「ベールを取り去る」ことに関して

実際に奇跡講座に書かれていることについて、例えば、テキストの以下の部分を採り上げて、詳細に見てみたいと思います。

T-19.IV.D 「i. ベールを取り去る」というところをご覧ください。

ここでは、誰か兄弟に関して、その兄弟に対する知覚が具体的にどのように変容するか、について、ある整然とした流れ、あるいはプロセスとして、きわめて詳細に書かれています。

それを順番に見ていきましょう。

まず、第8段落から第11段落までは、一種の「心の準備」、あるいは「心構え」のようなことについて書かれています。

そして、第12段落では、兄弟は、「依然として異邦人のように見えている」(T-19.IV.D.12:1)存在として描かれています。

出発点においては、自分は相手に恐怖や罪悪感などに根ざす知覚を投影して、相手を攻撃していますが、「しかし、彼の手の中にあなたの救済がある」(12:4)として、ここから、相手の中にキリストを見るというプロセスが始まります。

そのために、「彼についてのあなたの解釈」(12:2)を心の中で手放すこと、つまり「赦す」(12:7)ことが必要となります。

これはまた、相手に対する先入観を「脇に置く」ことである、とも言うことができます。

要するに、相手の姿に自分が投影している先入観、ないしは解釈、を、自分の視界からどける、ということです。

これが、「自分の目から梁を取り除く」(マタイによる福音書、7.3-5。新共同訳では「梁」は「丸太」となっている)として、福音書でイエスが言っていることに相当します。

さて、第13段落において、兄弟は、「あなたに贖罪の聖杯を差し出している者」(13:1)として描かれています。

この段階において、相手は、「異邦人」から、「贖罪の聖杯を差し出している者」へと、知覚が少し変容しています。

ここでは、相手は、今まで自分が思い込んでいたような存在ではなかったのかもしれない、という可能性に対して、少し心が開かれた様子について描写されています。

だからこそ、攻撃の手は止んでいます。

そして、「あなたは彼の罪を理由に彼を咎めたいだろうか。それとも、彼からあなたへの贈り物を受け入れたいだろうか。救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか」(13:2-3)として、ここに、知覚における二者択一性が提示されています。

そして、その上で、「自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになることを思い出して、彼がそのどちらであるかを選択しなさい」(13:4)とイエスは言っています。

つまり、選択するのはあくまでも自分である、ということです。

ここでは、聖霊か自我かという選択が、具体的にどのようになされるのかについての描写の一つになっています。

そして、「あなたに彼の罪を赦す力があるのと同様に、彼の中にもあなたの罪を赦す力がある。あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない」(13:5-6)という箇所では、赦しとは、実は対関係において成されるものである、ということが示唆されています。

例えばこれ、つまり、赦しは実は対関係において成されるものだということが、今までの奇跡講座の理解および実践に欠落していた観点の一つではないかと思われます。

また、先と重複しますが、「あなたも彼も、ひとりでは自分自身にそれを与えることはできない。だが、あなたの救済者はどちらの傍らにも立っている」(13:6-7)というのは、「だが」と訳されているのは「and yet」であり、これは、「それでもなお」「それにもかかわらず」というような意味があります。

ですからここでは、「あなたの救済者」とは、どうやら兄弟のことではないか、という可能性が思われてきます。

つまり、「自分で自分を赦すことはできないが、「相手こそが自分の救済者である」という事実は、実は双方に当てはまる」ということです。

また、ここで「傍らに立つ」と訳されているのは、「stand beside」という英語ですが、調べてみると、この表現には「味方である」という意味もあるようです。

ですからこれは、「あなた方はお互いにお互いの味方なんだよ」ということも暗に意味していることになります。

さて、ここで注意する必要があるのは、相手を「異邦人」として知覚したままの段階では、その知覚は自分の選択によるものであるということが、まだ見えていないので、このように、選び直すことはそもそも不可能である、ということです。

ですからここでは、自分の知覚自体に対して、心の中で「距離を置く」、という表現も、不可能ではありません。

いずれにしても、自分が知覚しているものは、自分が為した選択の結果であり、まずは、それらに対して距離を置く、つまり、「離れて見る」という心の姿勢が必要であり、これはまた、「戦場を超えたところ」(T-23.IV)ということとも関連しています。

このように見ていくと、ここでの選択とは、つまり、よくあるたとえで言う「映写機のフィルムを交換する」ことに相当しているのかもしれません。

では、先に進みます。

第14段落において、兄弟は、キリストとして描かれています。

「傍らに立つ」というのは、横とか隣というだけではなく、漠然と「そばにいる」という意味でもあるので、「傍ら」というにとどまらないことを思うと、相手のことを指していると受け取っても差し支えはないと思われます。

また、先に述べたように、「stand beside」には「味方である」という含みもあるので、ここの冒頭の、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリスト」(14:1)というのは、また、「あなたの味方であるあなたの友、キリスト」というニュアンスも持っています。

ですから、これはことわざで言う、「渡る世間に鬼はない」ということでもあるわけです。

ですが、ここで相手を「異邦人」、言い換えると「鬼」だとしたままでは、キリストに対して心を開くことができません。

無理にそんなことをしようとしたら、例えば、「鬼こそが自分の救い主である」というような、ややこしいことになりますから。

しかし、相手は鬼だというのは、幻想であるはずなのに現実だとしか見えず、それはもう、確信的なものがあるので、そうした場合には、まずは物理的に距離を置くことが先決です。

例えば、親との確執がこじれすぎてどうしようもなくなっている場合には、まずは距離を置くことが先決です。

その確信、つまり、どう見ても幻想が現実だとしか思えない、という状況の中で、こうしたことを行うのは、あまりにもハードルが高すぎます。

こうした、実際的な対処は、ときに極めて有用です。

さて、もしかすると、相手は自分の友、キリストだったのかもしれない、ということに対して少しずつ心が開かれてくると、知覚も次第に変容してきて、「この「敵」、この「異邦人」は、キリストの友であるあなたに今でも救済を差し出している」(14:5)ということが、次第に見えてきます。

ここは、翻訳だと少しわかりにくいですが、原文ですと、「キリスト」とは、この「敵」、この「異邦人」のことを指していることが分かります。

そして、「キリストの「敵」、罪の崇拝者たちは、自分が誰を攻撃しているのかを知らない」(14:6)というのは、三人称的な表現によってそれとなく伝えているわけです。

つまり、「あなたがしていることは、客観的に言うとこういうことだからね。「人の振り見て我が振り直せ」と言うよね」というようなことです。

もちろんこれは、私の「独自解釈」ですよ(笑)。

実際のところは分かりません。

さて、そうすると第15章では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)ということになります。

次に書かれている、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか。彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:2-3)とありますが、ここも、さりげなく重要です。

余談ですが、こうした私の理解は、実は、構造的な認識によっているのですが、「用語の解説」では、「「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である」(C-in.1:4)と書かれているんですよね。

なのでやっぱり、私のこうした理解は、「独自解釈」の域を出ていないのだと思います。

さて、そうした構造的な理解によると、ここに書かれていることは、まず、自分に赦しを差し出すことができるのは、ただ相手だけである、ということが書かれています。

そして、では、「あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」というのは、つまり、前半を受けていて、この2つで次のようになっています。

「相手が自分を赦すことができるために、自分は相手を赦す」

だからこそ、相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである、ということになります。

そして、自分が相手を赦すということを相手の側から見ると、相手にとっては、まずは自分が相手から赦されたという体験になっています。

そうすると、ここにおいてはもはや、特別な関係を維持する必要自体がなくなっているので、赦しを差し出すことが可能になる、というわけです。

そうすると、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」(15:3)というのは、構造的には、先の、「相手を赦すというのは、自分が赦しを受け取るためである」ということを、他者側から見た様子であることが分かります。

つまり、ここで自分が率先して相手を赦すというのは、相手に、自分を赦す機会を差し出しているわけです。

で、さらに、これが実は日本語ならではの特徴なんですが、ここで、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」というときに、実は、この「自分」というのは、すでに、分離した兄弟の双方に当てはまっているわけです。

つまり、ここではすでにもう、「相手に、自分を赦す機会を差し出している」ときに、相手が赦す「自分」というのは、こちら側のことであると同時に、相手自身のことでもある、という段階に、自動的に到達することになります。

これは、通常のコミュニケーションだと、誰のことを指しているのかが分からなくなってしばしば混乱する原因になりますが、キリスト意識にとっては、自他の分離を超えたところの主体性を簡潔明瞭端的に表現できる、実に便利な表現なんですね。

そして、面白いことに、「彼は自らの救いのために、あなたの救いをあなたに与えるだろう」というのは、実は、今から自分が行おうとしていること、つまり、自ら率先して相手に赦しを差し出すということ、を相手の側から見たとしても、全く同様の表現になる、ということです。

このように、このセクションでの記述は、構造的には、自分と相手の立場を入れ替えても、同様に成立することであることが分かります。

ただし、相手が自分を赦してくれるのを待っていると、何も始まらないわけです。

というのは、そのときに、相手もまた全く同様に、相手が自分を赦してくれるのを待っているからです。

つまりここでは、完全に自他対称的な状況があるわけで、このままだと、全く動きがないのですが、どちらかが率先して選択するときに、こうした一連の流れが始まるわけです。

ですからこれは、物理学で言う「自発的対称性の破れ」に相当しています。

または、「負けるが勝ち」とも言います。

この膠着状態を維持し続けることに対して「折れる」、つまり、「負けを認める」ことで、相手に赦しを差し出すことが始まり、そしてそのことによって自分に赦しが返ってくる、という流れが始まる、つまり、負けることによって勝つ、というわけです。

ですから、「あなたが兄弟に天国の恩寵を差し出せば、あなたは必ずそれを至聖なる友から受け取ることになる」(15:5)というのは、つまり、相手に赦しを差し出すというのは、天国の恩寵を相手に差し出すことだからでもあるからですが、そうすることによって、相手の姿を通して、至聖なる友、つまりキリストが、自分にも天国の恩寵を差し出してくれる、というわけです。

ですからここではもう、キリストがキリストを赦し、互いに天国の恩寵を差し出し合うという、「良循環」が生じることを意味しています。

その良循環について、「兄弟に、それ(天国の恩寵)を与えずにおかせてはならない。なぜなら、あなたはそれを受け取ることにより、それを彼に差し出すからである。そして彼は、あなたが彼から受け取ったものを、あなたから受け取るだろう。救いは、あなたがそれを兄弟に与えることにより受け取るようにと、あなたに与えられている」(15:6-8)というくだりで描写されています。

かくして、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る」(16:1)というところにたどり着くことができる、というわけです。

これ以降の記述は、もう、実質的には、ベールが取り去られた後のことですから、ここでは触れません。

このように、テキストのこのくだりには、実は、知覚の変容に関する漸進的な流れがあったということが、おわかりいただけるかと思います。

そして、テキストには、実は、こうした流れが至る所に見受けられます。

例えば、T-26.IX.1-3 を例に挙げてみます。

ごく簡単にしか触れませんが、第1段落では、自分の神聖さ、および、兄弟の神聖さについて、よく考えてみるようにと書かれていたり、ちょっと諭されている感じもあります。

そして第2段落において、兄弟を信頼することについての言及があります。

そうすると第3段落において、ある種の「奇跡」が起きた様子が描かれています。

ここにも、ちゃんとした流れがあるわけです。

例えばこのように、「現状 – 選び直す-変容する」というような流れで書かれているわけです。

ですから、こうした観点を持って奇跡講座を読んでみると、また新しい発見があるかもしれません。

ただし、念のために申し上げますと、ここで例に出した「ベールを取り去る」ことは、まずは実相世界に到達しないと、実質的には無理です。

というのは、知覚が根本的に逆転したままでは、これは、ものすごい困難や苦痛や、などを伴う、極めて困難で達成不可能なことを求められているように感じられるからです。

今まで、奇跡講座の実践がはなはだしく困難だった背景には、おそらくは、こうしたことがあるのではないかと思われます。

ですから、テキストは、第15章以降は、実践は具体的にこのような順序で展開していく、という流れがあるようです。

なので例えば、第30章に書かれている「決断のためのルール」を、それまでの実践の積み重ねなしに実行しようとしても、今ひとつうまくいきません。

というのは、第30章までに書かれていることが、実践的・体験的に理解されていないと、赦しとか平安とか愛とかに関して、実のところ何も分かっていない状態のままで第30章の実践に取り組むことになりますが、それは、ほとんど何も準備せずにいきなり高い山の登山をしようとしているというぐらい、無謀なことだからです。

つまり、第30章のタイトルが「新たなる始まり」となっているのは、ここまでに書かれていることが一通り実践できているからこそ、これは「新たなる始まり」だというわけです。
ですから、テキストの前半と後半で、いろいろな記述や描写が微妙に異なる理由として考えられるのは、テキストの前半は、主として純粋に理論的な話であるのに対して、後半は、実際に実践することに関しての話である、ということが関連しているのかもしれません。

さて、例えばこのように、奇跡講座に関して概観する趣旨の本を書こうと思っていて、この記事は将来的には、その本の一部となると思われます。

認識の枠組みと実相世界への橋

「1+1 = 2」について説明します。

まず、ここには1枚のコインがあります。

そして、ここにはもう1枚のコインがあります。

そして、これらのコインを並べてみると、これが、「1+1」の状態です。

ここまではいいと思います。

問題はここからです。

そして、これは「2」の状態です。

何かがおかしいと感じましたか?

おそらく、「「1+1」の画像と「2」の画像と、どこが違うのか?」と思われたと思います。

はい、実は、同じ画像です。

にもかかわらず、初めのものは「1+1」の画像であり、次のものは「2」の画像です。

ということは。

「1+1 = 2」というのは、実は、対象物が変わったのではなく、自分の側の認識の変化のことではないか、ということです。

つまり、対象物をどう捉えるかの、枠組みの変化のことではないか、というわけです。

ここから、例えば小学生が初めに足し算を習うときに、例えば、「みかんが3個、りんごが2個で、合わせて何個ですか」という問題が困難に感じる理由も、一つ推測できます。

それは、認識の枠組みの変化を、対象物の変化として捉えようとしているために、混乱が生じているのかも知れない、という可能性です。

では、このことを特に疑問にも思わなくなっている状態とは、もしかするとですが、認識の枠組みの方を見てはいても、対象物そのものはあまり目に入っていないのかも知れませんね。

こうしたことが生じる理由は、おそらくですが、脳内の演算量の節約です。

例えば、もし現実をありのままに捉えていたら、演算量が膨大になりすぎます。

しかし、例えば上の画像を、「コインが2枚ある」と、ざっくりとした枠組みで捉えると、ありのままの現実は、その枠組みに対して、いわば「背景」に退くために、かなりの情報処理量を節約できます。

言い換えると、画像に対して「キャプション」をつけるわけです。

そうすると、その「キャプション」に基づいて、画像に描かれている様子を推測するという方針が立つために、ありのままの画像を捉えるよりも脳の負担が軽くなります。

これはあくまでも一つの推測ですが。

そのために、人間の意識は、どうやら、ありのままの現実に対して、言わば「ワンクッション置く」ようにして、仮想現実を目の前に用意しているのではないか。

つまり、あくまでも、知覚された情報をソースにしてはいますが、そこに対して、ある一定の知覚(認識)の枠組みに基づいて それらの一次情報を取捨選択することによって構成された、一種の仮想現実(二次情報)を目の前に用意していて、その仮想現実が「現実」だとして生きているのではないか。

言い換えると、その仮想現実は、ありのままの現実に対して、自分なりの解釈を加える、つまり、情報に対する取捨選択がなされていることにより、いわば「情報量が間引かれて」いるわけです。

そして、そのことによって、何か脳にかかる負担が軽減されています。

そうすると、どうなるか。

これは、私が今夜の食事のために買ってきたコンビニ弁当です。

(自炊は今はちょっとお休みしています)

私がこれから食べるのは、果たして、この弁当なのか、それとも、仮想現実の中の弁当のイメージなのでしょうか。

この辺りで、「あるがまま」ということの意味が、何か少し見えてきた気がします。

さて、たまたま私は自分のことを例に挙げましたが、もしかすると、ここで、私が夕食にコンビニ弁当を食べたという話で、頭がロックオンされてしまった方もいるかも知れません(笑)。

人はそんなもんなんです。

つまり、事柄とかは「割とどうでもよく」て、人がどうしているか、どういう人なのか、といった、「ゴシップ」にしか初めから関心がないんですね。

私はここで、実はかなりの「恨み」(笑)を発散させていますが、それは、私が何をどれだけ話しても、人は、話されている内容はほとんど受け取らなかった、という「恨み」です。

話の内容ではなくて、例えば、「つまり、あなたは自分がどれだけすごいかをわかってほしいんですね」とか、なんだか、存在しない主体を一生懸命に見いだそうとして、本当にもう、「涙ぐましい努力」をしているようにすら感じることもあります。

その様子は、もう、「けなげですね」としか言いようがないこともあります。

あまりにも話があれかもしれませんので、ちょっと話の切り口を変えてみます。

さて、この動画をご覧ください。

例えば、この女性の方は、動画の0分51秒の辺りで、「私は目覚めたいのです」と話しています。

それに対してムージは、「なぜあなたは目覚めていないと考えるのですか?」と話します。

それに対して、女性は少し考えます。

これが、目の前で起きていることを「仮想化」しているときの「タイムラグ」です。

そして、この女性は、「私が目覚めているとは思えません」という「仮想の結論」を出します。

だんだんおわかりになったと思います。

ムージとしては、「あなたは初めから目覚めているのだから、ただそのことに気がつけばいいだけなのに」と思っているわけです。

ですが、この女性の方は、「私はまだ目覚めていない」という「仮想現実」を維持することに必死になっています。

ですが、この女性にとっては、実際に、自分はまだ目覚めていないとしか感じられていないわけです。

そのために、「あなたはすでに目覚めているんですが」という指摘を受けても、そのことを全力で否認することしかできません。

なぜなら、「自分は目覚めている」という事実は、認めるには「あまりにも恐ろしい」からです。

ですから、ここで強制的に、「目覚めた人」になろうとすると、「目覚めていない」と必死になっている自分を、実は「隠蔽」してしまうんですね。

おそらく、今までの霊的な教えで全くといっていいほど触れられてこなかったのは、ここではないかという気がします。

というのは、上で描写したように、「私はまだ目覚めていない」という、その女性にとっての「現実」は仮想的であるために、ムージの側からはまるで見えません。

ですから、ムージとしてはただ、「目覚めていることに気がつけばいいだけなのに」としか思えません。

ですので、例えば動画の1分33秒辺りからは、「”I am”とは、私は存在するという感覚です」というムージの発言に対して、その女性の側からは、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、「I am」が必死で受け応えているという、実におかしなことが起きてしまっているわけです。

つまりは、ムージのこの発言は、この女性にとっては、ただ「圧」をかけられているとしか感じられません。

なぜならば、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実の中にいる場合には、こうした「霊的な正論」は、ただのプレッシャー以上のものではないからです。

ですから、その女性は、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、一見すると、否定的な自己主張か、あるいはムージの言う「真理」に対する拒絶をしているようにも見えますが、実はこの女性は、おそらく、ムージの発言から感じた「圧」に対して受け答えをしているのではないかと感じられます。

そうすると、1分44秒でムージが、「”I am”が”I am”を見つけたいと思っているのです」という発言の真意も、なんとなく見えてくると思います。

ですから、こうした「仮想現実」は、ただもう自分をとことん傷つけるものでしかなくなっているんですが、それでも人は、ただそれだけしか自分を守ってくれるものはないからと、必死になってその「仮想現実」にしがみつくしか「選択の余地がない」と感じてしまっているわけです。

ですが、くどいほど申し上げますが、こうしたことは、私はいわば「第三者」の視点から捉えているので、このように、ある意味で「情け容赦ない」描写になってしまっていますが、この女性にとっては、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実が「現実」だとしか見えませんから、何もかものニュアンスか真逆になって捉えられているわけです。

まあ、ですが例えばこの女性が、何かムージの話を、子どもが必死に何かを訴えているのを受け止めているかのように、「共感する」気持ちで聞いていたとしたら、例えば、「あなたはとても素晴らしいことをおっしゃいますね」というようにして、一言でまとめることによって、その「脅威」を低減しようとします。

言い換えると、人は普通に、「この人はこういう人だ」「この話はこういうことだ」という「枠組み」に基づいて、一連の情報を整理します。

ですから、その枠組みに入らない情報を知覚すると、混乱します。

ですが、その反面、いったん形成された「枠組み」は、とても強固です。

「あの人は何か怪しい」という「仮想の結論」が出たら、もう「一巻の終わり」(笑)ですね。

すべての言動が、「怪しさ」に関連付けて捉えられるようになりますから。

そうすると、その人は実際にも「怪しい人」であるとしか見えなくなっていきますね。

例えば、自分自身のことも含めて、人に対するイメージは、得てしてこのようにして形成されていきます。

まあ、奇跡講座の学習者であれば、こうした仕組みが何を意味しているのかが、薄々感じられてきたと思います。

だからこそ、こうした枠組みはもう不要だから、少しずつでも取り去っていこう、というのが奇跡講座なわけです。

で、どこかに私は、「一次情報」と「二次情報」という言葉を用いましたが、一般的に言う「あるがまま」の状態とは、実はまだ、「一次情報」に対して、すべてを真逆に捉えるようなフィルターをかけていない二次情報、が見えるようになった段階です。

つまりはおそらく、奇跡講座で言う「実相世界」とは、このことなのかもしれません。

問題は、この一次情報自体もまた、「それ」そのものではない、ということです。

ですが、例えばよく言う「世界は幻想」というのは、この一次情報自体もまた幻想である、というところに言及している印象があります。

そうではなく、二次情報のニュアンスが逆転していることが、「世界は幻想」ということの、とりあえずの意味です。

ですから、この「逆転現象」が根本的に回復するときに、自分から見ていると、あたかも何もかもが狂ったかのように見えますが、それこそが、知覚の転倒が根底から訂正されていく、まさにその渦中であるために、一時的に何もかもがわからなくなるわけであり、このことをテキストでは、「実際に方向性を失ったような感覚」(T-16.VI.7:4)と書かれていますが、これは、元の言葉は精神医学の用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」と訳される言葉であり、私の体験からは、この方がより的確に表現されています。

例えば、自分が誰なのか、今が「いつ」なのか、「ここ」はどこなのか、とか、そういった、基本的な現実感覚ですらも、一時的には不安定になります。

場合によっては、世界が今にも滅亡していくのではないかとか、他の人が自分を陥れようとしているとか、世界が自分を抹殺しようとしているとか、とにかく、自我が必死になって隠蔽しようとしてきた、ありとあらゆる「心の闇」が洗いざらい出てきます。

ですが、そうしたことは一切合切、ただ通り過ぎていくことです。

しかし、例えばこの前に、他の人とものすごい敵対関係にあったりとか、そうした問題を抱えていると、ここで体験される感覚が現実のものだとしか思えなくなります。

例えば、極端に言うと、「あの人が自分を失脚させようとしている」とかの「証拠」を、世界の至る所に感じたりもします。

あるいは、他の人の心の中に、「悪意」や「敵意」などをリアルに感じたりもします。

にもかかわらず、他の人から見ると、そんなことは何一つ起きていません。

ですから、「あの人は何かおかしなことを言っている」としか見えません。

テキストでは割とさらりと書かれていますが、実際にはこうしたとんでもない内的混乱を通過します。

もちろんこれは個人差がありますから、必要以上におびえる必要はありません。

ただ、全く何もないということは、おそらくありません。

なぜならば、それまで転倒していた知覚が根底からひっくり返るということは、自分にとっては、現実そのものが根底から揺らぐ体験として感じられるからです。

この、「ぐれんとひっくり返る」時期自体は、実はそれほど長くはなく、「急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定化された状態から解き放つことのみである」(T-16.VI.8:3)という局面において、上に述べたようなことが起こります。

ここでようやく、「自我があなたに差し出した救済の真似事」(T-16.VI.10:1)から、脱出できるわけです。

そして、橋を渡る前には、「それ(天国)はあなたの外にあって、橋の向こう側にあるように見える」(T-16.VI.11:2)わけですが、「天国につながる」(T-16.VI.11:3)ために橋を渡ると、「天国があなたにつながって、あなたとひとつになる」(T-16.VI.11:3)わけです。

これは、どこか遠いところで起きるのではありませんから、あたかもこれが、どこか遠いところで起きるものであり、自分にはとても手の届かないものであるかのような捉え方とは、つまりは、まだ橋を渡っていないのに、橋を渡ることについて述べているということです。

そして、橋を渡るために必要なことが、まずは、「聖霊の視座を共有しようというあなたの意欲」(T-16.VI.12:2)と、もう一つは、「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識すること」(T-16.VI.12:5)であり、そのことによって、「聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる」(ibid.)というわけです。

そして、「無は無でしかないのだから無を手放そうという単純な意欲」(T-16.VI.10:7)というのが、つまりは、自我をつなぎ止めている自分の中の「引っかかり」を手放すことになり、ここで自我から自由になることができます。

で、ちょっと「ちくっ」(笑)とすることを書き添えますと、「神は橋の向こう側にいて、こちら側にはまったく何も無い」(T-16.V.17:2)のですから、「神はこの世界には介入しない」というのは、つまりは、単に自我の枠組みの中には神は入ってこないということであり、実相世界自体のことではない、ということです。

もちろん、自我の機能は神を締め出すことですから、これは当然ですが、それは、上で言う仮想現実の中、つまり、先ほど引用した表現で言う「橋のこちら側」には神は不在だ、ということです。

しかし、橋を渡る前は、その仮想現実こそが現実だと見えています。

さて、こうして、ただひたすら「通り過ぎていく」ことにより、やがて「赦された世界」(T-17.II.h)が見えてきます。

ここに至って、実相世界は確固たる現実として感じられるようになります。

橋を渡り終えると、この世界は実際にこのように感じられてきます。

「この麗しさは空想ではない。これは実相世界であり、広々とした青空の下ですべてが光り輝く、明るくすがすがしい新しい世界である」(T-17.II.2:1-2)

これは、実際にそう感じられますから、某ワプニック博士の大好きな「暗喩」ではありません(笑)。

(博士、茶化してすみませんm(_ _)m)

さて、まあ確かに、橋を渡り終えた直後は、まだ、こうした表現は「文学的な比喩」程度ですが、いずれはやがて、これは肉眼でもリアルに感じられるようになる、つまりは、実際にすべてが光り輝いているのが見える、というような段階があるのだろうと、私は予想しています。

ただしもちろんですが、こうしたことは、「世界は幻想」とまではとてもまだ遠いように感じられるかも知れません。

ですから私は、こうした自分の体験からの理解が絶対的なものだとは思いません。

単に私には、このような「回りくどい」道しかたどることができなかった、というだけのことかも知れませんから。

ただ、まあ一応ですが、T-16.VII のタイトルは、「幻想の終わり」となっています。

で、T-17.II.2:4 には、この橋は実は、とても小さくて楽々と渡れると書かれていますし、実際に、この橋にたどり着くまでの労苦を思うと、ごくわずかな努力しか要しません。

しかし、「この小さな橋は、この世界に少しでも触れているものの中で最強のもの」(T-17.II.2:5)であり、まさにここに至って、この世界はそれまでは、大変「いい」ところに思えていたとしても、ここですべてが「暗転」して、いきなり、橋のたもとには、ありとあらゆる「脅し文句」が書かれているのが目に入り始めます。

というのは、この橋を渡って無事に帰ってきた人は誰もいないのと、途中で引き返してきた人は、みな一様に、気が狂ってしまっていたので、この橋は何かとても恐ろしいものに違いないという「伝説」ができあがってしまっているからです。

実は、橋を渡り終えた人は意外にいる、ということが、橋を渡り終えるとわかってきますが、そうした人は、市井の中で普通に暮らしていて、たぶん、本人は自分が橋を渡り終えたことすらも無自覚の場合がほとんどでしょう。

そして、「最も小さな木の葉でさえも感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる」(T-17.II.6:3)というのは、橋を渡る前だと、この幻想世界の中にも、神の創造の片鱗は見られる、というように捉えられますが、橋を渡ると、これこそがまさに神の創造であると感じられるようになります。

で、ここまで来て、はじめて、奇跡講座に書かれていることが本当の意味でわかり始めます。

おそらくは、この文章は、学習者によっては、ものすごく反感を感じたり、あるいは際限のない疑いの気持ちや、場合によっては激しい憎悪や激怒をもたらすかも知れません。

抑圧されている感情のすさまじさは、私も身をもって嫌と言うほど体験してきました。

ですが、橋を渡ることに関するガイダンスが、あまりにも少ないという現状から、私は書きました。

でないと、すでに橋を渡るところまで来ているにもかかわらず、その手前で立ち往生している方があまりにも多いと感じられるからです。

それはとてももったいないことです。

さらに言うと、世界はそろそろ、総体としても、この、実相世界への橋を渡る段階に来ています。

ここを渡り終えると、この世界はそのまま、天国を反映したものになります。

正確に言うと、そうしたものとして知覚されるようになります。

そして、これは例えば、禅で言うならば「魔境」であり、また、巫病やシャーマンの病と呼ばれるものもこれに酷似していることから、おそらくは、この橋に関する知識は、全世界に見られるのではないかという気がします。

ただし、今までは、この橋を渡った人はごく限られていましたが、これからの時代は、おそらくは、橋を渡る人と渡らない人とに、どうしても大きく二分されてしまうのではないかと思われます。

これは別に私が特定の人にダメ出しをするとかではなく、橋を渡るかどうかは、ひとえに一人一人の自発的な意欲と選択にのみかかっているからです。

でも、こうした私の発言もまた、先ほどの「仮想現実」の中では、例えば、「この人は、自分こそがすべてを裁くと言っているぞ」とか「私は絶対に正しいから、私の言うことを聞きなさいとは、なんて偉そうな」といったように感じるわけです。

ま、そういうわけですんで、異論・反論はもちろんありますから。

私は別に、自分こそが絶対に正しいとは思っていませんが、読む人によってはそう感じるでしょうし。

なので、そうした場合にはもう、ただ「無」を手放してくださいとしか言いようがありません。

本当に、それぐらい人は、文字通り「幻想の世界」の中を生きています。

そこからの脱出がいかに容易ではないか、しかしその一方で、脱出してみると、どうしてこんなにたやすいことが今までできなかったのだろうと感じるのもまた、事実です。

なんか、初めは、「1+1=2」に関する気づきをシェアするだけのつもりでしたが、途中から、何かとんでもない方向に話が展開してしまいましたが(^_^;)

で、ここに書いた、「一次情報」と「二次情報」とかの区別は、まだ思いつきの段階ですので、これから、いろいろと細部に関しては変化があるかも知れないので、あまり厳密に受け取らないでいただけるとありがたいです。

奇跡講座の本質

神は、罪というものが根本的にわからないので、人間の価値判断の感覚で言うと、神は「究極のアホ」です。

人がただ、こんな自分では神に愛されないとして、ただ延々と自分を裁き続けているだけです。

しかし、人は裁く機能を神に投影して、神に裁かれていると知覚します。

つまり、本当はただ自分が裁いているのですが、それを、自分が神に裁かれているということにしています。

これもまた、自我による解釈の一つです。

ですから、早い話、罪悪感を日本語で言うと、「気が咎めている」ということです。

この言葉は慣用句になりすぎているために、元の意味がわからなくなっていますが、この言葉をよく吟味すると、わかってくるでしょう。

なので逆説的ですが、「真面目な学習者」としてのアイデンティティーをかなぐり捨てると、本当の意味で奇跡講座の学びが始まります。

真面目に、真摯に奇跡講座を学ぼうとしている間は、実際には、ただ「気の咎め」を強めることに終始しているだけ、ということが、往々にしてあります。

奇跡講座や、そして奇跡講座だけではなく、特定の教えや人物を自分自身より上位に置く、つまり絶対視することは、「先導者と追従者」(T-31.II.3-7)という、関係性に対する心の中の構図を、特定の人物や教えに対して投影することです。

書籍になった奇跡講座は、「普遍なるコースの特別な一形態」(M-1.4:1)であり、その主要な目的は、キリスト教の訂正であり、聖霊による再解釈です。

ですから、このまま日本人が学ぶと、人によっては、いわば「乳糖不耐症」のような弊害が起きます。

なので、奇跡講座という形態を通して「普遍なるコース」という内容を感じ取る、という姿勢が必要になります。

普遍なるコースの幾千もの形態はすべて「月を指し示す指」であり、普遍なるコースという内容は常に「ただ月を見よ」であり、形態の違いは「いかにして月を見るか」です。

それは、月の見方についての議論や「月を見ようとして頑張る」のでもなく、ただ実際に月を見ることなので、それは特別なことではありません。

問題は、実際に月を見た人は、他の人から「あの人は自分は特別だと言っている」と思われてしまうということです。

「普通に月が見えます」というのは、なんら特別なことではないのですが。

実は、「私たち、月が見えないよね」ということ、つまり、普段の状態こそが特別なことなのであり、その特別性に愛着を抱き、固執し続けることが、この世界では「なんら特別ではない」と思われています。

これぐらい、普段の感覚は、言葉の意味が実際とは真逆になってしまっています。

ですから、奇跡講座は「ただ月を見ようね、そしてこうすれば誰でも確実に月が見えるようになるからね」と言っているだけなのに、通常は、「月が見えないあんたはだめね。月に代わってお仕置きよ」と言っているように思われている、というようなもんですわ(笑)。

ただし、細かいことを言うと、「月を見る」ことが必要だった時代はもう終わっていて、今はもう、とっくの昔に、「自分の内なる太陽を思い出す」時代になっています。

ですが、「月への愛着」が捨てきれずにいたために、心の中に多大な「摩擦」が生じていました。

ですから、奇跡講座の内容(実は、「形態と内容」についての奇跡講座の定義からは、これもまた「形態」ですが)もまた、いわば「月の時代」の名残と「太陽の時代」の兆しとの間で、「表記の揺れ」が見られます。

こうした時代の要請から、「風の時代のコース」を個人的にアウトプットしていますが、ブログで書いていることはまだ、「構想のメモ」程度であり、いずれ、全面的に加筆修正して、まとまった形として公表する予定です。

ただし、ネタは完全無料公開ですので、これを膨らませてくださればそれで充分です。

奇跡講座の赦しのメモ

いろいろと、内的に波乱が続いているが、マジでもう何もかもわからない(いい意味で)。

ただ、手放すと楽になる、というのは事実。

そしてこれは奇跡講座では、「赦しが幸せへの鍵である」(レッスン121)、およびレッスン132-134に対応している。

ここで、赦す対象はあくまでも、自分の心の中のイメージや先入観などである、ということが大切である。

おそらく、奇跡講座の実践における困難さの一つは、ここで、赦す必要があるのは、実際の事物や人物だとしてしまうことではないか。

そうするとそれは、従来の意味での「許し」になってしまう。

奇跡講座はあくまでも、自分の心の中のことに関しての言及である。

そうすると、現実の世界(実相世界)、つまり、「ありのままの世界」が見えてくる。

ただしもちろん、実際の実践は、もっと複雑な様相を呈する。

2ツイートで言う奇跡講座の神髄

もちろん私も含めてですが、人って、相手と関わっているようでありながら、実際には、ただ自分の信念に反応しているだけなんですね。

まさにそこのそころを、奇跡講座では延々と解説していて、さらに、赦すことで自分の信念の地獄から逃れられる、と脱出の仕方まで説明しているわけですが。

たぶんそこで、実際の相手を赦さなければならない、としてしまうために、困難になるのかもです。

直視する必要があるのは、相手の姿や言動に対して投影している、自分の側の自我による解釈なんですが、この解釈を普通は、実際の相手だと信じているので、だからそれは幻想だというわけです。

※ ちなみにこれは、私の数十年にわたる血のにじむような努力の果てにわかってきたことをコンパクトにまとめた「机上の空論」です(笑)。

「無条件」ということ

昔、自分は悪そのものだとしか思えない感覚で苦しんでいたときでも、例えば幾何学のようなものは好きで、そうした情報には接したりしていました。

個人的な好みというものがおおよそ認められず、極端に言うと、私の人生を生きているのが私ではなく、誰か他の人が私の人生を生きたとしても、この人生ならば同じように生きることができるようにする、というようなものとして、自分の好みを選んだりしているという、今思うと、ちょっとよく分からないんですけど、みたいな状態でした。

当時私は、一人称単数形の代名詞を話すことができない、という「症状」がありました。

つまり、「私」「僕」「俺」といった言葉を話すことができませんでした。

その理由は簡単で、意図的に表面意識から自分という自覚を抹殺していたからでした。

その状態で、カウンセラーになることを目指して大学院でなんとか履修していたという、普通に考えてよくわからない状態でしたが。

まあ、結局、大学院は中退しましたが、そんな状態で修士課程を終えようとすること自体が、普通に「正気の沙汰ではない」というやつでしたけどね。

病識がないというのは怖いです(笑)。

ただし、ここまでの文章を読まれるとなんとなくおわかりだと思いますが、日本語だと、主語を表す言葉をほとんど用いなくても、かなり文章が書けるんですよね。

というより、主語をわざわざ書かないのがむしろ普通というか。

ですから、国籍が日本かどうかではなく、日本語を母語として生きている人は、生きていく中で、ほとんどのことは、とりたてて主語を意識しなくてもこなせるわけです。

そのように、言語としての主体意識をほぼ完全になくした状態でも、生活の基本的なことはできるというのが、日本語の特徴です。

ただし、他の人と自分との違いを際立たせなければならない状況においては、そういうわけにはいきませんが。

さて、そのようなときでも、例えば幾何学は、私がどんな人間であるかに関わりなく成立している、ということが、私にとって安心感をもたらしていました。

つまり、例えば、幾何学の定理には、「三角形の内角の和は2直角である」というものがありますが、この定理は、私が善人であろうが悪人であろうが、男性とか女性とか、あるいは白人とか黒人とか、聖人君子であろうが犯罪者であろうが、そうしたこととは無関係に成立しています。

つまり、この定理は個人としての私の属性とは無関係に成立している、だから、私の人となりがこの定理に「悪影響」をもたらすことはない、ということが、当時の私にとっては安心感をもたらしてくれました。

ですから、振り返ってみると、あの時代に私は、普遍的な認識の仕方を実は徹底的に鍛えていた、のかもしれません。

さて、いきさつはもうかなり忘れましたが、実はこれが、「無条件」ということの一つの現れだったようでした。

これはどういうことか。

「無条件」とは文字通り、「条件がない」ということです。

ですから、「無条件の愛」というのは、例えば、愛する対象がどんな状態であろうが、変わりなく愛する、といようなことです。

ただし。

例えばここで、人に対する無条件の愛というと、「その相手がどんなに「悪い」人であろうが愛する」、というようなことになります。

これは、感覚としてはそんな感じになるのかもしれませんが、結局、「どうしても愛したくない相手」というものは、やはりあるわけです。

だから、この感覚をぎりぎりまで広げて、それこそ、例えば全人類を愛することができたとしても、これだけではどうしても愛することができないのは、例えば自分だったりします。

あるいは、自分の心の中でも、99.999….%の部分は愛せたとしても、残りの0.0000….1%はどうしても無理、だったりします。

「どんな「悪」「闇」でも分け隔てなく愛する」という無条件さが、普通の感覚ではとてつもなく高度で困難なことのように感じるのは、例えばこうしたことが理由です。

これは、『神の使者』の中で言えば、非二元論の一つ目の段階に相当します。

「無条件」ということを徹底しようとしている状態、です。

そうすると確かに、一見、とても「慈悲深く」なることはできるでしょうし、神もまたそのようなものだとして、かすかに想像することはできます。

そうしたところから、例えば、神秘主義だったと思いますが、「神の無限の忍耐」というような表現も出てくるのだと思います。

つまり、神は、人間のどんな悪であろうが、その人が「改心」するのを「信頼」して、ただ「忍耐」して見守っている、というような感覚ですね。

めっちゃプレッシャーですよね(笑)。

さて、ですが、真に無条件であることというのは、実は、これとは次元が異なります。

真に無条件であるというのは、もはやはじめから条件には左右されていないわけです。

つまり、この意味で「無条件に愛する」というときには、「相手がどんなに「悪人」でも愛する」、のではありません。

そうではなく、愛するときに、相手が悪人であるとか善人であるとか、といったことは、無条件の愛にとっては「無関係」である、ということです。

善人とか悪人とかというのは、根本的に「無意味」だ、というわけです。

だからこそ、「無条件」なんですね。

親鸞の言う「悪人正機」が成立する根拠は、つまり、こういうことです。

つまり、「相手がどんなに「悪人」でも愛する」というのは、まだ、「条件付きの愛」の延長線上であり、ただし、その条件において、「例外」を極限まで否定した状態です。

ですから、どれだけすべてを愛したり、また赦そうが、「例外がある」という感覚だけは、どうしても残ります。

しかし、「無条件である」というのは、条件というものがはじめから存在しない、ということです。

だからこそ、「例外がない」わけです。

つまり、「例外」というもの自体を想定する必要がない感覚、というわけです。

それはなぜかというと、条件や属性というもの自体に対して無関係だからです。

この感覚において、「すべてははじめから全く赦されている」ということがかわります。

はじめから全く赦されているからこそ、もはや赦す必要はないわけです。

これが、「神は一度も咎めたことがないので、赦すことはしない」(W-pI.46.I.1、およびW-pI.60.1.2:1)と奇跡講座で言われていることの意味です。

この、「神は赦さない」というのは、言葉だけをとると、なんかめっちゃ厳しくて怖いですよね。

本当に、神の「お眼鏡にかなう」人は、もう本当に一握りの、「特別に選ばれた人」だけなのではないか、というぐらい、怖いですね。

自分なんかは絶対無理、どんなに努力をしても、血のにじむような修行をしても無理だわ、とか思いますね。

違うわけです。

神が赦さないのは、神は咎めたことがないからです。

咎めとはひとえに、ただ自分が自分を咎めているわけです。

つまり、日本語で言う「気が咎めている」というやつです。

ね。

「神は赦さない」というのは、実は、「無条件の愛」ということを論理的に表現した言葉だった、というわけです。

このことを、先の私の話の文脈で表現すると、次のようになります。

つまり、神の愛は、自分が善人だとか悪人だとか、男性とか女性とか、白人とか黒人とか、聖人君子とか犯罪者とか、といったこととは、はじめから無関係だ、ということなわけです。

だからこそ、「すべてははじめからすっすかり赦されている」ということなわけです。

自分がどれだけ「罪深い」かということも、つまり、神の面前においてはそんなものははじめから何の関係もなかった、というわけです。

ただし、自分が自分を罪人だとして、徹底的な「自己断罪」をしていると、その、自分への無意識の裁きを神に投影して、神がとてつもなく自分を裁く存在であるかのように感じる、というのは、確かにあります。

そうすると、当然ながら、神がいろいろな人を厳しく裁く存在であるかのように感じます。

どんな被造物もまた、「神の裁き」を免れることはできません。

こうしたことですらも、実は、自我が神の子をだまして、自我の属性を、あたかも神に属するものであるかのように見せているわけです。

(ここで言う「自我」というのは、奇跡講座の説明における「自我」のことであり、日常語で言う「自我」というのは、これが個人的なレベルに反映されたものです)

つまり、こんなにもとことん深いところにまで、自我の策略は徹底的に「浸透」しているわけです。

ですから、自分の知覚はもう、根底から自我に基づいて成立している、ということが、かすかにではありますが、おわかりいただけるかと思います。

そして、奇跡講座が言及しているのはもちろん、こうした究極のところなのですが、しかしそれと同時に、このことは、ごく日常的な場面においても、フラクタル的に再現されています。

ですから、今、出所を探すことができませんでしたが、生きている毎瞬毎瞬が、神からの分離が実際に起きたという、その瞬間の再現であるというのは、つまりこういうことです。

現実とはフラクタル構造をしているために、目の前のありきたりの光景にも、分離が生じた「結果」が投影されている、というわけです。

だからこそ、日常のありきたりの瞬間において、分離ではなく赦しを選ぶことは、実は神からの分離は起きていなかったということを、知覚の「表舞台」において思い出すための「第一歩」だ、ということなわけです。

ただし、神からの分離と、世界や他者との分離とは、実は、性質が異なります。

神からの分離は、「水平の知覚」ではなく「垂直の知覚」においてのことであり、世界や他者との分離は、「水平の知覚」においてのことです。

この、水平の知覚と垂直の知覚というのは、ヤスパースの哲学の中での用語ですが、いずれ、項をあらためて説明します。

(私はたまたま、大学時代に、ヤスパースの哲学で卒論を書いたために、この用語を知っていたので、理解していました。

もちろん、その当時は、奇跡講座なんて全然知りませんでした。

つまり、例えばこんなふうに、すべては必然なんですね)

このことが書かれているのが、テキスト第1章第II節第6段落です。

すべて引用するのはしんどいので、核になる部分だけを引用しますと、「けれども、奇跡には水平の知覚から垂直の知覚への突然の移行が伴う」(T-1.II.6:3)と書かれているのは、つまり、奇跡には、水平的な知覚、つまり、兄弟との分離という知覚が、垂直的な知覚、つまり、神との分離という知覚へと、突然に移行する、ということが伴っている、というなわけです。

これをヌーソロジーの言葉で言うと、ノスの方向性からノウス(ヌース)の方向性への転換、あるいは、ノウス(ヌース)の方向性の顕在化、というような表現になるかと思います。

というわけで、こうしたことを、これから少しずつ書いていく予定です。

これを読んだ方が、「無条件」ということについて、たとえ知的にでも、かすかにうかがうことができれば、幸いです。

このことを、単なる知的理解にとどまらず、現に生きたリアルな体感として実感できるようになるところまで自分を導いてくれるのが、つまり、奇跡講座であり、その構造的な根拠をもたらしているのがヌーソロジーだ、というわけです。

自我がしていることの実例の一つ

「自我が神に成り代わろうとする実例」を見てしまった。

聖霊によると、あれが真の二極化、なのだそうです。

「自称覚者」あるいは「私には自我がない」という人の自我はマジで危ないので、文字通り「触らぬ神にたたりなし」ですわ。

どういうふうに怖いのかを構造的に説明すると、「私には自我がない」という人は、実は、自我を他者側に「完全投影」することに成功しただけだからです。

ただしこれもまた、誰もが一度は通る道です。

それはいわば「踊り場」なので、それを「究極の境地」や「探求の終焉」などととせず、ただ「その先」に歩き続けることです。

もっと具体的にその「怖さ」を説明すると、うかつにそうした人と関わり続けると、場合によっては自分が精神病になっていきます。

そうした人に怒りを表明したら、「だから怒りは正当化できないんだよね」となります。

(あ、これは奇跡講座の言葉を非難しているのではなく、奇跡講座の言葉を自我防衛の目的で使っているということです)

あるいは、「あなたにとって「図星」だからこそ腹が立つんだよね」とか。

投影という自我防衛機制が本当にしていることは、例えばこういうことです。

自分にとっては、実際にそうだとしか見えないというのは、まさにそれこそが「自我の催眠術にかかっている」ということだからです。

だからこそ、「肉眼があなたに見せるものを信じるな」と奇跡講座で繰り返し言われているわけです。

ここでいう「肉眼で見る」というのは、つまり、いわゆる「心の目で見る」「行間を読む」ということも含んでいるわけです。

(余談ですが、なので、奇跡講座の「vision」を「心眼」と訳すのは、実はまずいんですよね。

「眼」という言葉を使いたければ、あれは「霊眼」とする必要があります。

「心眼」とはほぼ、「真の知覚」に相当するので。

そもそも、「知覚(perception)」とは、霊ではなく心の機能ですからね)

さて、表面意識から怒りを「消し去った」人がいると、その周囲の人が、なぜだかわからないけど無性に腹が立つ、という経験をします。

そのようにして意識は常に全体としてバランスを取ろうとするからです。

ですが、こうした一連の文章もまた、そうした人にとっては、「間接的な個人攻撃」になりますし、「本物の自我による発言」でしょうし、また、もしかすると実際にそうなのかも知れません。

ですから私はもう、何も言えません。

なぜなら、形態から内容を推測することは、レベルの混同だからです。

形態から内容を推測するというのは、例えばこの場合で言えば、相手の立ち居振る舞いや言動などから相手の「真意」がわかる、とかですね。

もし、神に根ざさない「真意」を感じたとしたら、それがすなわち自我の言うことを真に受けることです。

こうしたことは、従来の世界においては、とてつもなく厳しいことのように感じられますが、実相世界に到達したら、こうしたことがわかることはただ喜びであり、どんどん解放されていくことが実感できます。

奇跡講座の「ゴール」

奇跡講座の「ゴール」は、何一つ赦す必要はなかったし、誰一人として救う必要はなかった、ということがわかること、です。

つまり、すべてははじめから全く赦されているので、何一つ赦す必要がないし、誰もがはじめからすっかり救われているので、誰一人として救う必要はない、ということです。

唯一、赦される必要があるのは、ただ、「赦す必要がある」という信念のみであり、唯一、救われる必要があるのは、ただ、「救う必要がある」という信念のみです。

要するに、自分が万物を断罪していたのであり、自分が万人を地獄に突き落としていたのだ、ということです。

ただし、これを単なる知的理解として頭脳だけで理解するのは、赦す必要性や救う必要性を信じている信念を、単に否認することにしかなりません。

そうではなく、このことが、体験的に、実感を伴って体感として理解できるようになる、ということが必要であり、そのためにこそ、奇跡講座があるというわけです。

それこそが、自分を赦すことであり、また、自分を救うことだ、というわけです。

自分がすっかり救われたとき、自分が体験している世界もまた、救われますし、自分がすっかり赦されたとき、自分が関わっていると見える人影もまた、すっかり赦されます。

「平安の夢」に関して

この記事は、テキスト第13章第VII節「実相世界の達成」、第9段落の1を読んでいて、どうも意味がよく分からなかった体験を元に書きました。

では、まず、当該箇所を抜き書きします。

T-13.VII.9:1

あなたはまず最初に平安の夢を見るだろう。そしてその後、それに目覚めるだろう。

ここでまず、最初に見るのは「平安の夢」であるということと、次に目覚めるのは「それ」であるということから、「それ」というのは「平安の夢」なのだろうかと思いましたが、それにしては、「平安の夢に目覚める」というのは、夢の中に目覚めるということになり、なんか変です。

で、「それ」というのを前の段落から探してきて、例えば、「自分の実相」に目覚めるのだろうかとしてみても、意味は通らないわけではありませんが、どうもしっくりきません。

というわけで、英語の原文に戻ってみました。

原文

You will first dream of peace, and then awaken to it.

dream of : ~を夢見る、~の夢を見る

awaken to : ~に気がつく、実感する

これだと、明らかに、awaken to する it は peace であると感じます。

ただしここでも考えて、もしかすると、willがここでは「意志する」という意味で用いられていて(奇跡講座ではしばしばその意味で、「will」が動詞として用いられているらしいので)、「dream of peace」でそのまま「平安の夢」なのかもしれず、そうすめとこの文の前半は、「あなたはまず平安の夢を意志するだろう」という意味になり、これはこれで何か感じるものがあり、興味深いと思ったのですが、どうやらそれは考えすぎのようでした。

なのでここでは素直に、「dream」を動詞とみて、「dream of」で「夢を見る」あるいは「夢見る」という意味だととる方が良さそうです。

そうすめと、後半の it は素直に「平安」のことだとわかります。

しかし、「夢見る」と「夢を見る」とでは、ニュアンスが異なります。

前者は、いわば能動的な願望のような感じですが、後者にはそのようなニュアンスはありません。

そして、ここで例えば、「平安を夢見る」とすると、確かに、翻訳としては一見すっきりします。

そうするとここは、「あなたはまず平安を夢見るだろう。そしてその後、平安に目覚めるだろう」ということになり、平安とは何だろうと思い描いているうちに、なんとなくわかってくる、ということなのだろうかとも受け取れます。

しかし、どうもこれもまた、なんか違う気がします。

なのでやはりここはどうしても、「平安という夢を見る」ということになるのだろうと思います。

ですから、ここでわかりにくかったのは、「平安の夢を見る」という訳だと、「「平安の夢」を見る」というように感じてしまうことによるものだったようです。

なのでここは、「平安という夢を見る」というようにわずかに変更すると、意味がすっと通るようになり、しかも、たぶんですが、奇跡講座全体に照らし合わせても、これでいいのではないかと感じます。

そこでここは、次のように提案します。

翻案 :

あなたはまず最初に平安という夢を見るだろう。そしてその後、それに目覚めるだろう。

ただし、原文を引用したところに書きましたが、「awaken to 」という言葉は、「気がつく、実感する」というのが普通の意味のようです。

なのでここは、「平安を実感するだろう」というようにした方が、書かれている内容の理解という点ではクリアーになるかもしれません。

そして、電子書籍で検索してみると、「平安の夢」という言葉は、どうやらこの一カ所に登場するだけのようなのですが、これは「「平安の夢」を見る」のではなく、「「平安」の夢を見る」だったことから、「平安の夢」という述語は、奇跡講座には登場しない、ということになります。

以上が、この箇所から分かったことでした。