認識の枠組みと実相世界への橋

「1+1 = 2」について説明します。

まず、ここには1枚のコインがあります。

そして、ここにはもう1枚のコインがあります。

そして、これらのコインを並べてみると、これが、「1+1」の状態です。

ここまではいいと思います。

問題はここからです。

そして、これは「2」の状態です。

何かがおかしいと感じましたか?

おそらく、「「1+1」の画像と「2」の画像と、どこが違うのか?」と思われたと思います。

はい、実は、同じ画像です。

にもかかわらず、初めのものは「1+1」の画像であり、次のものは「2」の画像です。

ということは。

「1+1 = 2」というのは、実は、対象物が変わったのではなく、自分の側の認識の変化のことではないか、ということです。

つまり、対象物をどう捉えるかの、枠組みの変化のことではないか、というわけです。

ここから、例えば小学生が初めに足し算を習うときに、例えば、「みかんが3個、りんごが2個で、合わせて何個ですか」という問題が困難に感じる理由も、一つ推測できます。

それは、認識の枠組みの変化を、対象物の変化として捉えようとしているために、混乱が生じているのかも知れない、という可能性です。

では、このことを特に疑問にも思わなくなっている状態とは、もしかするとですが、認識の枠組みの方を見てはいても、対象物そのものはあまり目に入っていないのかも知れませんね。

こうしたことが生じる理由は、おそらくですが、脳内の演算量の節約です。

例えば、もし現実をありのままに捉えていたら、演算量が膨大になりすぎます。

しかし、例えば上の画像を、「コインが2枚ある」と、ざっくりとした枠組みで捉えると、ありのままの現実は、その枠組みに対して、いわば「背景」に退くために、かなりの情報処理量を節約できます。

言い換えると、画像に対して「キャプション」をつけるわけです。

そうすると、その「キャプション」に基づいて、画像に描かれている様子を推測するという方針が立つために、ありのままの画像を捉えるよりも脳の負担が軽くなります。

これはあくまでも一つの推測ですが。

そのために、人間の意識は、どうやら、ありのままの現実に対して、言わば「ワンクッション置く」ようにして、仮想現実を目の前に用意しているのではないか。

つまり、あくまでも、知覚された情報をソースにしてはいますが、そこに対して、ある一定の知覚(認識)の枠組みに基づいて それらの一次情報を取捨選択することによって構成された、一種の仮想現実(二次情報)を目の前に用意していて、その仮想現実が「現実」だとして生きているのではないか。

言い換えると、その仮想現実は、ありのままの現実に対して、自分なりの解釈を加える、つまり、情報に対する取捨選択がなされていることにより、いわば「情報量が間引かれて」いるわけです。

そして、そのことによって、何か脳にかかる負担が軽減されています。

そうすると、どうなるか。

これは、私が今夜の食事のために買ってきたコンビニ弁当です。

(自炊は今はちょっとお休みしています)

私がこれから食べるのは、果たして、この弁当なのか、それとも、仮想現実の中の弁当のイメージなのでしょうか。

この辺りで、「あるがまま」ということの意味が、何か少し見えてきた気がします。

さて、たまたま私は自分のことを例に挙げましたが、もしかすると、ここで、私が夕食にコンビニ弁当を食べたという話で、頭がロックオンされてしまった方もいるかも知れません(笑)。

人はそんなもんなんです。

つまり、事柄とかは「割とどうでもよく」て、人がどうしているか、どういう人なのか、といった、「ゴシップ」にしか初めから関心がないんですね。

私はここで、実はかなりの「恨み」(笑)を発散させていますが、それは、私が何をどれだけ話しても、人は、話されている内容はほとんど受け取らなかった、という「恨み」です。

話の内容ではなくて、例えば、「つまり、あなたは自分がどれだけすごいかをわかってほしいんですね」とか、なんだか、存在しない主体を一生懸命に見いだそうとして、本当にもう、「涙ぐましい努力」をしているようにすら感じることもあります。

その様子は、もう、「けなげですね」としか言いようがないこともあります。

あまりにも話があれかもしれませんので、ちょっと話の切り口を変えてみます。

さて、この動画をご覧ください。

例えば、この女性の方は、動画の0分51秒の辺りで、「私は目覚めたいのです」と話しています。

それに対してムージは、「なぜあなたは目覚めていないと考えるのですか?」と話します。

それに対して、女性は少し考えます。

これが、目の前で起きていることを「仮想化」しているときの「タイムラグ」です。

そして、この女性は、「私が目覚めているとは思えません」という「仮想の結論」を出します。

だんだんおわかりになったと思います。

ムージとしては、「あなたは初めから目覚めているのだから、ただそのことに気がつけばいいだけなのに」と思っているわけです。

ですが、この女性の方は、「私はまだ目覚めていない」という「仮想現実」を維持することに必死になっています。

ですが、この女性にとっては、実際に、自分はまだ目覚めていないとしか感じられていないわけです。

そのために、「あなたはすでに目覚めているんですが」という指摘を受けても、そのことを全力で否認することしかできません。

なぜなら、「自分は目覚めている」という事実は、認めるには「あまりにも恐ろしい」からです。

ですから、ここで強制的に、「目覚めた人」になろうとすると、「目覚めていない」と必死になっている自分を、実は「隠蔽」してしまうんですね。

おそらく、今までの霊的な教えで全くといっていいほど触れられてこなかったのは、ここではないかという気がします。

というのは、上で描写したように、「私はまだ目覚めていない」という、その女性にとっての「現実」は仮想的であるために、ムージの側からはまるで見えません。

ですから、ムージとしてはただ、「目覚めていることに気がつけばいいだけなのに」としか思えません。

ですので、例えば動画の1分33秒辺りからは、「”I am”とは、私は存在するという感覚です」というムージの発言に対して、その女性の側からは、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、「I am」が必死で受け応えているという、実におかしなことが起きてしまっているわけです。

つまりは、ムージのこの発言は、この女性にとっては、ただ「圧」をかけられているとしか感じられません。

なぜならば、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実の中にいる場合には、こうした「霊的な正論」は、ただのプレッシャー以上のものではないからです。

ですから、その女性は、「私に”I am”を見つけられるか、わかりません」と、一見すると、否定的な自己主張か、あるいはムージの言う「真理」に対する拒絶をしているようにも見えますが、実はこの女性は、おそらく、ムージの発言から感じた「圧」に対して受け答えをしているのではないかと感じられます。

そうすると、1分44秒でムージが、「”I am”が”I am”を見つけたいと思っているのです」という発言の真意も、なんとなく見えてくると思います。

ですから、こうした「仮想現実」は、ただもう自分をとことん傷つけるものでしかなくなっているんですが、それでも人は、ただそれだけしか自分を守ってくれるものはないからと、必死になってその「仮想現実」にしがみつくしか「選択の余地がない」と感じてしまっているわけです。

ですが、くどいほど申し上げますが、こうしたことは、私はいわば「第三者」の視点から捉えているので、このように、ある意味で「情け容赦ない」描写になってしまっていますが、この女性にとっては、「私はまだ目覚めていない」という仮想現実が「現実」だとしか見えませんから、何もかものニュアンスか真逆になって捉えられているわけです。

まあ、ですが例えばこの女性が、何かムージの話を、子どもが必死に何かを訴えているのを受け止めているかのように、「共感する」気持ちで聞いていたとしたら、例えば、「あなたはとても素晴らしいことをおっしゃいますね」というようにして、一言でまとめることによって、その「脅威」を低減しようとします。

言い換えると、人は普通に、「この人はこういう人だ」「この話はこういうことだ」という「枠組み」に基づいて、一連の情報を整理します。

ですから、その枠組みに入らない情報を知覚すると、混乱します。

ですが、その反面、いったん形成された「枠組み」は、とても強固です。

「あの人は何か怪しい」という「仮想の結論」が出たら、もう「一巻の終わり」(笑)ですね。

すべての言動が、「怪しさ」に関連付けて捉えられるようになりますから。

そうすると、その人は実際にも「怪しい人」であるとしか見えなくなっていきますね。

例えば、自分自身のことも含めて、人に対するイメージは、得てしてこのようにして形成されていきます。

まあ、奇跡講座の学習者であれば、こうした仕組みが何を意味しているのかが、薄々感じられてきたと思います。

だからこそ、こうした枠組みはもう不要だから、少しずつでも取り去っていこう、というのが奇跡講座なわけです。

で、どこかに私は、「一次情報」と「二次情報」という言葉を用いましたが、一般的に言う「あるがまま」の状態とは、実はまだ、「一次情報」に対して、すべてを真逆に捉えるようなフィルターをかけていない二次情報、が見えるようになった段階です。

つまりはおそらく、奇跡講座で言う「実相世界」とは、このことなのかもしれません。

問題は、この一次情報自体もまた、「それ」そのものではない、ということです。

ですが、例えばよく言う「世界は幻想」というのは、この一次情報自体もまた幻想である、というところに言及している印象があります。

そうではなく、二次情報のニュアンスが逆転していることが、「世界は幻想」ということの、とりあえずの意味です。

ですから、この「逆転現象」が根本的に回復するときに、自分から見ていると、あたかも何もかもが狂ったかのように見えますが、それこそが、知覚の転倒が根底から訂正されていく、まさにその渦中であるために、一時的に何もかもがわからなくなるわけであり、このことをテキストでは、「実際に方向性を失ったような感覚」(T-16.VI.7:4)と書かれていますが、これは、元の言葉は精神医学の用語で「見当識障害」あるいは「失見当識」と訳される言葉であり、私の体験からは、この方がより的確に表現されています。

例えば、自分が誰なのか、今が「いつ」なのか、「ここ」はどこなのか、とか、そういった、基本的な現実感覚ですらも、一時的には不安定になります。

場合によっては、世界が今にも滅亡していくのではないかとか、他の人が自分を陥れようとしているとか、世界が自分を抹殺しようとしているとか、とにかく、自我が必死になって隠蔽しようとしてきた、ありとあらゆる「心の闇」が洗いざらい出てきます。

ですが、そうしたことは一切合切、ただ通り過ぎていくことです。

しかし、例えばこの前に、他の人とものすごい敵対関係にあったりとか、そうした問題を抱えていると、ここで体験される感覚が現実のものだとしか思えなくなります。

例えば、極端に言うと、「あの人が自分を失脚させようとしている」とかの「証拠」を、世界の至る所に感じたりもします。

あるいは、他の人の心の中に、「悪意」や「敵意」などをリアルに感じたりもします。

にもかかわらず、他の人から見ると、そんなことは何一つ起きていません。

ですから、「あの人は何かおかしなことを言っている」としか見えません。

テキストでは割とさらりと書かれていますが、実際にはこうしたとんでもない内的混乱を通過します。

もちろんこれは個人差がありますから、必要以上におびえる必要はありません。

ただ、全く何もないということは、おそらくありません。

なぜならば、それまで転倒していた知覚が根底からひっくり返るということは、自分にとっては、現実そのものが根底から揺らぐ体験として感じられるからです。

この、「ぐれんとひっくり返る」時期自体は、実はそれほど長くはなく、「急を要するのはただ、あなたの心を、この世界に固定化された状態から解き放つことのみである」(T-16.VI.8:3)という局面において、上に述べたようなことが起こります。

ここでようやく、「自我があなたに差し出した救済の真似事」(T-16.VI.10:1)から、脱出できるわけです。

そして、橋を渡る前には、「それ(天国)はあなたの外にあって、橋の向こう側にあるように見える」(T-16.VI.11:2)わけですが、「天国につながる」(T-16.VI.11:3)ために橋を渡ると、「天国があなたにつながって、あなたとひとつになる」(T-16.VI.11:3)わけです。

これは、どこか遠いところで起きるのではありませんから、あたかもこれが、どこか遠いところで起きるものであり、自分にはとても手の届かないものであるかのような捉え方とは、つまりは、まだ橋を渡っていないのに、橋を渡ることについて述べているということです。

そして、橋を渡るために必要なことが、まずは、「聖霊の視座を共有しようというあなたの意欲」(T-16.VI.12:2)と、もう一つは、「解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識すること」(T-16.VI.12:5)であり、そのことによって、「聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる」(ibid.)というわけです。

そして、「無は無でしかないのだから無を手放そうという単純な意欲」(T-16.VI.10:7)というのが、つまりは、自我をつなぎ止めている自分の中の「引っかかり」を手放すことになり、ここで自我から自由になることができます。

で、ちょっと「ちくっ」(笑)とすることを書き添えますと、「神は橋の向こう側にいて、こちら側にはまったく何も無い」(T-16.V.17:2)のですから、「神はこの世界には介入しない」というのは、つまりは、単に自我の枠組みの中には神は入ってこないということであり、実相世界自体のことではない、ということです。

もちろん、自我の機能は神を締め出すことですから、これは当然ですが、それは、上で言う仮想現実の中、つまり、先ほど引用した表現で言う「橋のこちら側」には神は不在だ、ということです。

しかし、橋を渡る前は、その仮想現実こそが現実だと見えています。

さて、こうして、ただひたすら「通り過ぎていく」ことにより、やがて「赦された世界」(T-17.II.h)が見えてきます。

ここに至って、実相世界は確固たる現実として感じられるようになります。

橋を渡り終えると、この世界は実際にこのように感じられてきます。

「この麗しさは空想ではない。これは実相世界であり、広々とした青空の下ですべてが光り輝く、明るくすがすがしい新しい世界である」(T-17.II.2:1-2)

これは、実際にそう感じられますから、某ワプニック博士の大好きな「暗喩」ではありません(笑)。

(博士、茶化してすみませんm(_ _)m)

さて、まあ確かに、橋を渡り終えた直後は、まだ、こうした表現は「文学的な比喩」程度ですが、いずれはやがて、これは肉眼でもリアルに感じられるようになる、つまりは、実際にすべてが光り輝いているのが見える、というような段階があるのだろうと、私は予想しています。

ただしもちろんですが、こうしたことは、「世界は幻想」とまではとてもまだ遠いように感じられるかも知れません。

ですから私は、こうした自分の体験からの理解が絶対的なものだとは思いません。

単に私には、このような「回りくどい」道しかたどることができなかった、というだけのことかも知れませんから。

ただ、まあ一応ですが、T-16.VII のタイトルは、「幻想の終わり」となっています。

で、T-17.II.2:4 には、この橋は実は、とても小さくて楽々と渡れると書かれていますし、実際に、この橋にたどり着くまでの労苦を思うと、ごくわずかな努力しか要しません。

しかし、「この小さな橋は、この世界に少しでも触れているものの中で最強のもの」(T-17.II.2:5)であり、まさにここに至って、この世界はそれまでは、大変「いい」ところに思えていたとしても、ここですべてが「暗転」して、いきなり、橋のたもとには、ありとあらゆる「脅し文句」が書かれているのが目に入り始めます。

というのは、この橋を渡って無事に帰ってきた人は誰もいないのと、途中で引き返してきた人は、みな一様に、気が狂ってしまっていたので、この橋は何かとても恐ろしいものに違いないという「伝説」ができあがってしまっているからです。

実は、橋を渡り終えた人は意外にいる、ということが、橋を渡り終えるとわかってきますが、そうした人は、市井の中で普通に暮らしていて、たぶん、本人は自分が橋を渡り終えたことすらも無自覚の場合がほとんどでしょう。

そして、「最も小さな木の葉でさえも感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる」(T-17.II.6:3)というのは、橋を渡る前だと、この幻想世界の中にも、神の創造の片鱗は見られる、というように捉えられますが、橋を渡ると、これこそがまさに神の創造であると感じられるようになります。

で、ここまで来て、はじめて、奇跡講座に書かれていることが本当の意味でわかり始めます。

おそらくは、この文章は、学習者によっては、ものすごく反感を感じたり、あるいは際限のない疑いの気持ちや、場合によっては激しい憎悪や激怒をもたらすかも知れません。

抑圧されている感情のすさまじさは、私も身をもって嫌と言うほど体験してきました。

ですが、橋を渡ることに関するガイダンスが、あまりにも少ないという現状から、私は書きました。

でないと、すでに橋を渡るところまで来ているにもかかわらず、その手前で立ち往生している方があまりにも多いと感じられるからです。

それはとてももったいないことです。

さらに言うと、世界はそろそろ、総体としても、この、実相世界への橋を渡る段階に来ています。

ここを渡り終えると、この世界はそのまま、天国を反映したものになります。

正確に言うと、そうしたものとして知覚されるようになります。

そして、これは例えば、禅で言うならば「魔境」であり、また、巫病やシャーマンの病と呼ばれるものもこれに酷似していることから、おそらくは、この橋に関する知識は、全世界に見られるのではないかという気がします。

ただし、今までは、この橋を渡った人はごく限られていましたが、これからの時代は、おそらくは、橋を渡る人と渡らない人とに、どうしても大きく二分されてしまうのではないかと思われます。

これは別に私が特定の人にダメ出しをするとかではなく、橋を渡るかどうかは、ひとえに一人一人の自発的な意欲と選択にのみかかっているからです。

でも、こうした私の発言もまた、先ほどの「仮想現実」の中では、例えば、「この人は、自分こそがすべてを裁くと言っているぞ」とか「私は絶対に正しいから、私の言うことを聞きなさいとは、なんて偉そうな」といったように感じるわけです。

ま、そういうわけですんで、異論・反論はもちろんありますから。

私は別に、自分こそが絶対に正しいとは思っていませんが、読む人によってはそう感じるでしょうし。

なので、そうした場合にはもう、ただ「無」を手放してくださいとしか言いようがありません。

本当に、それぐらい人は、文字通り「幻想の世界」の中を生きています。

そこからの脱出がいかに容易ではないか、しかしその一方で、脱出してみると、どうしてこんなにたやすいことが今までできなかったのだろうと感じるのもまた、事実です。

なんか、初めは、「1+1=2」に関する気づきをシェアするだけのつもりでしたが、途中から、何かとんでもない方向に話が展開してしまいましたが(^_^;)

で、ここに書いた、「一次情報」と「二次情報」とかの区別は、まだ思いつきの段階ですので、これから、いろいろと細部に関しては変化があるかも知れないので、あまり厳密に受け取らないでいただけるとありがたいです。