言葉遣いがだんだんお下品になってきましたが、学習者であればきっと赦してくださると信じて(笑)、このタイトルで行きます。
ただしこのタイトルは、「霊的「ゲスの勘繰り」」なのか「「霊的ゲス」の勘繰り」なのかによって、意味が微妙に異なってきますが。
それはともかく、たまたま開いたテキストの個所を編集前のテキストと見比べていて、代名詞などが微妙に変更されていることが気になり、これはどうかと思ったんですね。
ただしこれは別に恣意的な改変ではなく、変更後の文章、つまりFIP版ですが、この方が文章の流れとしてはすっきりしたものになっています。
言い換えると、編集前のテキストだと、そうした代名詞の使い方は、微妙に違和感を感じさせるものなので、変更されたのはもちろん、それはそれで気持ちはわからなくもありませんが、しかし、もしもこの編集前の代名詞の使い方でよかったとすると、ちょっと気になる可能性が浮かび上がってきました。
先に結論を言うと、これは、もしかするとヘレンさんは、ビルさんもまた神の子であり神聖な存在である、ということを認めることに、何かとてつもない抵抗があったのですが、しかしそのことを決して自覚することができずじまいだったことによるのではないか、という可能性が感じられます。
というのは、これらの個所は、変更前は、兄弟とともに実践する、あるいは兄弟に対する見方に関して実践するような描写になっている可能性があったところが、現行のテキストでは、ただ自分の中だけで実践が完結するものであるかのように、代名詞が変更されているからです。
ただしこれは、ダブルミーニングであった可能性がある、つまり、対人関係における実践とも、自己内完結型の実践とも、どちらとも受け取れるため、代名詞を変更したとしても、それは致命的な間違いということではない、ということは念を押しておきます。
というのは、自分が知覚する兄弟の姿は自分の心の中にある、というワンクッションを挟むことで、ここのずれは解消されるからです。
ただし、こうした事実からは、このずれを持ち込むことにより、奇跡講座によってイエスさんが伝えようとしたことのうち、対人関係的な側面が抜け落ちてしまったということも、同時に示唆されていますし、このことはまた、私がテキストとワプニック博士の解説とを照らし合わせていて感じた違和感とも合致します。
では、具体的にみていきますね。
T-14.VII.6:10 なんですが、ここで公認訳のテキストでは「あなたたちの両方が一緒に」というところの「あなたたち」が太字になっています。
つまりFIP版ではここは、「both of You together」と大文字になっていますが、この箇所は編集前のテキストでは小文字の「you」でした。
これはどういうことかというと、つまり、FIP版ではこれはおそらく、聖霊と自分とのことを指していると捉えたのでしょう。
そのため、ここには聖霊が含まれているということと、自分は神の子であるということから、「You」としたのではないかと推測されます。
しかし、編集前のテキストではここが「you」となっていたことから示唆されるのは、これは、自分と相手のことを指していた可能性があるわけです。
つまり、編集前の場合にはここは、「兄弟と一緒に、聖霊の光と自分の暗い秘密(cf. T-14.VII.6:8)を見てみよう」ということなわけですが、FIP版ではこれは徹頭徹尾、ただ聖霊と自分とのことであると捉えられる表現になっている、というわけです。
ただし、繰り返しますがこれは、「You」とした方が話の流れとしては「自然」になります。
というのは、この辺りの話は聖霊は登場していますが、ここだけいきなり兄弟が顔をのぞかせるのは、いかにも唐突すぎる印象があるからです。
なので、「you」ではなく「You」とした方が「心理的に自然」な感じがする、というのは実際あります。
しかしここで、兄弟との対人関係ではなく、あたかも自分の中だけのことであるかのようなことになったというのもまた事実です。
要するにこうしたところでは、兄弟と聖霊とが重なって表現されているために、どちらとも受け取れるような言葉遣いになっている、という可能性が考えられるからです。
では、もう一か所挙げてみます。
T-11.II.3:2-7; 4:1-2 ですが、ここは公認訳と、それを基に、編集前のものを仮に訳したものとを並列させますね。
(公認訳)
あなたは自分の一部だけを否定することはできない。そうするなら、残りの部分は分離していて意味がないかに見えるからである。そして自分にとっては意味なきものとなったそれを、あなたは理解しない。意味を否定するとは、理解できなくなるということである。あなたに癒せるのは自分自身だけである。なぜなら、神の子だけに癒しが必要だからである。あなたにそれが必要である理由は、あなたが自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、あなたには自分が本当は何を望んでいるのかがわからない。
癒すということは、全一にしたいとあなたが望んでいるしるしである。そして、この意欲により、あなたの耳は、全一性のメッセージを伝える聖霊の声を聞こうとするようになる。
(編集前)
自分の一部を否定する、ということはできない。というのはそうすると単に、残りの部分が、未統合であるがゆえに意味がない、というように見えるからである。そして自分にとって意味がないので、それを理解することができなくなる。意味を否定することは、理解しないようにするということである。
あなたにできるのは自分自身を癒すことだけである。神の子だけが癒しを必要としているからである。彼にそれが必要である理由は、彼は自分自身を理解せず、したがって、自分が何をしているのかわかっていないからである。自分の意志を忘れてしまったので、彼は自分が何を望んでいるのかがわからない。癒しとは、彼は全一にしたいと望んでいる、と告げることである。そしてこの意欲が、彼自身の耳を聖霊の声に対して開く。聖霊のメッセージは全一性である。
以上です。
編集前のテキストでは、段落の区切りが異なっています。
というわけで、現行のテキストではここは、自分に対してのことであるとされていますが、編集前のテキストではここは、「彼」のことであるとされています。
これは、『神の使者』のこの言葉を連想させます。
「内側を赦すための唯一の方法は外側にあると思えるものを赦すことだ」(p.226)
これはゲイリーさんが感じた以下の疑問に対するアーテンの答えです。
「ちょっと待って。憎悪や罪悪感を含めたぼくの心の中身は象徴的にぼくの周囲に存在するのだとしたら、外部だけを認識する身体と脳にしばりつけられているぼくがほんとうに自分の内側を見ることなんて、どうしたらできるんだろう?」(ibid、p.226)
だからこそ、内側を赦すために相手の姿を見る、というのは、方法としてまさにそのまんまだというわけです。
なぜなら、自分が、相手の姿だと見ているものは、自分の心の中の投影だからだ、というわけですね。
なので先の箇所は、「あなた」ではなく「彼」だとすると、極めて実践的なことが書かれていたことになる、と私は感じたというわけです。
ただしここで、「彼」ではなく「あなた」だとすることは、相手は実際はどうなのか、ということにアプローチすることを回避することになりかねません。
つまり、自分の知覚は本当に幻想だったということを検証する機会を自ら閉ざすことになりかねません。
そうすると、果たして訂正がうまくいっているのか、それとも間違いをさらに隠蔽してしまっただけなのかを知ることができなくなります。
これは例えば、ワークブックのレッスン52の次の記述とも絡んできます。
「実相は決して恐ろしいものではない」(W-pI.52.1:2)
つまり、実践が自己内完結しているとき、それは同時に、実相は果たしてどうなのかを知ることを回避しているということです。
で、以下は私なりの理解であるということをお断りした上で述べます。
例えば、W-pI.53.1:3-4 ですが、「この世界を生み出しているものは狂気であり、この世界が生み出すものも同様である。実相は狂ってはいないし、私には狂気の考えだけでなく、真の想念もある」と書かれています。
ここで通常のコース解釈では、世界とは狂気の産物であると捉えるわけですが、これ、おそらくですが、自分が世界だと思っているものが狂気の産物だ、という意味のようです。
例えば、W-pI.54.1:5 ですが、「私に見えている世界が私の思考の誤りから現れているのと同じように、私が自分の誤りを訂正してもらうときには、私の目前に実相世界が立ち現れる」とあります。
で、もちろんこれは通常、物理的な世界自体が消えることだと捉えるわけですが、ではなぜ、例えばW-pI.54.3:5-7 辺りで、あたかも、真の想念を他の人々と共有するかのようなことが書かれているのでしょう。
もし物理的世界自体も消え失せるのであれば、真の想念を他の人々と共有することもあり得ないことになります。
さらに言うと、W-pI.55.3:4 では、「赦しにより愛が私の自覚に戻ってこられるようになるとき、私は平安と安全と喜びの世界を見るようになる」とありますが、ここで言う「世界」とはなんなんですかね。
極めつけ(笑)はこちらになります。
「私は世界を、神の子の牢獄として見ている。それならば、世界は本当は神の子が解放される場所であるに違いない。私は世界をあるがままに眺めて、それを、神の子が自らの自由を見つけ出す場所として見たい」(W-pI.57.3:4-6)
つまり、こうした一連の流れは、物理的世界自体の幻想性ではなく、世界についての知覚の変容について、漸進的な記述になっているということです。
「私がこの世界を自由の場所として見るとき、世界が映し出すのは、私が世界に従わせようとして作り出した規則ではなく、神の法則であることがわかる。私は、戦いではなく平安が世界の中に宿っていることを理解するようになるだろう」(W-pI.57.4:2-3)
こうしたことはどうやら、実践のプロセスにおける、いわば「中間段階」に関することのようです。
例えば、ワークブックのレッスンは60までをこなせばよい、みたいな言説がまとこしやかにささやかれたりしているようですが、では、レッスン61から後のレッスンは、そもそも何のためにあるんですかね?
これは、不要なレッスンがこの後、だらだらと続いているということですかね?
イエスさんは、そんな無駄話を延々とヘレンさんに言って聞かせたんですかね?
とりわけ、レッスン132は、たまたまですが、ここで私が話した、世界に対する知覚の変容に関して、いわば「肝心要」の段階についての記述になっていますが?
レッスン132 は、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」とありますが、これ、「これまで「世界」だと思ってきたもの」というのを思っているのは自分であるということは、英語の原文だと明らかです。
要するに、自分の思い込みの世界イメージをこれ以上世界に投影し続けるのをやめる、というのが、このレッスンで学ぶことだというわけですが。
つまりこれは、実相世界への「入り口」となるレッスンですが。
ある意味で「転換点」となっているというぐらいのものがありますけど?
レッスンは60まででいいというのは、こうしたことすべて、学ばなくてもいいといっているようなものですが?
で、もちろんですが、レッスンは60まででいいと言っている人というのは、実は私の中にしか存在していません。
私自身がかつてそう感じたことがあるので、ということでした。
ですから私はただ自分のシャドウに向かって、文字通り「シャドウボクシング」を延々とやり続けていたというわけです、はい。
ちゃんちゃん。
さて、話がとんでもなく脱線しましたが、たとえばこうしたことを踏まえた上で先のことに戻ってみると、やはりこれは、「あなた」ではなく「彼」の方が、より実践的なことに関する記述だと受け取ることができる、と感じた、というわけです。
ですから、こうしたことが散見されることから推測されるのは、実相を見ることへの恐れがこうしたところに微妙に混入している可能性であり、それはまず、私が先に「中間段階」と仮に表現したことが、どうも曖昧なままになっていることによるということと、もう一つは、ヘレンさん自身が、ビルさんの神聖さを認めることがどうしてもできなかったという「背景」があるのではないかという気がした、というわけです。
なぜならば、もしヘレンさんが、ビルさんもまた神聖な存在であると認めようとしたらどうなるか。
今までに自分が積み重ねてきた無数の「悪事」、つまり、例えば自分は神の子を延々と攻撃し続けてきたという「実感」などですが、自分に無理強いしてでも真理に「屈服」しようとすると、こうした自分の「罪悪」にいきなり圧倒されてしまいかねません。
ですから、そんなことは到底認めることはできませんし、もしこんなことを強要されている感覚があったとしたら、それは抵抗感があって当たり前です。
ですから、実践はあくまでも自分の中でのことだとすることで、そうした「脅威」を「免れる」ことができる、ということになってしまいます。
ま、これは痛切な皮肉になってしまいますが。
というのは、まさにこうした感覚が幻想だということを体験から学ぶ、ということもまた、奇跡講座が教えていることの一つだからです。
ただし、こうした感覚がもたらす抵抗感は否認しない方がいい、というのは、自分の感覚を差し置いて真理を絶対視することは、一見するととても「真理に忠実な」ことのようですが、この感覚の「やばさ」をわかりやすく表現すると、これは事実上、真理の名を借りて自分で自分を霊的にレイプしようとする、あるいは自分が自分にレイプされかねない、という脅威を自分が自分に強引にもたらそうとしているような感覚だ、と言えば、その「やばさ」が少しは伝わるかもしれません。
ですからこの「脅威」は、直視されない限りは回避することが賢明でしょう。
さて、それはともかく、もちろんですが、こうしたことはあくまでも私の「推測」であり、実際はどうだったのかはもう分かりません。
なのでこれは「霊的ゲスの勘繰り」だというわけです、はい(笑)。
ではではー。
p.s.

画像は、「あくまでも天使」と名付けました。
これに関しては、以下を参照のこと。
「したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考える。そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする。彼らにとって、精霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならない。そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもない」(T-25.VIII.7)
ま、これはつまり、せっかく聖霊が自分を解放しようとして手を差し伸べているのに、彼らはというと、知覚が完全に狂っているために、まるで聖霊(天使)が悪魔であるかのように見えているため、聖霊が彼らに差し伸べる援助の手は、彼らを地獄へ引きずり込もうとして血の池地獄からぬうっと伸ばされた血まみれの手としか見えなくなっている、みたいなことですね。
ですから、一見すると天使のようだけど実は悪魔である、みたいな知覚とは裏腹に、どう見ても悪魔なんだけど実は天使だった、というのが「実情」だったというわけで、「あくまでも天使」というわけです、はいm(_ _)m
余談ですが、これはいらすとやの、天使と悪魔のそれぞれの画像を、ペイントで重ね合わせたんですが、はじめ、悪魔の画像に天使を重ね合わせたら、画像の天使の衣服は白ではなく透明だったため、衣服は輪郭だけになり、悪魔が透けて見えてしまったんですよね。
なので、天使の画像の上に悪魔を重ねたらうまくいきました。
ですから、自分の本性は悪だという信念の上に、いくら「善行」を塗り重ねても、所詮は自分の「悪魔性」は「透けて見える」わけですが、自分の本性は天使性だという実感があれば、それまで自分の本性だと思っていた「悪」とは、単にそこにかぶせられていたもの、つまり「仮性(けしょう)」でしかなかったとわかる、みたいなことも示唆していますね。
これがつまり、「闇による隠蔽は不可能である」(T-1.IV.1:1)ということでもある、つまり、自分がどれだけ、自分の本性は悪とか罪とか闇だかと「確信」し、また言い張っても、それが自分の本性である神の子や光を隠蔽することはできない、という意味なわけです。
ただしここは、「闇が隠れることは不可能である」、つまり、「あなたがどれだけ自分の闇を隠しても、所詮は「ばればれ」だからね」、という訳もまた成立しますが。
これは、元の英語は「darkness cannot hide.」だけなので、「hide」を自動詞として受け取ると、これは「闇は隠れることはできない」という意味になり、「hide」を他動詞として受け取ると、「闇が(何かを)隠すことはできない」という意味になるからです。