっぱりないんだよ。

2:4 これが本当にわかってくると、眼前に神の平安が広がるだろう。

以下、訳者による補足です。

まず、序文の翻訳で、見慣れない訳語が登場しますが、それに関してはここに出典を記しておきます。

「臨在」に関しては、これです。

https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E5%9C%A8-150335

「自然的遺伝」に関しては、これです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3#%E3%80%8E%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%9A%84%E9%81%BA%E4%BC%9D%EF%BC%88Natural_Inheritance%EF%BC%89%E3%80%8F

「包括者」に関しては、これです。

これらの言葉をヘレンさんが知っていたかどうかは分かりませんが、例えばヤスパースは、哲学者になる前は精神病理学者であり、精神病理学の古典的な教科書を書いた人なので、ヘレンさんもヤスパースの『精神病理学総論』は読んでいたでしょう。

それから、テキストの序文の最後に書かれている、「herein」について調べてみたところ、これはどうやら、法律や契約書などでよく用いられる言葉のようでした。

ですから、序文の最後の有名な言葉である、「実在するものは云々」の2つの文が、何か妙に堅苦しい印象があるのも、これは法律や契約書の言葉遣いだと受け取ると、それほど違和感はありません。

これはまた、このコース全体が、学校の必修科目のカリキュラムの体裁を取っていることと関連付けると、これは例えば教科の説明文という位置づけだとも受け取ることができます。

ここからは私見ですが、これはもしかしたら、ヘレンさんはきっちりとした内容のことに関しては、こうした契約書の言葉遣いを好むようなタイプだったのかもしれません。

なのでイエスは、ヘレンさんに伝わるような言葉遣いを選んだのかもしれません。

それはさておき、「契約書」ということから連想されたのは、旧約聖書も新約聖書も、「契約」の書、つまり「testament」であるということです。

ですから、このような書き方がされているのは、これはイエスと自分との間で合意した「契約」を表している、という捉え方も可能です。

いずれにせよ、こうしたことを踏まえて、「herein」には、「本契約により」みたいなニュアンスが含まれていることが覗われたため、この契約を履行する結果としてもたらされるものという意味で、「これが本当に分かってくると」と訳してみました。

ちなみに、「lie」単独で、「眼前に展開する」「目の前に広がる」という意味があるようです。

「闇からの脱出」に関して

闇から脱出するためには二つの段階を要する。その第一は、闇は隠すことができない、と認めることである。

こう踏み出すと、通常、恐れが出てくる。

第二は、たとえ隠すことができたとしても、隠した方がいいものは何もない、と認めることである。

こう踏み出すことで、恐れからの脱出がもたらされる。

何も隠さずにいようという気になったとき、あなたは聖餐(せいさん)にあずかる(コミュニオンに参入する)ことにやぶさかではなくなるだけではなく、平安とか喜びとはどういうことなのかがわかってくるだろう。

T-1.IV.1(ふう訳)

「闇は隠すことができない」と訳されている元の英語は、「darkness cannot hide」ですが、これは、田中訳でも大内訳でも、「暗闇は隠すことはできない」と訳されています。

ところが公認訳では、ここは「闇による隠蔽は不可能だ」と訳されています。

私は翻訳自体がない頃に奇跡講座の原書を入手したので、この辺りは自分で訳読したためにはっきり覚えていたので、公認訳の翻訳に衝撃を受けました。

どういうことか。

文法的には、これは、「hide」を自動詞と受け取るか他動詞と受け取るかの判別が困難です。

つまり、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「隠れる」という意味なので、「darkness hide」は「闇が隠れる」とか「闇が隠れている」といった感じになります。

しかし、「hide」を他動詞として受け取ると、これは、「隠す」という意味になり、ここは、「闇が何かを隠す」ということになります。

ところが、日本語で「闇は隠すことはできない」としてしまうと、これ、「あなたが闇を隠すことはできない」という意味も含んでしまうんですよね。

つまり、「闇は隠れることができない」というニュアンスです。

そのために公認訳では、誤解の余地のないように、あえて堅く訳したのだろうと感じました。

ここまでは文法としての理解ですが、これは単なる文法的な話ではありません。

「hide」を自動詞として受け取る、つまり、「闇は隠れることができない」、あるいは、「あなたが闇を隠すことはできない」というようなニュアンスは、「割と普通」なんです。

例えば、相手の「問題」を「暴く」とか、「あなたはもっと自分の闇をさらけ出すべきだ」といったようなことも、まさに、「あなたが自分の闇を隠すことはできない」、言い換えると、「闇は隠れることができない」という路線に沿っていますから。

要するに、「あなたがいくら自分の闇を隠して、自分には闇などございませんというふりをしても、あなたの闇はバレバレなんだよ」という意味なんですね。

ところが、「闇による隠蔽は不可能」というのは、これとは真逆になります。

くだけた言い方をするならば、これは、「あなたがいくら、自分の本質は闇だと言い張っても、あなたが本当は光だということはバレバレなんだよ、それをいくら闇で隠しても無駄だし」みたいな意味になるわけです。

こういう「衝撃」を裏付けるものとして、テキストから3箇所引用します。

聖性が真に闇の中に隠されることはあり得ないが、あなたはそれがあり得ることだと自分を欺くことはできる。あなたは自分の胸(こころ)の中でこの欺瞞があなたを怯えさせる。そしてあなたは、その欺瞞を実相に仕立て上げようとして莫大な努力を傾ける。

T-1.IV.2:1-2

自我が提供し得る体験からはあまりにかけ離れた種類の体験というものがあり、ひとたびそれを経験するなら、あなたは二度と再びそれを覆い隠したいとは思わなくなる。闇と隠蔽へのあなたの信念こそが、光が入ってこられない理由だということを、ここで繰り返す必要がある。

T-4.III.5:1-2

あなたは神の意志を恐れているが、その理由は、それが自分の意志ではないと信じているからである。……これを信じて、あなたは闇の中に隠れ、光が自分の中にあることを否定する。

T-11.I.10:3;10:6

というように、「Darkness cannot hide」を、「闇による隠蔽は不可能だ」、つまり、「闇が何かを隠すことは不可能だ」と受け取ることにより、他の箇所との整合性がとれます。

もちろん、「闇は隠すことはできない」もこういう意味なんですが、先に書いたように、これだけだと微妙になってしまうわけです。

ここで闇が隠しているものが、光や聖性だということになります。

ここまではよかったんですが、この記事を書くに当たって改めて調べてみましたが、他動詞の場合に、目的語が省略されるケースは、もちろん日常的な使い方としてはあるんですが、通常は目的語が省略されることはない、という「壁」にぶち当たりました。

つまり、「darkness cannot hide」だけだと、「hide」が他動詞であるかどうかはわからないというわけです。

で、日常的な場合に、目的語が文脈から明らかな場合には省略されることがあるようですが、ちゃんとした文章の場合には、まず省略されないのではという気がしました。

というのは、省略されると文意が曖昧になるからです。

しかし、もう一つややこしいのは、テキストの場合には、闇が隠すものと言えば光だろうというぐらい、目的語が省略されていたとしても明らかなので、やっぱりどちらにも受け取れるということです。

さらに、もう一つは、これは自分の心の中で、自分本来の光を隠しているというだけではありません。

『天国から離れて』、p.546によると、元々、この言葉は、ヘレンさんが「一生を通じて、イエスの光に背を向け、自分の自我の不安と価値判断や裁きという闇を隠れ処にし続けることで、イエスから逃げようとしていた」ことに対する言及だったようです。

つまり、他の人の光を自分の目から覆い隠すものとしての闇、についての言及だったようです。

で、「何も隠さずにいようという気になる」(公認訳では「何も隠さなくてもよいと思うようになる」)というのは、必ずしも他の人に対してではなく、自分自身に対してです。

つまりこれが、以下のことに関わってきます。

あなたが聖霊の前に闇を顕わにすれば、聖霊は闇に光をもたらす。しかし、聖霊には、あなたが隠すものを見ることはできない。

T-14.VII.6:4-5

だからこそ、「何も隠さずにいようという気になる」ことで、聖餐にあずかる(コミュニオンに参入する)ことができるようになるというわけです。

で、では、闇を隠さないことなのか、光を隠さないことなのかということなんですが、今のところの私の探求では、これは、自分自身に対しては、自分の中の闇を隠さないこととなり、世界や他人などに対しては、それらに闇をかぶせて捉えないこと、つまり闇で光を隠さないこと、という感じのようです。

ですから、この箇所の受け取り方としては、どちらもありなんですね。

なのでこれは、どちらの意味も含まれている「闇は隠すことができない」という表現でオーケーだ、と感じることができました。

で、第一のステップとして、「闇は隠すことができない」と認めることが恐怖を伴うというのは、これは、新しく恐怖を作り出しているのではありません。

この恐怖は闇の原因となり、闇をもたらしているものであり、「闇は隠すことができない」と認めることで、抑圧が少し解除されるために、怖くなってくるわけです。

ただし直接的には、おそらくですが、この闇は「罪悪感の暗雲」と何か関係があるのかもしれません。

ただし、この恐怖にもまた段階があり、例えば、闇自体が恐怖によるものだということと、もう一つは、自分が実は何をしているか、つまり、闇によって光を覆い隠そうとしていた、ということの自覚は、とても「恐ろしい」ものです。

その両方の意味で、ここでは、そこはかとなく恐怖がじわじわと感じられてきたり、場合によってはパニック的になったりします。

なので、奇跡講座の実践は、慎重に慎重を重ねてちょうどいい、というぐらいのこともあります。

実際、それぐらい、人が心の中に抑圧否認してきた闇は、人によっては、質・量ともに、とんでもないものになっている場合があります。

こうしたことは個人差がとても大きいので、一般論めいたことは言えません。

さて、第二段階あるいは第2ステップは、「隠すことは百害あって一利なし」ということを踏まえる、ということです。

ここで、原文では「you want」が入っていますが、実は、このフレーズは、「あなたは~したい」という文字通りの意味ではなく用いられることが多いようです。

詳しいことは、こうしたことに関して解説しているサイトに譲りますが、それを踏まえて私は、最初のように訳してみました。

ですが、何もかもをさらけ出さなければならない、ということではありません。

しかし、いずれはそうした状況になるのかもしれませんが、それは今のところの私にはわかりません。

ですが覚醒していくということは、いずれ、自分の内にも外にも全く隔たりがない状態になるのだろうという気はしています。

「聖餐にあずかる」とは、一つにはそういうことなのではないかという気がしています。

それから、「聖餐」と訳されている元の英語は「communion」ですが、wikiによると、これは、日本語訳聖書では二通りに訳されているそうです。

すなわち、「聖餐」や「聖体拝領」として訳されている場合と、「交わり」として訳されている場合とです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3

で、日本聖書協会のサイトから、聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳に関して、「聖餐」で検索をかけたところ、ヒットしませんでした。

つまり、「聖餐」という言葉は、少なくとも上の3つの翻訳の中では用いられていない、ということなのでしょう。

「聖餐」という言葉は、おそらく神学用語で、聖書読解や解釈の時に用いられる、のかもしれません。

キング・ジェームス版聖書には、「communion」という言葉は3回登場していて、そのどれもが、聖書協会共同訳では「交わり」と訳されています。

以下は、聖書協会共同訳から、当該箇所です。

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。

コリントの信徒への手紙1 10.16

あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。

コリントの信徒への手紙2 6:14

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

コリントの信徒への手紙2 13:14 (聖書協会共同訳では、13:13)

この3箇所です。

ちなみに、公認訳のこの箇所で「聖餐」と訳されている「communion」は、田中訳では「霊的交わり」、大内訳では「「神」と心を通わせる」と訳されています。

ですから、これらの異なる表現は、元はすべて同じ「communion」です。

さらに言うと、スピ系でも「コミュニオン」という表現は使われていて、例えば、バーバラ・ブレナンの本のどこかにも登場しています。

で、バーバラ・ブレナンはもちろん、これをこの世界の中で起きていることとして描写していますが、これは、ブレナンは、当人同士にコミュニオンが起きている状況を、それら全体を観察している「第三者」の立場から、言い換えるとその状況を「外部」から見ているためであり、当人同士にとっては、そのコミュニオンは心のレベルで起きていることとして体験されているわけです。

さて、コミュニオンが起きているときの様子を、別の箇所から引用します。

二人の兄弟がつながり合うということが、真に何を意味しているか、考えてみなさい。そしてそれから、世界を忘れ、世界の小さな勝利や死の夢のすべてを忘れてしまいなさい。同じ者たちはひとつのものである。だから今では、罪悪の世界について何も思い出すことはできない。部屋は神殿となり、街路は、病んだ夢のすべてを軽くなぞりながら通り過ぎていく星々の流れとなる。

P-2.VII.8:1-4

ですから、奇跡講座で言う「世界」とは、「私たちが世界だと思っているもの」のことであり、目の前に具体的に展開している現実のことではありません。

しかし、目の前に具体的に展開している現実(実相)に、今のところは、罪悪というフィルターがかぶせられています。

これが、テキストのこの箇所では「闇」と表現されています。

私たちの目からその闇が取り払われたとき、「部屋は神殿となり、街路は、……星々の流れとなる」わけです。

このように、「ベールを取り去る」(T-19.IV.D.i.h)ということが、奇跡講座全体を通していろいろな形で現れている変化のことであり、「闇からの脱出」もまた、「ベールを取り去る」ことのバリエーションの一つだと捉えることができます。

「闇から脱出する」のと「ベールを取り去る」のとでは、ずいぶんニュアンスが違って感じられますが、これは、イエスさんは、その時その時のヘレンさんに最も伝わる表現を選んでいるからなのだと思います。

構造的に表現すると、本人が体験する同じプロセスに関して、前者は他者側から、後者は自己側から、それぞれ表現したものだということができます。

これだけでは何のことやらなので、もう少し平たく言うと、自分がすべてのものにベールをかぶせて捉えている状況を「他人の立場」から捉えると、本人の周囲が闇に覆われていたり、本人に何か心の闇があるように感じる、という感じです。

ただし、自分の心の闇は通常、むしろ相手の心の闇や「自我」として感じるので、こうしたことは多層的な構造になっています。

では、今回はこの辺で。

ではでは~。

あと、追記しておきますが、自分の中に闇があると認識している自分は闇ではありませんよ、念のため。

激怒の構造

激怒する人は、なぜ激怒するのかを考えてみましょう。

このイラストにおいて、右側に描かれている人が、激怒する人です。

ところが激怒する人の心の中では、この状況は、実はこのように知覚されているわけです。

おわかりでしょうか。

形の状況では、激怒する人は確かに激怒しています。

しかし実は、激怒する人の心の中では、むしろ、周囲の人が潜在的に自分を攻撃しているかのように感じられていて、そして本人はそのことで脅えきっています。

だからこそ、「正当防衛」として激怒するわけです。

ですから奇跡講座では、攻撃は「愛を求める呼び声」だと表現しているわけですね。

「あなたが恐れを守ろうとしなければ、聖霊は恐れを解釈し直してくれる。それが、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である」(T-12.I.8:9-10)

「愛こそが世界の実相であり、あなたがその愛を見たいと思うなら、愛に対抗する防衛の一つひとつの根底に、愛を求める懇請が潜んでいることを認識する以上に良い方法があるだろうか」(T-12.1.10:1)

たとえばこうしたことは、意識の構造面からも説明できるというわけです。

また、2つめの引用から分かることは、防衛や攻撃とは愛を求めているのだと認識する目的は、自分が、世界の実相である愛を見たいからだということです。

まあ、そんなもの、別に見たくもないというのであれば、奇跡講座はそもそもお呼びではありませんが(笑)。

ここに書かれていることは、「もしあなたが愛を見たいと思うなら、このように認識するといい」ということであり、「愛を見たいか見たくないかに関わらず、このように認識しなければいけない」と書かれているのではありません。

構造的に言うと、「もしあなたがこうしたいのであればこうするといい」と書かれています。

言い換えるとこれは、「もしあなたがこうしたいとは思っていないのであれば、必ずしもこうする必要はない」ということです。

つまり、別に愛など見たくもないと思うのであれば、必ずしもこのように認識する必要はありません。

こうしたことは論理的な話です。

ですが、こうした文からはどうしても、「このようにしなければならない」というニュアンスを潜在的に読み取ってしまいます。

例えばこうした、潜在的な読み取りに無自覚で、それに完全に振り回されていることもまた、奇跡講座の学習を困難にしている要因の一つではないかという気がしています。

さらに言うと、私のこうした話も、「言葉を文字通りに受け取らなければならない」ということではありません。

あえて言うならば、言葉を文字通りに受け取るということに自覚的になってみると、自分が実は言外のニュアンスをいろいろと感じていて、しかもそのことに無自覚だった、ということに気がついてくる、ということが、ここで私が言いたいことです。

そして、こうしたことが、例えばワプニック博士の解説だと、ワークブックを練習するときに、ワークブックに書かれていることに対する自分の抵抗に着目するといい、というようなアプローチの仕方と関連してくるのでしょう。

さらに言うと、「もしあなたが愛を見たいと思うのであれば」という表現にしても、すでにここに、「あなたは当然、愛を見たいと思っているはずだ」というニュアンスが感じられます。

言い換えると、「「実は愛など見たくもない」と内心で密かに思っているあなたは、なんて「いけない」存在なのか」というようなニュアンスもまた、さらに奥には潜んでいるわけです。

こうした暗黙のニュアンスは、すべて、内心の罪悪感が完全に抑圧され、否認されていることに端を発しています。

さらに言うと、ここでは、「愛を見たい自分でなければならない」ということでもありません。

むしろ逆に、「私は愛など見たくないし、知りたくもない」という自分をはっきりと自覚することの方が、実は、学習上は「近道」です。

例えば、私は愛など見たくもないし知りたくもない、という自覚を持って日常を暮らしてみると、「実は愛を見たいし知りたいと思っている自分」に、否応なく直面「させられてしまう」ので(笑)。

ですから、実のところ、自分は愛を見たいと思っているということなんですけどね。

ここには例外はないというわけです。

ですが、はじめから頭ごなしにそのように捉えてしまうと、「実は愛など見たくもない自分」は、ますます否認されていきます。

「愛など見たくもない」という感覚は罪悪感と「相性がいい」ので、こうした感覚を否認していると、例えば、「実は自分は愛を見たいと思っていた」ということに直面したときに、「自分はその「事実」に「屈服」しなければならない」、といった認識を生じます。

ですから、こういう認識もまた、実は「罪悪感のなせる技」なわけです。

つまり、自分の意志に関わらず、無理矢理に、強引に仕向けられている、強いられているという感覚から立ち上がる認識です。

こうしたことは、実は実際には全く起きていませんが、ただ自分の中では、自分はまさに、相手や周囲からいろいろと強いられているという暗黙の感覚を強く持っています。

問題は、現実の人間関係では、自分も相手も、ある感情的な意図を持って言葉を使っているのが普通である、ということです。

自分が自分のありように、常に一定の「裏の意図」を含み持たせているために、相手の振る舞いにも「何か裏があるに違いない」と感じるわけです。

そうした状況の中では、他者とのコミュニケーションはそもそも成立しません。

そして、これが人間においては割と普通の状況です。

だからこそ奇跡講座では、私たちが普段、コミュニケーションだと思っているものは、実は全くコミュニケーションではないと述べています(cf. T-14.VI.6、15.IX.2)。

さて、初めのイラストに戻りますと、人はこのように、外見と内心とが真逆だというぐらいのギャップを抱えているのが通例です。

そのギャップが、実は、物理学的に言うと一種の「位置エネルギー」を生じさせるために、人はそれこそが「生きる意欲」だと感じます。

それは言い換えると、自分の中に常にある、ある種の「落差」が「原動力」になっている、ということです。

そしてそれは例えばこの場合ですと、この人が激怒するのもまた、「落差」を「埋め合わせよう」とする「位置エネルギー」の作用による、ということができます。

あるいは場合によってはそれは、外界や他者に働きかける力となる場合もあるでしょう。

ですから、癒やしがある程度進んでくると、以前のように生き生きとした感じがなくなってくるのは、自分の中のギャップが「低く」なってくるために、いわば、この「位置エネルギー」があまり生じなくなってくるから、というのもあるのでしょう。

そして、この「落差」がほぼなくなると、自分はまるで死んでしまったかのような感じにすらなってきます。

ですが実は、ここからが本当の始まりです。

これまでの「落差」は、いわば、この世界的な意味での落差、言い換えると「水平的な落差」だったのですが、その方向性が水平から垂直へと転換する(cf. T-1.II.6:3)ことにより、これは、神と自分との「落差」、あるいは、神の子である自分とこの世界の個人としての自分との「落差」、つまり「存在論的落差」というように転換します。

そうすることにより、自分は、神からもたらされる「位置エネルギー」の無限の供給を受けるようになります。

ただし、ここで言う「垂直的な落差」というのは、この世界での、高いところから低いところということではありません。

これは、いわば「意識の位置」のようなことです。

ですが、そのように知覚が転換すると、自分の見ている世界にもそれが反映される、つまりこれは奇跡講座で言うと「延長」ですが、そのことにより、すべての物事や対人関係の中に、潜在化した神と自分との関係を見いだすようになります。

そうすると、先の激怒している人は、実は、「神とは激怒している存在である」という先入観を無意識に持っていて、そしてそれを他の人の内心として投影して、そしてそれに対して脅えきっていて、そしてそれに対する「正当防衛」として激怒していた、というメカニズムが浮かび上がってきます。

そうすると、自分は「位置エネルギー」の「されるがまま」になり続けるのか、そうではない選択をするのか、という、「選択の自由」の余地が自分の中に生じます。

つまりここで、激怒する人は自ら物理的法則を逆転させる可能性を自分の中に見いだすことができます。

これが、「この交換(奇跡)は物理的法則を逆転させる」(T-1.I.9:2)の一つの現れとなります。

ただしこの段階ではまだ、これは心理的側面に限られていますが、例えばイエスが行ったような、水をワインに変えるといった奇跡もまた同様の仕組みが働いているのでしょう。

しかも、この段階ではまだ、物理的法則のもたらしている、ある種の強力な力にあえて逆らうという選択をしているように感じるため、こうした選択をすると、さしあたってはとてつもない抵抗感などが自分の中に生じます。

仏教では、「暴流(ぼる・ぼうる)」という言葉があり、これは、修行者が感じる、ある意味で暴力的なほどの意識の流れにあえて逆らうような感覚のことですが、おそらくはそうしたことを指しているのではないかと思われます。

ですが、テキストではこう書かれています。

「神の計画を、自分が成就したい唯一の機能として受け入れたなら、あなたが努力せずとも聖霊が他のすべてを手配するだろう。聖霊があなたの前を進み、躓きの石やあなたの行く手を阻む障害を一つ残らず取り除き、あなたの道を整えるだろう。あなたは、何一つ必要なものを拒否されない。困難と見えるものもすべて、あなたがそこに至るまでの間に溶け去っているだろう」(T-20.IV.8:4-7)

だからこそ、奇跡講座は、いわば「現代版易行道(いぎょうどう)」だということができます。

ただしそれは、道の容易さ(たやすさ)を全力で拒むことを、少しずつでもやめる気になるかどうかによります。

で、私もまだかなり、道とは困難なものだという信念に凝り固まっていますけどね(笑)。

いちお、テキストではこう書かれているということです。

最後はなんだか奇跡講座の宣伝になってしまいましたが、ですから、ま、易行道を行くと偉業をなす、ということですね。

で、意外かもしれませんが、実はイエスもこう言っているわけです。

「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書、11.29-30)

ここで「軛」と訳されているのは、英語では「yoke」ですが、これはおそらくは、「ヨーガ」のことです。

「yoga」もまた、「軛を付ける」というところから来ていますし、「yoga」と「yoke」はおそらく、同じインド・ヨーロッパ語族として、語源的につながりがあるものと思われます。

ヨーガとは簡単に言うと、心に一定のルールを施すことによって、神とのつながりを保持することなわけです。

ただし、外部からの「お仕着せ」ではなく、自発的に選択することが必要ですが。

「荷」というのは、言ってみれば、「心の重荷」のことでしょう。

つまり、このときイエスは、心がとても軽やかだったのでしょうね。

ですから、「私の軛は負いやすい」というのは、「私のしているヨーガはたやすい」ということだったのかもしれません。

言い換えると、イエスもまた実は、当時の文脈による易行道を行っていた、のかもしれませんね。

というわけで、「お開き」といたします。

奇跡講座テキストの序文について

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

奇跡は、例えば今まで自分を苦しめているとしか思えなかったものや人が苦しみの源泉ではなくなった、というようなことも含んでいて、奇跡講座で扱う奇跡とは、どちらかというとこうした方面、とりわけ、対人認知に「奇跡的な」変容をもたらすことに重点が置かれています。

こうしたことは、意識覚醒に伴って必然的に学ぶ必要のあることを含んでいるために、奇跡講座は、遅かれ早かれ誰しもが何らかの形で学ぶことになる、ある何かについての講座です。

ですが、形としての奇跡講座を学ばなければならない、というわけではありません。

同様のことは無数の教えの中でも言われていますが、ただ、奇跡講座はその方法論において、他の教えにはないものがあります。

ですが、ものごとにはタイミングがあり、学ぶことが可能な段階に至るタイミングは人それぞれです。

ですから、奇跡講座を学ぼう、学びたいと自発的に思った、あるいは感じたときが「その時」です。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

通常、人は、何を学ぶのかを自分で決めています。

それは究極的には、自我の言うことは本当だったと「再確認」する「学び」です。

まさにここから脱出する方策をもたらしているものが奇跡講座です。

ですから学びとは、その時その時に、自我の言うことを再確認するのか、あるいは聖霊のレッスンを学ぼうという意欲をあらためて抱くのか、その2つに1つを毎瞬毎瞬選んでいる、というところにあり、ここに自由意志を行使した選択の自由があります。

余談ですが、奇跡講座でいう「学び」とは、通常の意味での学びとは異なるようです。

通常だと、例えば、「5+3=8」といったことを学ぶことを「学び」だとしているわけですが、奇跡講座の場合には、例えば、「5+3=8」ということについて、自我の学びとして受け取るのか、あるいはそこに神の意味を感じ取るか、といったことを学ぶ、というような感じです。

ですから、自我ではなく聖霊のレッスンを学ぶという点において、この世界での出来事や対人関係は、例外なく教材として活用できる、ということになります。

ある形は聖霊からのもので、別の形は自我からのものだ、ということではなく、どんな形であっても、そこには、自我による捉え方と聖霊による捉え方とが必ずある、というような感じです。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

「臨在」と訳した元の言葉は「presence」ですが、これは、註1をご覧くださるとわかるようにキリスト教用語ですが、聖書の中で直接用いられているわけではないようです。

しかし、おそらくここでは「臨在」という意味であろうと思われます。

というのは、ただ、「愛は存在する」とだけすると、どうしても、ある場所や状況でのみ愛は存在するが、その一方で、愛が欠落している状況や場所などがある、という裁きを解消することができません。

奇跡講座の特徴の一つに、「例外がない」ということがあり、ここでもまた、そのニュアンスが感じられます。

もう一つ大切なことは、奇跡講座は愛について直接教えているわけではない、ということです。

そうではなく、その次のところに書かれていますが、愛の臨在に気がつくことを妨げているものを取り去る、ということが、このコースの狙いです。

これはまた、「ベールを取り去る」ということでもあります。

ベールが取り去られたとき、結果として、愛の臨在に気がつくようになる、という方法です。

だからこそ、奇跡講座は、「愛ではない」ものごとに重点を置いて解説しているわけです。

こうしたアプローチは、例えば、「ネーティ・ネーテイ」(註2)と呼ばれるものや、否定神学などにも見られます。

(否定神学に関しては、引用すると長くなるので、ウィキペディアをご覧ください)

また、原始仏教も実は似たところがあります。

こうしたアプローチも、一見すると否定的なようですが、それは、非本質的、非本来的なものごとを徹底的に否定していった結果、どのようにしても否定できない本質が結果として際立つ、という方法論のようなものがあるからです。

数学の証明に「背理法」というものがあり、これは、証明する結論をまず否定して、しかる後に、それでは矛盾が生じるということを論証して、そして、はじめに証明したい事柄は正しかったと結論付ける方法ですが、世界というものもいわば、一種の「神に対する背理法」のようなものとして存在している、という捉え方も可能です。

奇跡講座の場合には、否定神学のような「神は~ではない」という否定表現の代わりに、例えば「自我は~である」というような表現を重ねることによって自我を取り消し、結果として神がわかってくる、というようなアプローチです。

ですから、単なる否定神学よりは、「1段階層が深い」という言い方が可能かもしれませんが、いずれにしても、一見否定的な言説を重ねることによって、言葉を超えたところに至ろうとする、というアプローチの仕方は共通性があります。

ですから、例えば「神在り」という、知る人ぞ知る表現があり、これは、ただ神のみが実在するという意味ですが、奇跡講座的なアプローチの結果をあえて言葉で表現すると、「……結局神しかなかったのかよ。。。」みたいな感じになります。

こうしたアプローチの仕方をとっているために、奇跡講座は自我や罪や闇などについて延々と述べてはいますが、実は、奇跡講座は「愛についてのコース」(※)だというわけです。

※「これは、あなたについてのコースであるがゆえに、愛についてのコース(a course on love)だからである」(T-13.IV.1:2)

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対義語があり得ない。

ここでは、前半は二元性の中での対比としての愛と恐怖、そして後半が、非二元的な「何か」についての言及になっています。

ちなみに、「包括者」というのはヤスパース哲学の用語ですが、ヤスパースははじめ、精神医学者として世に出て、「精神病理学原論」という本を書き、それは西洋的な精神医学の基礎をなしています。

その後ヤスパースは哲学に転じ、「哲学的信仰」と呼ばれる独自の哲学を打ち立てましたが、「包括者」というのは、その中に登場する用語です。

それは、主観と客観に分かれる以前の存在そのものを指す言葉で、その包括者が、例えば主観としての自分と客観としての世界とに分かれて、現象として現れているのであり、そして、存在の包括性をもたらしているところのものが「超越者」、つまり神、と捉えられているようです。

そして、ヘレンもまた心理学者として、おそらく、「精神病理学原論」は読んでいたのではないかと思われます。

こうしたことから、あえてヤスパース哲学の用語で訳しました。

また、「The all-encompassing」というのは、神学的に神を議論するときに、神の性質の一つとしての、「全てを包括する存在」という意味で用いられる表現であり、哲学的立場としては汎神論に該当します。

汎神論と言えば、スピノザの哲学が、一般的には汎神論として知られていますが、ただし、調べてみると、ヘーゲルがスピノザの哲学を評して「無宇宙論」と表現しているようです。

無宇宙論とは、コトバンクによると、こう説明されています。

「神にだけ実在性を認めて、宇宙および宇宙の諸事物の実在性を否定し、それらを神や自我の一時的、仮象的な現れとする哲学説。ウパニシャッド、禅、またスピノザなどの哲学の類。無世界説。」

「宇宙あるいは世界の実在性を認めず、それを神や自我の様態または仮象と見なす思想。エレア学派やスピノザ・バークリーなどに見られる。無世界論。」

なんか、まんまですね。

ウィキペディアの「汎神論」の説明も興味深いです。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

さて、これは奇跡講座の中でも、あまりにも有名な「三行」ですが、ここで注意したいことがあります。

最初の1行目は、例えば公認訳ですと、「実在するものは脅かされない」となっていますが、こうした言葉から、普通は次のようなニュアンスを感じ取っています。

つまり例えば、「では、私は絶えず周囲から脅威を感じているので、私は実在ではないんだな。なぜならば、実在するものは脅かされないはずなのに、現に脅かされていると感じているのだから」というような、無意識的な推測をしてしまっていることがよくあります。

これは実は、ニュアンスが正反対になります。

この言葉が言っていることは、「だからこそ、安心していいんだよ」、という意味なんです。

つまり、この三行を平易に言い換えると、こんな感じになるわけです。

「あなたはまさに実在そのものなんだから、そのあなたが脅かされるなんてことは、本来あり得ないんだよ。つまり、自分が絶えず脅かされているかのように感じているのは、本来の状態を忘れてしまい、存在しないものが実在しているかのように感じているからなわけ。で、実在しないものは存在しないからね。ないものはないの。今のあなたは、ないものをあることにしようとして必死になっているんだから、そりゃ苦しいよ。だから、そういう知覚の間違い、つまりそれが、愛の臨在に気が付くのを妨げているものなんだけど、それを丁寧に取り去っていこうね。そうすれば、いずれ必ず神の平安を味わうことができるからね」

というわけです。

もちろん、先に書いたような推測は、普段はほぼ無意識的に行われているため、自覚されることはまずありません。

しかし、それを自覚し、そして、ここに書かれている本来の意味に立ち返ってみると、まさにそれが、自我の言うことを真に受けたことによる結果だということが、なんとなくおわかりいただけるかもしれません。

つまり、自我の言うことを真に受けた結果、自分は自我の感覚を自分の感覚として感じるようになり、そのために、自分が自我であるかのように感じている、というような感じです。

で、例えばこのように、奇跡講座の文章は、何か「愛あるダメ出し」みたいなニュアンスではなく、実は、自分を限りなく励まし、勇気づけてくれる内容なわけです。

こうしたニュアンスの逆転がなぜ生じるかについては、意識とはそもそもそのようにして成り立っているものだから、という感じのようです。

少し補足しますと、例えば、自我はあるのかないのかということについても、以下のように整理することも可能かもしれません。

これはつまり、自我は本来はありませんが、現時点では、まさに自我が実在しているかのような状況を味わっている、という、2つの捉え方が両立しているのではないか、ということです。

このように、自我はあるのかないのかという議論もまた、依って立つ大前提が異なると正反対の結論が出る、ということで、とりあえず納得するしかないようです。

ですから、まさに自我が実在するとしか思えない現時点での状況に対して、いきなり「自我はない」という言葉を適用すると、それは現状否認になってしまうわけです。

そうではなく、「自我は本来は存在しない」という観点から、「まさに自我が実在しているとしか思えない」という現時点での状況を捉える、というような感じになります。

註1 : 臨在(presence)とは、キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

註2 : 「ネーティ・ネーティ」はインド哲学用語であり、「しからず」という意味。アートマン(本来の自我)の不可説であることを表現したウパニシャッドに出てくる言葉。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の4章5節で、ヤージニャバルキャ仙人は妻マイトレーイーとの対話で、不壊不滅のアートマンを説くが、一切を認識するアートマン自身は何によって認識されるかというと、それは否定的判断によって「しからず、しからず」としか説明できないという。

(出典 : コトバンク)

奇跡講座 テキストの序文

序文

1:1 これは奇跡に関する講座である。

1:2 これはいずれ必ず履修することになる課程である。

1:3 ただし、いつ着手するかだけは自発性に任されている。

1:4 意志の自由とは、カリキュラムを自分で組み立ててもいいということではない。

1:5 その時その時に何を学ぶかを選ぶことができる、ということだけを意味している。

1:6 このコースは、愛の意義を教えることを目指しているわけではない。

愛の意義は、教えられてわかるものではない。

1:7 そうではなく、このコースは、愛は臨在するということに気が付くのを妨げているものを取り去る、ということを目指しており、そして愛とは、自分が本来そうであるところのものである。

1:8 愛の対義語は恐れであるが、「包括者」には対語義があり得ない。

2:1 したがって、このコースは、以下のようにとてもシンプルに総括される。

 2:2 実在するものが脅威にさらされている、ということはあり得ない。

 2:3 非実在なるものが存在している、ということはない。

2:4 ここに、の平安がある。

臨在(presence) : キリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また、人の行為を通して、神がはたらきかけたこと。
(出典 : コトバンク)

内容に関しては、https://wordpress.com/post/acim.home.blog/145 もご参照ください。

「ベールを取り去る」ことに関して

実際に奇跡講座に書かれていることについて、例えば、テキストの以下の部分を採り上げて、詳細に見てみたいと思います。

T-19.IV.D 「i. ベールを取り去る」というところをご覧ください。

ここでは、誰か兄弟に関して、その兄弟に対する知覚が具体的にどのように変容するか、について、ある整然とした流れ、あるいはプロセスとして、きわめて詳細に書かれています。

それを順番に見ていきましょう。

まず、第8段落から第11段落までは、一種の「心の準備」、あるいは「心構え」のようなことについて書かれています。

そして、第12段落では、兄弟は、「依然として異邦人のように見えている」(T-19.IV.D.12:1)存在として描かれています。

出発点においては、自分は相手に恐怖や罪悪感などに根ざす知覚を投影して、相手を攻撃していますが、「しかし、彼の手の中にあなたの救済がある」(12:4)として、ここから、相手の中にキリストを見るというプロセスが始まります。

そのために、「彼についてのあなたの解釈」(12:2)を心の中で手放すこと、つまり「赦す」(12:7)ことが必要となります。

これはまた、相手に対する先入観を「脇に置く」ことである、とも言うことができます。

要するに、相手の姿に自分が投影している先入観、ないしは解釈、を、自分の視界からどける、ということです。

これが、「自分の目から梁を取り除く」(マタイによる福音書、7.3-5。新共同訳では「梁」は「丸太」となっている)として、福音書でイエスが言っていることに相当します。

さて、第13段落において、兄弟は、「あなたに贖罪の聖杯を差し出している者」(13:1)として描かれています。

この段階において、相手は、「異邦人」から、「贖罪の聖杯を差し出している者」へと、知覚が少し変容しています。

ここでは、相手は、今まで自分が思い込んでいたような存在ではなかったのかもしれない、という可能性に対して、少し心が開かれた様子について描写されています。

だからこそ、攻撃の手は止んでいます。

そして、「あなたは彼の罪を理由に彼を咎めたいだろうか。それとも、彼からあなたへの贈り物を受け入れたいだろうか。救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか」(13:2-3)として、ここに、知覚における二者択一性が提示されています。

そして、その上で、「自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになることを思い出して、彼がそのどちらであるかを選択しなさい」(13:4)とイエスは言っています。

つまり、選択するのはあくまでも自分である、ということです。

ここでは、聖霊か自我かという選択が、具体的にどのようになされるのかについての描写の一つになっています。

そして、「あなたに彼の罪を赦す力があるのと同様に、彼の中にもあなたの罪を赦す力がある。あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない」(13:5-6)という箇所では、赦しとは、実は対関係において成されるものである、ということが示唆されています。

例えばこれ、つまり、赦しは実は対関係において成されるものだということが、今までの奇跡講座の理解および実践に欠落していた観点の一つではないかと思われます。

また、先と重複しますが、「あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない。だが、あなたの救済者はどちらの傍らにも立っている」(13:6-7)というのは、「だが」と訳されているのは「and yet」であり、これは、「それでもなお」「それにもかかわらず」というような意味があります。

ですからここでは、「あなたの救済者」とは、どうやら兄弟のことではないか、という可能性が思われてきます。

つまり、「自分で自分を赦すことはできないが、「相手こそが自分の救済者である」という事実は、実は双方に当てはまる」ということです。

また、ここで「傍らに立つ」と訳されているのは、「stand beside」という英語ですが、調べてみると、この表現には「味方である」という意味もあるようです。

ですからこれは、「あなた方はお互いにお互いの味方なんだよ」ということも暗に意味していることになります。

さて、ここで注意する必要があるのは、相手を「異邦人」として知覚したままの段階では、その知覚は自分の選択によるものであるということが、まだ見えていないので、このように、選び直すことはそもそも不可能である、ということです。

ですからここでは、自分の知覚自体に対して、心の中で「距離を置く」、という表現も、不可能ではありません。

いずれにしても、自分が知覚しているものは、自分が為した選択の結果であり、まずは、それらに対して距離を置く、つまり、「離れて見る」という心の姿勢が必要であり、これはまた、「戦場を超えたところ」(T-23.IV)ということとも関連しています。

このように見ていくと、ここでの選択とは、つまり、よくあるたとえで言う「映写機のフィルムを交換する」ことに相当しているのかもしれません。

では、先に進みます。

第14段落において、兄弟は、キリストとして描かれています。

「傍らに立つ」というのは、横とか隣というだけではなく、漠然と「そばにいる」という意味でもあるので、「傍ら」というにとどまらないことを思うと、相手のことを指していると受け取っても差し支えはないと思われます。

また、先に述べたように、「stand beside」には「味方である」という含みもあるので、ここの冒頭の、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリスト」(14:1)というのは、また、「あなたの味方であるあなたの友、キリスト」というニュアンスも持っています。

ですから、これはことわざで言う、「渡る世間に鬼はない」ということでもあるわけです。

ですが、ここで相手を「異邦人」、言い換えると「鬼」だとしたままでは、キリストに対して心を開くことができません。

無理にそんなことをしようとしたら、例えば、「鬼こそが自分の救い主である」というような、ややこしいことになりますから。

しかし、相手は鬼だというのは、幻想であるはずなのに現実だとしか見えず、それはもう、確信的なものがあるので、そうした場合には、まずは物理的に距離を置くことが先決です。

例えば、親との確執がこじれすぎてどうしようもなくなっている場合には、まずは距離を置くことが先決です。

その確信、つまり、どう見ても幻想が現実だとしか思えない、という状況の中で、こうしたことを行うのは、あまりにもハードルが高すぎます。

こうした、実際的な対処は、ときに極めて有用です。

さて、もしかすると、相手は自分の友、キリストだったのかもしれない、ということに対して少しずつ心が開かれてくると、知覚も次第に変容してきて、「この「敵」、この「異邦人」は、キリストの友であるあなたに今でも救済を差し出している」(14:5)ということが、次第に見えてきます。

ここは、翻訳だと少しわかりにくいですが、原文ですと、「キリスト」とは、この「敵」、この「異邦人」のことを指していることが分かります。

そして、「キリストの「敵」、罪の崇拝者たちは、自分が誰を攻撃しているのかを知らない」(14:6)というのは、三人称的な表現によってそれとなく伝えているわけです。

つまり、「あなたがしていることは、客観的に言うとこういうことだからね。「人の振り見て我が振り直せ」と言うよね」というようなことです。

もちろんこれは、私の「独自解釈」ですよ(笑)。

実際のところは分かりません。

さて、そうすると第15章では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)ということになります。

次に書かれている、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか。彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:2-3)とありますが、ここも、さりげなく重要です。

余談ですが、こうした私の理解は、実は、構造的な認識によっているのですが、「用語の解説」では、「「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である」(C-in.1:4)と書かれているんですよね。

なのでやっぱり、私のこうした理解は、「独自解釈」の域を出ていないのだと思います。

さて、そうした構造的な理解によると、ここに書かれていることは、まず、自分に赦しを差し出すことができるのは、ただ相手だけである、ということが書かれています。

そして、では、「あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」というのは、つまり、前半を受けていて、この2つで次のようになっています。

「相手が自分を赦すことができるために、自分は相手を赦す」

だからこそ、相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである、ということになります。

そして、自分が相手を赦すということを相手の側から見ると、相手にとっては、まずは自分が相手から赦されたという体験になっています。

そうすると、ここにおいてはもはや、特別な関係を維持する必要自体がなくなっているので、赦しを差し出すことが可能になる、というわけです。

そうすると、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:3)というのは、構造的には、先の、「相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである」ということを、他者側から見た様子であることが分かります。

つまり、ここで自分が率先して相手を赦すというのは、相手に、自分を赦す機会を差し出しているわけです。

で、さらに、これが実は日本語ならではの特徴なんですが、ここで、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」というときに、実は、この「自分」というのは、すでに、分離した兄弟の双方に当てはまっているわけです。

つまり、ここではすでにもう、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」ときに、相手が赦す「自分」というのは、こちら側のことであると同時に、相手自身のことでもある、という段階に、自動的に到達することになります。

これは、通常のコミュニケーションだと、誰のことを指しているのかが分からなくなってしばしば混乱する原因になりますが、キリスト意識にとっては、自他の分離を超えたところの主体性を簡潔明瞭端的に表現できる、実に便利な表現なんですね。

そして、面白いことに、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」というのは、実は、今から自分が行おうとしていること、つまり、自ら率先して相手に赦しを差し出すということ、を相手の側から見たとしても、全く同様の表現になる、ということです。

このように、このセクションでの記述は、構造的には、自分と相手の立場を入れ替えても、同様に成立することであることが分かります。

ただし、相手が自分を赦してくれるのを待っていると、何も始まらないわけです。

というのは、そのときに、相手もまた全く同様に、相手が自分を赦してくれるのを待っているからです。

つまりここでは、完全に自他対称的な状況があるわけで、このままだと、全く動きがないのですが、どちらかが率先して選択するときに、こうした一連の流れが始まるわけです。

ですからこれは、物理学で言う「自発的対称性の破れ」に相当しています。

または、「負けるが勝ち」とも言います。

この膠着状態を維持し続けることに対して「折れる」、つまり、「負けを認める」ことで、相手に赦しを差し出すことが始まり、そしてそのことによって自分に赦しが返ってくる、という流れが始まる、つまり、負けることによって勝つ、というわけです。

ですから、「あなたが兄弟に天国の恩寵を差し出せば、あなたは必ずそれを至聖なる友から受け取ることになる」(15:5)というのは、つまり、相手に赦しを差し出すというのは、天国の恩寵を相手に差し出すことだからでもあるからですが、そうすることによって、相手の姿を通して、至聖なる友、つまりキリストが、自分にも天国の恩寵を差し出してくれる、というわけです。

ですからここではもう、キリストがキリストを赦し、互いに天国の恩寵を差し出し合うという、「良循環」が生じることを意味しています。

その良循環について、「兄弟に、それ(天国の恩寵)を与えずにおかせてはならない。なぜなら、あなたはそれを受け取ることにより、それを彼に差し出すからである。そして彼は、あなたが彼から受け取ったものを、あなたから受け取るだろう。救いは、あなたがそれを兄弟に与えることにより受け取るようにと、あなたに与えられている」(15:6-8)というくだりで描写されています。

かくして、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る」(16:1)というところにたどり着くことができる、というわけです。

これ以降の記述は、もう、実質的には、ベールが取り去られた後のことですから、ここでは触れません。

このように、テキストのこのくだりには、実は、知覚の変容に関する漸進的な流れがあったということが、おわかりいただけるかと思います。

そして、テキストには、実は、こうした流れが至る所に見受けられます。

例えば、T-26.IX.1-3 を例に挙げてみます。

ごく簡単にしか触れませんが、第1段落では、自分の神聖さ、および、兄弟の神聖さについて、よく考えてみるようにと書かれていたり、ちょっと諭されている感じもあります。

そして第2段落において、兄弟を信頼することについての言及があります。

そうすると第3段落において、ある種の「奇跡」が起きた様子が描かれています。

ここにも、ちゃんとした流れがあるわけです。

例えばこのように、「現状 – 選び直す-変容する」というような流れで書かれているわけです。

ですから、こうした観点を持って奇跡講座を読んでみると、また新しい発見があるかもしれません。

ただし、念のために申し上げますと、ここで例に出した「ベールを取り去る」ことは、まずは実相世界に到達しないと、実質的には無理です。

というのは、知覚が根本的に逆転したままでは、これは、ものすごい困難や苦痛や、などを伴う、極めて困難で達成不可能なことを求められているように感じられるからです。

今まで、奇跡講座の実践がはなはだしく困難だった背景には、おそらくは、こうしたことがあるのではないかと思われます。

ですから、テキストは、第15章以降は、実践は具体的にこのような順序で展開していく、という流れがあるようです。

なので例えば、第30章に書かれている「決断のためのルール」を、それまでの実践の積み重ねなしに実行しようとしても、今ひとつうまくいきません。

というのは、第30章までに書かれていることが、実践的・体験的に理解されていないと、赦しとか平安とか愛とかに関して、実のところ何も分かっていない状態のままで第30章の実践に取り組むことになりますが、それは、ほとんど何も準備せずにいきなり高い山の登山をしようとしているというぐらい、無謀なことだからです。

つまり、第30章のタイトルが「新たなる始まり」となっているのは、ここまでに書かれていることが一通り実践できているからこそ、これは「新たなる始まり」だというわけです。
ですから、テキストの前半と後半で、いろいろな記述や描写が微妙に異なる理由として考えられるのは、テキストの前半は、主として純粋に理論的な話であるのに対して、後半は、実際に実践することに関しての話である、ということが関連しているのかもしれません。

さて、例えばこのように、奇跡講座に関して概観する趣旨の本を書こうと思っていて、この記事は将来的には、その本の一部となると思われます。

認識の枠組みと実相世界への橋

「1+1 = 2」について説明します。

まず、ここには1枚のコインがあります。

そして、ここにはもう1枚のコインがあります。

そして、これらのコインを並べてみると、これが、「1+1」の状態です。

ここまではいいと思います。

問題はここからです。

そして、これは「2」の状態です。

何かがおかしいと感じましたか?

おそらく、「「1+1」の画像と「2」の画像と、どこが違うのか?」と思われたと思います。

はい、実は、同じ画像です。

にもかかわらず、初めのものは「1+1」の画像であり、次のものは「2」の画像です。

ということは。

「1+1 = 2」というのは、実は、対象物が変わったのではなく、自分の側の認識の変化のことではないか、ということです。

つまり、対象物をどう捉えるかの、枠組みの変化のことではないか、というわけです。

ここから、例えば小学生が初めに足し算を習うときに、例えば、「みかんが3個、りんごが2個で、合わせて何個ですか」という問題が困難に感じる理由も、一つ推測できます。

それは、認識の枠組みの変化を、対象物の変化として捉えようとしているために、混乱が生じているのかも知れない、という可能性です。

では、このことを特に疑問にも思わなくなっている状態とは、もしかするとですが、認識の枠組みの方を見てはいても、対象物そのものはあまり目に入っていないのかも知れませんね。

こうしたことが生じる理由は、おそらくですが、脳内の演算量の節約です。

例えば、もし現実をありのままに捉えていたら、演算量が膨大になりすぎます。

しかし、例えば上の画像を、「コインが2枚ある」と、ざっくりとした枠組みで捉えると、ありのままの現実は、その枠組みに対して、いわば「背景」に退くために、かなりの情報処理量を節約できます。

言い換えると、画像に対して「キャプション」をつけるわけです。

そうすると、その「キャプション」に基づいて、画像に描かれている様子を推測するという方針が立つために、ありのままの画像を捉えるよりも脳の負担が軽くなります。

これはあくまでも一つの推測ですが。

そのために、人間の意識は、どうやら、ありのままの現実に対して、言わば「ワンクッション置く」ようにして、仮想現実を目の前に用意しているのではないか。

つまり、あくまでも、知覚された情報をソースにしてはいますが、そこに対して、ある一定の知覚(認識)の枠組みに基づいて それらの一次情報を取捨選択することによって構成された、一種の仮想現実(二次情報)を目の前に用意していて、その仮想現実が「現実」だとして生きているのではないか。

言い換えると、その仮想現実は、ありのままの現実に対して、自分なりの解釈を加える、つまり、情報に対する取捨選択がなされていることにより、いわば「情報量が間引かれて」いるわけです。

そして、そのことによって、何か脳にかかる負担が軽減されています。

そうすると、どうなるか。

これは、私が今夜の食事のために買ってきたコンビニ弁当です。

(自炊は今はちょっとお休みしています)

私がこれから食べるのは、果たして、この弁当なのか、それとも、仮想現実の中の弁当のイメージなのでしょうか。

この辺りで、「あるがまま」ということの意味が、何か少し見えてきた気がします。

さて、たまたま私は自分のことを例に挙げましたが、もしかすると、ここで、私が夕食にコンビニ弁当を食べたという話で、頭がロックオンされてしまった方もいるかも知れません(笑)。

人はそんなもんなんです。

つまり、事柄とかは「割とどうでもよく」て、人がどうしているか、どういう人なのか、といった、「ゴシップ」にしか初めから関心がないんですね。

私はここで、実はかなりの「恨み」(笑)を発散させていますが、それは、私が何をどれだけ話しても、人は、話されている内容はほとんど受け取らなかった、という「恨み」です。

話の内容ではなくて、例えば、「つまり、あなたは自分がどれだけすごいかをわかってほしいんですね」とか、なんだか、存在しない主体を一生懸命に見いだそうとして、本当にもう、「涙ぐましい努力」をしているようにすら感じることもあります。

その様子は、もう、「けなげですね」としか言いようがないこともあります。

あまりにも話があれかもしれませんので、ちょっと話の切り口を変えてみます。

さて、この動画をご覧ください。

例えば、この女性の方は、動画の0分51秒の辺りで、「私は目覚めたいのです」と話しています。

それに対してムージは、「なぜあなたは目覚めていないと考えるのですか?」と話します。

それに対して、女性は少し考えます。

これが、目の前で起きていることを「仮想化」しているときの「タイムラグ」です。

そして、この女性は、「私が目覚めているとは思えません」という「仮想の結論」を出します。

だんだんおわかりになったと思います。

ムージとしては、「あなたは初めから目覚めているのだから、ただそのことに気がつけばいいだけなのに」と思っているわけです。

ですが、この女性の方は、「私はまだ目覚めていない」という「仮想現実」を維持することに必死になっています。

ですが、この女性にとっては、実際に、自分はまだ目覚めていないとしか感じられていないわけです。

そのために、「あなたはすでに目覚めているんですが」という指摘を受けても、そのことを全力で否認することしかできません。

なぜなら、「自分は目覚めている」という事実は、認めるには「あまりにも恐ろしい」からです。

ですから、ここで強制的に、「目覚めた人」になろうとすると、「目覚めていない」と必死になっている自分を、実は「隠蔽」してしまうんですね。

おそらく、今までの霊的な教えで全くといっていいほど触れられてこなかったのは、ここではないかという気がします。

というのは、上で描写したように、「私はまだ目覚めていない」という、その女性にとっての「現実」は仮想的であるために、ムージの側からはまるで見えません。

ですから、ムージとしてはただ、「目覚めていることに気がつけばいいだけなのに」としか思えません。

ですので、例えば動画の1分33秒辺りからは、「”I am”とは、私は存在するという感覚です」というムージの発言に対して、その女性の側からは、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、「I am」が必死で受け応えているという、実におかしなことが起きてしまっているわけです。

つまりは、ムージのこの発言は、この女性にとっては、ただ「圧」をかけられているとしか感じられません。

なぜならば、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実の中にいる場合には、こうした「霊的な正論」は、ただのプレッシャー以上のものではないからです。

ですから、その女性は、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、一見すると、否定的な自己主張か、あるいはムージの言う「真理」に対する拒絶をしているようにも見えますが、実はこの女性は、おそらく、ムージの発言から感じた「圧」に対して受け答えをしているのではないかと感じられます。

そうすると、1分44秒でムージが、「”I am”が”I am”を見つけたいと思っているのです」という発言の真意も、なんとなく見えてくると思います。

ですから、こうした「仮想現実」は、ただもう自分をとことん傷つけるものでしかなくなっているんですが、それでも人は、ただそれだけしか自分を守ってくれるものはないからと、必死になってその「仮想現実」にしがみつくしか「選択の余地がない」と感じてしまっているわけです。

ですが、くどいほど申し上げますが、こうしたことは、私はいわば「第三者」の視点から捉えているので、このように、ある意味で「情け容赦ない」描写になってしまっていますが、この女性にとっては、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実が「現実」だとしか見えませんから、何もかものニュアンスか真逆になって捉えられているわけです。

まあ、ですが例えばこの女性が、何かムージの話を、子どもが必死に何かを訴えているのを受け止めているかのように、「共感する」気持ちで聞いていたとしたら、例えば、「あなたはとても素晴らしいことをおっしゃいますね」というようにして、一言でまとめることによって、その「脅威」を低減しようとします。

言い換えると、人は普通に、「この人はこういう人だ」「この話はこういうことだ」という「枠組み」に基づいて、一連の情報を整理します。

ですから、その枠組みに入らない情報を知覚すると、混乱します。

ですが、その反面、いったん形成された「枠組み」は、とても強固です。

「あの人は何か怪しい」という「仮想の結論」が出たら、もう「一巻の終わり」(笑)ですね。

すべての言動が、「怪しさ」に関連付けて捉えられるようになりますから。

そうすると、その人は実際にも「怪しい人」であるとしか見えなくなっていきますね。

例えば、自分自身のことも含めて、人に対するイメージは、得てしてこのようにして形成されていきます。

まあ、奇跡講座の学習者であれば、こうした仕組みが何を意味しているのかが、薄々感じられてきたと思います。

だからこそ、こうした枠組みはもう不要だから、少しずつでも取り去っていこう、というのが奇跡講座なわけです。

で、どこかに私は、「一次情報」と「二次情報」という言葉を用いましたが、一般的に言う「あるがまま」の状態とは、実はまだ、「一次情報」に対して、すべてを真逆に捉えるようなフィルターをかけていない二次情報、が見えるようになった段階です。

つまりはおそらく、奇跡講座で言う「実相世界」とは、このことなのかもしれません。

問題は、この一次情報自体もまた、「それ」そのものではない、ということです。

ですが、例えばよく言う「世界は幻想」というのは、この一次情報自体もまた幻想である、というところに言及している印象があります。

そうではなく、二次情報のニュアンスが逆転していることが、「世界は幻想」ということの、とりあえずの意味です。

ですから、この「逆転現象」が根本的に回復するときに、自分から見ていると、あたかも何もかもが狂ったかのように見えますが、それこそが、知覚の転倒が根底から訂正されていく、まさにその渦中であるために、一時的に何もかもがわからなくなるわけであり、このことをテキストでは、「実際に方向性を失ったような感覚」(T-16.VI.7:4)と書かれていますが、これは、元の言葉は精神医学の用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」と訳される言葉であり、私の体験からは、この方がより的確に表現されています。

例えば、自分が誰なのか、今が「いつ」なのか、「ここ」はどこなのか、とか、そういった、基本的な現実感覚ですらも、一時的には不安定になります。

場合によっては、世界が今にも滅亡していくのではないかとか、他の人が自分を陥れようとしているとか、世界が自分を抹殺しようとしているとか、とにかく、自我が必死になって隠蔽しようとしてきた、ありとあらゆる「心の闇」が洗いざらい出てきます。

ですが、そうしたことは一切合切、ただ通り過ぎていくことです。

しかし、例えばこの前に、他の人とものすごい敵対関係にあったりとか、そうした問題を抱えていると、ここで体験される感覚が現実のものだとしか思えなくなります。

例えば、極端に言うと、「あの人が自分を失脚させようとしている」とかの「証拠」を、世界の至る所に感じたりもします。

あるいは、他の人の心の中に、「悪意」や「敵意」などをリアルに感じたりもします。

にもかかわらず、他の人から見ると、そんなことは何一つ起きていません。

ですから、「あの人は何かおかしなことを言っている」としか見えません。

テキストでは割とさらりと書かれていますが、実際にはこうしたとんでもない内的混乱を通過します。

もちろんこれは個人差がありますから、必要以上におびえる必要はありません。

ただ、全く何もないということは、おそらくありません。

なぜならば、それまで転倒していた知覚が根底からひっくり返るということは、自分にとっては、現実そのものが根底から揺らぐ体験として感じられるからです。

この、「ぐれんとひっくり返る」時期自体は、実はそれほど長くはなく、「急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定化された状態から解き放つことのみである」(T-16.VI.8:3)という局面において、上に述べたようなことが起こります。

ここでようやく、「自我があなたに差し出した救済の真似事」(T-16.VI.10:1)から、脱出できるわけです。

そして、橋を渡る前には、「それ(天国)はあなたの外にあって、橋の向こう側にあるように見える」(T-16.VI.11:2)わけですが、「天国につながる」(T-16.VI.11:3)ために橋を渡ると、「天国があなたにつながって、あなたとひとつになる」(T-16.VI.11:3)わけです。

これは、どこか遠いところで起きるのではありませんから、あたかもこれが、どこか遠いところで起きるものであり、自分にはとても手の届かないものであるかのような捉え方とは、つまりは、まだ橋を渡っていないのに、橋を渡ることについて述べているということです。

そして、橋を渡るために必要なことが、まずは、「聖霊の視座を共有しようというあなたの意欲」(T-16.VI.12:2)と、もう一つは、「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識すること」(T-16.VI.12:5)であり、そのことによって、「聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる」(ibid.)というわけです。

そして、「無は無でしかないのだから無を手放そうという単純な意欲」(T-16.VI.10:7)というのが、つまりは、自我をつなぎ止めている自分の中の「引っかかり」を手放すことになり、ここで自我から自由になることができます。

で、ちょっと「ちくっ」(笑)とすることを書き添えますと、「神は橋の向こう側にいて、こちら側にはまったく何も無い」(T-16.V.17:2)のですから、「神はこの世界には介入しない」というのは、つまりは、単に自我の枠組みの中には神は入ってこないということであり、実相世界自体のことではない、ということです。

もちろん、自我の機能は神を締め出すことですから、これは当然ですが、それは、上で言う仮想現実の中、つまり、先ほど引用した表現で言う「橋のこちら側」には神は不在だ、ということです。

しかし、橋を渡る前は、その仮想現実こそが現実だと見えています。

さて、こうして、ただひたすら「通り過ぎていく」ことにより、やがて「赦された世界」(T-17.II.h)が見えてきます。

ここに至って、実相世界は確固たる現実として感じられるようになります。

橋を渡り終えると、この世界は実際にこのように感じられてきます。

「この麗しさは空想ではない。これは実相世界であり、広々とした青空の下ですべてが光り輝く、明るくすがすがしい新しい世界である」(T-17.II.2:1-2)

これは、実際にそう感じられますから、某ワプニック博士の大好きな「暗喩」ではありません(笑)。

(博士、茶化してすみませんm(_ _)m)

さて、まあ確かに、橋を渡り終えた直後は、まだ、こうした表現は「文学的な比喩」程度ですが、いずれはやがて、これは肉眼でもリアルに感じられるようになる、つまりは、実際にすべてが光り輝いているのが見える、というような段階があるのだろうと、私は予想しています。

ただしもちろんですが、こうしたことは、「世界は幻想」とまではとてもまだ遠いように感じられるかも知れません。

ですから私は、こうした自分の体験からの理解が絶対的なものだとは思いません。

単に私には、このような「回りくどい」道しかたどることができなかった、というだけのことかも知れませんから。

ただ、まあ一応ですが、T-16.VII のタイトルは、「幻想の終わり」となっています。

で、T-17.II.2:4 には、この橋は実は、とても小さくて楽々と渡れると書かれていますし、実際に、この橋にたどり着くまでの労苦を思うと、ごくわずかな努力しか要しません。

しかし、「この小さな橋は、この世界に少しでも触れているものの中で最強のもの」(T-17.II.2:5)であり、まさにここに至って、この世界はそれまでは、大変「いい」ところに思えていたとしても、ここですべてが「暗転」して、いきなり、橋のたもとには、ありとあらゆる「脅し文句」が書かれているのが目に入り始めます。

というのは、この橋を渡って無事に帰ってきた人は誰もいないのと、途中で引き返してきた人は、みな一様に、気が狂ってしまっていたので、この橋は何かとても恐ろしいものに違いないという「伝説」ができあがってしまっているからです。

実は、橋を渡り終えた人は意外にいる、ということが、橋を渡り終えるとわかってきますが、そうした人は、市井の中で普通に暮らしていて、たぶん、本人は自分が橋を渡り終えたことすらも無自覚の場合がほとんどでしょう。

そして、「最も小さな木の葉でさえも感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる」(T-17.II.6:3)というのは、橋を渡る前だと、この幻想世界の中にも、神の創造の片鱗は見られる、というように捉えられますが、橋を渡ると、これこそがまさに神の創造であると感じられるようになります。

で、ここまで来て、はじめて、奇跡講座に書かれていることが本当の意味でわかり始めます。

おそらくは、この文章は、学習者によっては、ものすごく反感を感じたり、あるいは際限のない疑いの気持ちや、場合によっては激しい憎悪や激怒をもたらすかも知れません。

抑圧されている感情のすさまじさは、私も身をもって嫌と言うほど体験してきました。

ですが、橋を渡ることに関するガイダンスが、あまりにも少ないという現状から、私は書きました。

でないと、すでに橋を渡るところまで来ているにもかかわらず、その手前で立ち往生している方があまりにも多いと感じられるからです。

それはとてももったいないことです。

さらに言うと、世界はそろそろ、総体としても、この、実相世界への橋を渡る段階に来ています。

ここを渡り終えると、この世界はそのまま、天国を反映したものになります。

正確に言うと、そうしたものとして知覚されるようになります。

そして、これは例えば、禅で言うならば「魔境」であり、また、巫病やシャーマンの病と呼ばれるものもこれに酷似していることから、おそらくは、この橋に関する知識は、全世界に見られるのではないかという気がします。

ただし、今までは、この橋を渡った人はごく限られていましたが、これからの時代は、おそらくは、橋を渡る人と渡らない人とに、どうしても大きく二分されてしまうのではないかと思われます。

これは別に私が特定の人にダメ出しをするとかではなく、橋を渡るかどうかは、ひとえに一人一人の自発的な意欲と選択にのみかかっているからです。

でも、こうした私の発言もまた、先ほどの「仮想現実」の中では、例えば、「この人は、自分こそがすべてを裁くと言っているぞ」とか「私は絶対に正しいから、私の言うことを聞きなさいとは、なんて偉そうな」といったように感じるわけです。

ま、そういうわけですんで、異論・反論はもちろんありますから。

私は別に、自分こそが絶対に正しいとは思っていませんが、読む人によってはそう感じるでしょうし。

なので、そうした場合にはもう、ただ「無」を手放してくださいとしか言いようがありません。

本当に、それぐらい人は、文字通り「幻想の世界」の中を生きています。

そこからの脱出がいかに容易ではないか、しかしその一方で、脱出してみると、どうしてこんなにたやすいことが今までできなかったのだろうと感じるのもまた、事実です。

なんか、初めは、「1+1=2」に関する気づきをシェアするだけのつもりでしたが、途中から、何かとんでもない方向に話が展開してしまいましたが(^_^;)

で、ここに書いた、「一次情報」と「二次情報」とかの区別は、まだ思いつきの段階ですので、これから、いろいろと細部に関しては変化があるかも知れないので、あまり厳密に受け取らないでいただけるとありがたいです。

奇跡講座の本質

神は、罪というものが根本的にわからないので、人間の価値判断の感覚で言うと、神は「究極のアホ」です。

人がただ、こんな自分では神に愛されないとして、ただ延々と自分を裁き続けているだけです。

しかし、人は裁く機能を神に投影して、神に裁かれていると知覚します。

つまり、本当はただ自分が裁いているのですが、それを、自分が神に裁かれているということにしています。

これもまた、自我による解釈の一つです。

ですから、早い話、罪悪感を日本語で言うと、「気が咎めている」ということです。

この言葉は慣用句になりすぎているために、元の意味がわからなくなっていますが、この言葉をよく吟味すると、わかってくるでしょう。

なので逆説的ですが、「真面目な学習者」としてのアイデンティティーをかなぐり捨てると、本当の意味で奇跡講座の学びが始まります。

真面目に、真摯に奇跡講座を学ぼうとしている間は、実際には、ただ「気の咎め」を強めることに終始しているだけ、ということが、往々にしてあります。

奇跡講座や、そして奇跡講座だけではなく、特定の教えや人物を自分自身より上位に置く、つまり絶対視することは、「先導者と追従者」(T-31.II.3-7)という、関係性に対する心の中の構図を、特定の人物や教えに対して投影することです。

書籍になった奇跡講座は、「普遍なるコースの特別な一形態」(M-1.4:1)であり、その主要な目的は、キリスト教の訂正であり、聖霊による再解釈です。

ですから、このまま日本人が学ぶと、人によっては、いわば「乳糖不耐症」のような弊害が起きます。

なので、奇跡講座という形態を通して「普遍なるコース」という内容を感じ取る、という姿勢が必要になります。

普遍なるコースの幾千もの形態はすべて「月を指し示す指」であり、普遍なるコースという内容は常に「ただ月を見よ」であり、形態の違いは「いかにして月を見るか」です。

それは、月の見方についての議論や「月を見ようとして頑張る」のでもなく、ただ実際に月を見ることなので、それは特別なことではありません。

問題は、実際に月を見た人は、他の人から「あの人は自分は特別だと言っている」と思われてしまうということです。

「普通に月が見えます」というのは、なんら特別なことではないのですが。

実は、「私たち、月が見えないよね」ということ、つまり、普段の状態こそが特別なことなのであり、その特別性に愛着を抱き、固執し続けることが、この世界では「なんら特別ではない」と思われています。

これぐらい、普段の感覚は、言葉の意味が実際とは真逆になってしまっています。

ですから、奇跡講座は「ただ月を見ようね、そしてこうすれば誰でも確実に月が見えるようになるからね」と言っているだけなのに、通常は、「月が見えないあんたはだめね。月に代わってお仕置きよ」と言っているように思われている、というようなもんですわ(笑)。

ただし、細かいことを言うと、「月を見る」ことが必要だった時代はもう終わっていて、今はもう、とっくの昔に、「自分の内なる太陽を思い出す」時代になっています。

ですが、「月への愛着」が捨てきれずにいたために、心の中に多大な「摩擦」が生じていました。

ですから、奇跡講座の内容(実は、「形態と内容」についての奇跡講座の定義からは、これもまた「形態」ですが)もまた、いわば「月の時代」の名残と「太陽の時代」の兆しとの間で、「表記の揺れ」が見られます。

こうした時代の要請から、「風の時代のコース」を個人的にアウトプットしていますが、ブログで書いていることはまだ、「構想のメモ」程度であり、いずれ、全面的に加筆修正して、まとまった形として公表する予定です。

ただし、ネタは完全無料公開ですので、これを膨らませてくださればそれで充分です。

奇跡講座の赦しのメモ

いろいろと、内的に波乱が続いているが、マジでもう何もかもわからない(いい意味で)。

ただ、手放すと楽になる、というのは事実。

そしてこれは奇跡講座では、「赦しが幸せへの鍵である」(レッスン121)、およびレッスン132-134に対応している。

ここで、赦す対象はあくまでも、自分の心の中のイメージや先入観などである、ということが大切である。

おそらく、奇跡講座の実践における困難さの一つは、ここで、赦す必要があるのは、実際の事物や人物だとしてしまうことではないか。

そうするとそれは、従来の意味での「許し」になってしまう。

奇跡講座はあくまでも、自分の心の中のことに関しての言及である。

そうすると、現実の世界(実相世界)、つまり、「ありのままの世界」が見えてくる。

ただしもちろん、実際の実践は、もっと複雑な様相を呈する。